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3.僕の中が賑やかすぎて困る

 驚いたような顔だったのは一瞬だけ。ぱちりと瞬きをした彼女は、すぐに視線を逸らして唇を尖らせた。

「あーあ。ダメだったかあ」


 少女は拗ねるような声と共に全身を現す。フリルのついたスカートが揺れる。軽く頬を膨らませた彼女の手には、見慣れた調理器具。包丁。

 そのまま一歩、近寄ってくる。


「いや。待って。それ、危ないから――」

 しまっておいでよ、という言葉はあっさり先読みされ、遮られた。

「ん。大丈夫。今から使うから」

 今から使う。とは。

 ここにそんなもの使う対象なんてない。ないはずだ。

「ホントはもう少し丁寧にまざってくれたら良かったんだけど……」

 彼女の目がちら、と鏡を向く。

「急いじゃったのが良くなかったわ。なんか邪魔も入ったっぽいし。さっさとテオひとりにしちゃった方がいいわね」

 そして彼女は、ためらいなく包丁を振りかざす。

 まだ重たい腕で、振り下ろされた腕を受け止め、流す。一瞬交差した視線に、純粋な殺意が見えた。

 空振りに終わった包丁から手を離し――反対の手で掴んで切り上げる。仰け反るように避けた頬を、切っ先がかすめる。

「あっぶな……」

「なら、避けない方が楽よ」

「避けないと刺すでしょ!?」

「そうね」

 彼女の手から包丁が離れ、宙に浮いた。刃先が煌めく。そのまま飛んでくるかと構えた瞬間、彼女は柄を掴み直して振り下ろした。防御が間に合わない。

 あ。これは刺される。

 腕を盾にして目を瞑ったけど――そんな衝撃は来なかった。


 目を開ける。

 そこには、彼女の腕を掴む影があった。

 なんとなく覚えがあるけど、うすぼんやりとしていてよく分からない。


「全く」

 けほ、と影が小さく咳き込む。

「君、色々と見失いすぎだよ」

「……」

「何よ! 何なの!? ちょっと離して!」

 じたばたと暴れる少女には目もくれず、影は言う。

「須藤――いや、ここはこう呼ばれていたね。テオ君」


 その名前に、意識の奥で何が小さな音を立てる。

「今置かれている状況も分かっていないだろうけど、君の油断のおかげで私もこの有様だ。もう一寸だったのに、君は血を流しすぎた」

「血を……」

「覚えてないだろう。君、間抜けにも刺されたんだよ」

 影の視線が、腕を掴む少女に降りる。

「彼女にね。そして、血を飲まされた」

「……」

「私の時と同じさ。そして、その血には魂を補強するまじないが施してあった」

 私ほどの強さじゃないけどね、と彼は嘆息する。

「助ける心算は無かったけども、彼らには退場してもらわないと色々差し障る――さあ、考えるといい。君の名前は?」

 答えてごらん、と影は言う。


 名前は?

 問われるままに考える。


 テオ……テオドール……いや、ウィリアム。違う。もっと。他の。

 さっき呼ばれた気がする。頭がくらくらする。なんか思考が窮屈だ。でも、考えを放棄する訳にはいかない。きっと、あの影が許してくれない。それだけはなんとなく分かる。


 考える。

 思いつく名前を追い出して。

 自分の中身を掘り返して。


 指先にこつんと当たった景色。

 冴え冴えと晴れ渡った、月のない夜空。

 僕の。名前。


「無月……。須藤、むつき」


 その名前を口にした瞬間、目が覚めたような気がした。

 意識もクリアだ。今ならあの影が誰かも、いや、名前は知らないけど。誰かも分かる。


「状況、分かったかい?」

 影は溜息をつく。

「多分……思い出した」


 ならいいや、と影は溶けるように消え失せた。

 掴んでいた手が消えて、たたらを踏んだ少女がばっと振り返る。

 自分の腕を掴んでいた影を見定めようとしたのだろう――が、彼はもうそこには居ない。

「え。何……今の、何なの……?」

 戸惑う彼女に僕が代わりに答えてやる。

「君より先に、僕の身体を狙ってたやつ」

「は?」

 少女は包丁と共に勢いよくこっちを向く。その勢いで、刃が僕の服をかすめる。

「おっと。危ないなあ」

 その手をちょっと叩いて、包丁を落とす。

 床で跳ねたそれを部屋の端まで蹴り飛ばし、少女の腕をそのままひねり上げる。

 端で傍観してるあいつに包丁が当たれば良かったんだけど、残念ながら、影は少し高い棚に悠々と座っていて足をかすめることもできなかった。

 代わりに、その下に倒れていたもうひとつの影――黒髪の青年に当たった。


 彼が僕の中に居ないだけでこんなに気分が晴れやかだったか、とここしばらく実感していなかった調子の良さを少しだけ噛み締める。

 噛み締めながら、この狭い部屋の人口密度に溜息をつく。


「……あのさ。僕の中、こんなに賑やかになられても困るんだけど」

「それは君が隙だらけなのが原因じゃないかい?」

「うるさいな」

 平和に生きたいだけなのに、どうしてこんなに集まってくるんだか。一人は自業自得としても。そんな僕のぼやきにも、影はくすくすと笑っている。

「そんなことより、そろそろ君は目を覚ますべきではないかな」

 影は突然そんなことを言った。

「この状況で……?」

 そうさ、と影は頷いたようだった。

「ここは君の夢の中。君に取り込まれた数多の命が彷徨う場所。その中で特に力や妄執の強い者だけがこうして姿を見せている。が、まあ。今は放っておいても構わないだろう?」

「……え。いや。君が一番放っておいちゃいけない気がするんだけど」

「いや、ここではもう、しばらく何もできないさ。大人しくしてるよ」

 そう言いながらも、影は笑った気がした。嫌な予感がした。

「ふふ、その目は信用していないね」

 音もなく棚から降りた彼は、落ちていた包丁を拾い上げる。

 その刃を指でなぞり、愛でるように首を傾けた。

「なに。心配はいらない」

「包丁持ったヤツというか、お前の何を信じろって?」

 つい、と視線がこっちを向いた気がした。影に目も何もないけど、とろっとした視線を感じる。

「ふふ、君のその目は嫌いじゃない。それに免じて、しばし番を買って出てあげようってだけさ。こんな所より、君には目を向けるべき場所があるだろうと思ったのだが?」

 ほら、と彼が包丁の先で洗面所の外――リビングを指した。


 リビング。

 ここに居ない人物。

 倒れた時に見た、灰色の髪。


「!」

「まあ、私がもう一度彼女の元に戻っても良いというのなら別に――おっと」

 少女の手をふりほどくように離す。彼女は青年の足元へ転がる。そんな光景を視界の隅にひっかけて、ばたばたと洗面所を後にした。

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