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2.早くに目を覚ました■■は。

 部屋を出ると、キッチン前の椅子に知らない少女が座っていた。

 長い金髪に琥珀色の瞳。ブラウスに緑のスカート。見覚えは……いや、見たことだけは、ある。夜の街でテオと一緒に居た少女だ。

 どうしてここに彼女が居るのか。いや、それよりしきちゃんは――。

 思考が彼女から離れたその瞬間。


 腹部に殴られたような衝撃が走った。


 一呼吸遅れて、焼けるような痛さも襲う。

「な……」

 手を当てる。硬く冷たい何かに触れた。生暖かい液体が服に滲む。

 視線を下ろすと、そこには一本の包丁が深く刺さっていた。

「……」

 無言で包丁を抜く。抜いた途端に血が一気に服を濡らす。

 べちゃべちゃと温かく濡れた服が気持ち悪いし、傷は痛い。けれどもこの程度の傷なら、まだなんとかなる。とりあえず血を止める。

 傷の手当は後回し。先に解決すべきは、あの少女だ。

「君……どうしてここに、居るの?」

「あら。やっぱり包丁一本じゃ駄目ね」

 彼女は僕の質問をきれいに無視して、思案するように視線を逸らした。

「やっぱり――数に物言わせないと駄目かしら」

「ねえ、質問に……っ!?」

 少女の目が僕を冷たく射貫いた。純粋な殺意に言葉が詰まる。

 その周りに、ポット、ナイフ、ハサミまで。周囲のあらゆる刃物や雑貨が浮く。

 その全てが僕への敵意を持って、刃先を向ける。

「貴方に答える義理はないけど、挨拶とお礼くらいはするのが礼儀ね」

 そう呟いて、彼女は口の端を上げて笑った。

 それは花のようで、奥に何かを秘めた笑顔。

「はじめまして。ありがとう。――それじゃあ、さようなら」

 すいと動いた指が僕を示すと、それに従うように、浮いていた物が次々に飛んでくる。

「っ!」

 咄嗟に影を盾にして、手にある包丁で弾く。けど、圧倒的な物量に勝てない。

 重たい物はその重量をもって襲いかかり、刃物は次々に僕の身体へと突き刺さる。

 影のコウモリが霧散する。勢いと数に押されて足がふらつく。弾いた拍子に手から包丁が滑り落ちた。ドアノブを掴んで、倒れるのは堪えるけど。

「ぐ……」

 さすがに、耐えきれない。

 骨が何カ所かやられている気がするし、庇おうとした腕にもミキサーの替え刃が刺さっている。身体をなんとか支えてるドアノブは、血で滑りそうだ。

 力が抜ける。膝から崩れ落ちる。座り込むだけになんとか留めて――僕はやっと、床に倒れ伏したしきちゃんに気付いた。

 髪に血がついている。これも彼女の仕業か。

「し、きちゃ……」

「あら。そんな状態なのに彼女の心配なんて。紳士ね、と言っておこうかしら」

 睨むと同時に、視線で彼女の動きを止める。焦点が合わない。うまくいかない。彼女にも効いた様子はなく、煩わしげに僕の視線を払ったのが見えた。

「彼女に、なにを……した」

 ああ。自分の声も遠い。倒れるのは堪えているけれど、痛みが尋常じゃない。血が止まらない。止めきれない。

 少女は小さく溜息をついたようだった。

「邪魔だったの。貴方に恨みはあるけど人間の子に罪はないから。殺してはないわよ」

 死んでない。彼女の言葉を全て信じる訳じゃないけど、その一言に安堵する。

 そして、彼女の勘違いを、切れ切れの呼吸で笑う。

「ざん、ねん……彼女は、違うよ」

「え?」

「うちの……座敷童、だか、ら……」

「ざしきわらし?」

 少女は首を傾げる。


 何かしらそれ、と言う声が聞こえた。

 が、僕にはもう答えるだけの力はなかった。

 手が、ドアノブから離れる。

 頭が、意識が。視界が霞む。寒い。

 そして僕は、そのまま暗闇の底へ落ちていった。


 □ ■ □


 目を覚ました。

 カーテンの隙間からは朝日。ドアの向こうには誰かが動く気配。

 なんだか良い匂いも漂ってくる。


「あ、れ……?」

 なんだかお腹が痛いような気がする。さすってみたけど何もない。筋肉のつかない腹をさすっていると、匂いに釣られた身体が空腹感を訴えた。

 枕元の目覚まし時計を手探りで取って、時間を確認する。

「……7時前、か」


 不思議な夢を見たような気がした。

 内容はうまく思い出せない。

 誰かが笑ってるような。ずっと誰かを探してるような。

 なんだか痛くて。苦しくて。寒くて。寂しいような。

 空っぽの何かが縁だけ残して消えたような、もやもやと残る夢。

 なんだかもどかしいけど、思い出せないものは仕方ない。

 夢は記憶の整理だとも言う。きっと、記憶の何かが片付けられたのだろう。

 いいや、起きよう。


 ベッドから抜け出すと、思ったより身体が軽かった。ダルさはあるけど、今日一日のんびりするには問題ない。

 少しなら散歩に行ってもいいな、なんて思いながら着替えてドアを開けると。

「あ。おはよう! ご飯できてるよ」

 元気よく響く、聞き慣れない少女の……。 


 ――。


 いつもと変わらない元気な声が飛んできた。

「ああ……おはよう。今日も元気だね」

 金色の髪を背中に揺らした少女。エプロンをつけて、機嫌良く台所に立っている。


 漂うのはパンが焼ける匂い。ドアの向こうに居た時は、何か違った気がするけれど――きっと気のせいだ。どうやら頭はまだまだ寝ぼけているらしい。失敗してるぞ記憶の整理。

 彼女はこっちのリアクションにも機嫌よさげにしている。

「調子はどう? 疲れてない? 今朝はピザトーストにしてみたの」

「うん。調子は……」

 いつも通り、だと思う。何かが引っかかるけど、楽だと思う。そんな答えは、あくびでふわふわとした言葉になっただけだった。

「あー、また夜更かししてたでしょ。ダメよ? 太陽に慣れないと」

 台所を通り越して洗面所へ向かおうとすると、いつもの小言が飛んできた。

「分かってるよ。昨夜はちょっとレポート残ってて」

「まったく。お勉強もいいけど、身体、大事にしてよね?」

「うん……分かってる」

 そんな言葉を残して洗面所へ。


 顔を洗って。

 顔を上げて。

 鏡に映った自分に違和感を覚えた。


 ――あれ?

 俺は、こんな青い瞳だったっけ。

 僕は。こんな黒い髪だっけ。

 俺は……こんな、顔だったっけ?


 いや。そもそも。

 ■■は――誰だっけ。


「いや、いやいやいや……」

 タオルで顔を拭いて、鏡の自分と向かい合う。

 寝ぼけてるにも程がある。いつもと変わらない顔じゃないか。


 長くなってきた黒い髪。

 前髪から覗く、少し垂れた青い瞳。

 日に焼けにくい白い肌。


 ほら、いつもと変わらない。

 けど。さっきのなんだかもやっとした夢が、わずかに形を持ったような気もした。

 目が霞む。水が入ったのだろうか。

 もう一度顔を洗ってタオルで拭くと、鏡に映った姿はまた違うものだった。


 髪は灰色で。赤くて。黒くて。

 目は髪に隠れて見えなくて。青くて。深い茶色で。

 肌は不健康そうに青白く。日焼けとは縁遠い白さ――。


 目眩がした。洗面台に手をつく。頭の中で情報がかき混ぜられているようだ。

 誰かの生い立ち。知ってる場所、夢で見た家、煤の匂い。新聞記事。パンの香り。食堂のお弁当。友人。石畳。学校。教会の庭。星空。冴えた夜の公園……。

 スライドのように現れては消え、視界をかすめて去っていく。


 それはとても。

 そう、とても、不快。

 不快で仕方なくて。

 それをただぶつけるように鏡を殴りつけた。


「――まったく滑稽だね」

 顔を上げると、鏡の中の自分が笑っていた。

 いや。声も表情も分からない。でも、笑っている。そんな気がした。

 拳は添えられた手に止められている。鏡にはヒビひとつ入っていない。

「……は?」

 困惑したまま瞬きをすると、鏡の中の自分はようやく変化を止めた。


 灰色の髪の青年だった。

 深い茶色の瞳にある感情は呆れ。哀れみ――いや、軽蔑だろうか。

 そんな感情を隠しもしない目を伏せ、彼は溜息をつく。

「君。私にあれだけ啖呵を切っておいて、こうもあっさり閉じ込められるなんて。情けないとは思わないのかい?」

「……?」

「おっと。その表情。本当に忘れてしまっているのか?」


 忘れた? 何を。


 口に出さずとも、その疑問は彼に届くらしい。「何を、とは」と、呆れたような呟きが漏れた。

「本当に情けないな。一瞬でも様子を見ようと思った私が馬鹿だったのかもしれない」

 はあ、と彼は小さく溜息をつく。

「覚えているはずだけどね。君は。私を。彼女を。君自身を――」

「何を……」

 彼が片目だけでこちらを見る。

「そうか、分からないならば結構だ。私は忠告したし、二度と言う心算も無いからね」


 彼の指先が、己の目に触れる。

 自分の濡れた指も、同じように動く。

 指に残った雫が、頬を伝う。


「やはり初志貫徹というのは大事だね。うん。さあ、目を閉じて」

 指が触れる。言われるままに瞼が重くなる。眠気のように、意識も思考も揺らぐ。

「君は本当に油断しすぎた。私の言葉だけでなく己の言葉すら忘れるとは」

 瞼が落ちて、声だけが頭の中に響く。

 水に酔うような。涼しげだけれども、人を惑わす。自信を惑わすそんな声。

 立っていられない。

「うん。思い出さなくていい。目も覚まさなくていい。万が一目覚めたとしても。もう――」

 声が染み込む。思わず床に座り込む。

 ただ、このまま声に従うのは嫌だという感情だけが、眩む意識に抵抗する。

 僕は。俺は。なんだっけ。

 考えろ。思い出せ。どんな小さな欠片でも良いから。


 霧と霞の街。

 誰も居ない離れ。

 余っている部屋。


 不機嫌そうに新聞を読む横顔。

 タイを引かれて間近に見た恐怖。

 生き物の気配がない庭。


 それは、それは――。


 ぐちゃぐちゃとした意識が、すうっと平らになっていく気がする。

 ああ、だめだ。もう少しな気がするのに。手が届かない。

 そのまま――。


「ねー。テオ。まさかそこで寝てるの? ごはん冷めちゃうわよ?」

「――!」

 遠くから飛んできたその言葉で、意識がわずかに晴れた。


 そうそう。そうだよ。何を忘れてるのさ。

 ノイスと二人で日本に来て、長く暮らしてるというのに忘れるなんて。


「――わす、れる?」

 いや。違う。まだ、大切な何かを忘れてる気がする。瞬きをして、意識のもやを払う。何かを探るように動かした手が、腹部に触れる。痛みも何もないけれど、そこに何かがあるような。いや、何もない。ならば、一体何を……。

「もー。テオったら!」

 突然、場違いな声がひょこりと洗面所に顔を出した。

 ふわりと流れる長い金髪。琥珀色の瞳。薔薇色の頬の少女。

 ああ、彼女は――。

 名前が、出てこなかった。


「……誰?」

 零れたその一言で、彼女の目の色が変わった。

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