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1.夕方のお客様

 今日も、お兄さんの部屋は静かでした。


 あの夜から三日が経ってしまいました。

 部屋に駆け込んで行ったまま、お兄さんは出てきません。

 朝も、お昼も、夜も。物音ひとつありませんが、お兄さんの存在は感じます。


 時々ドアの前に立って、こんこん、とノックしてみます。

 鍵がかかっています。返事はありません。もしかして、と最悪の状態も考えてしまいますが、家の中の命が消えそうな気配はありません。

 本当は、誰かに助けて欲しいです。でも、ボクに頼れる人は居ません。連絡を取る方法も。ボクとお兄さんの関係をどう説明するのかも。分からなくて、動けません。

 だから、ボクはずっと待っていました。


 帰ってきた時のお兄さんを思い出します。

 しばらく前から具合が悪そうでしたが、あの時は一層顔色が悪く見えました。

 今のボクに何ができるかは分かりません。できるのは、家の人の行動を良い事に繋げたり、良い物を呼び寄せたりする位でしょう。家の人……お兄さんが動けない今、できる事はとても少ないです。

 どれだけでも待つつもりです。自分の意志で力が使えないボクは無力だと思い知りながら、願うのです。それでも呼び寄せられる何かを、お兄さんが目を覚ますのを。


 そして、今日もソファで膝を抱えて、後ろのドアが開くのを待っていると。


 ぴんぽーん


「!?」

 突然響いたチャイムの音に、身体が小さく跳ねました。

 ボクがこの家に来てから、誰かが訪ねてきた事はほとんどありません。どなたでしょう。

台所にあるインターホンのボタンを押すと、小さい画面にお兄さんと同じくらいの男の人が映りました。外の音と小さな雑音も聞こえます。男の人はもう一度チャイムを鳴らして、首を傾げました。

「……留守か?」

「あ」

 思わず出てしまった声に、その人がこっちを覗き込んできました。画面越しなのに、目が合いそうです。

「須藤?」

「あ、あの」

「ん? 須藤じゃない?」

「あ、はい。その……」

 どう答えて良いのか分からずに居ると、その人は「もしかして」とボクを指差しました。

「親戚の子?」

「は、はいっ。多分。そう、です」

 お兄さんはボクの事をそう話しているのでしょう。

 姿が相手に見えていない事も忘れて、こくこくと頷きます。

「俺、あいつの同級生で柿原って言うんだ。見舞いに来たんだけど」

「お見舞い、ですか」


 お兄さんが家に居なかった間、何をしていたかは分かりません。

 けれども、帰ってきてからのことは誰も知らないはずです。

 それなのにお見舞いだなんて。どういうことなのでしょう?


「とりあえず、須藤の顔だけ見たら帰ろうと思ってるんだけど……会える?」

「は、はい!」

 不思議な所はありますが、この人は大丈夫。悪人じゃない。

 直感ですが、そんな気がして。ボクは頷いて玄関へ向かいました。


 ドアを開けると外はもう夕方で。お昼の抜けるような空の端に夕焼けが滲み始めていました。

 茶色い髪で、身軽そうな格好をした人――柿原さんは、ボクを見て少し不思議そうな顔をしましたが、すぐに笑顔で「はじめまして」と挨拶をしてくれました。

「は、はい。初めまして……」

「君が須藤の親戚の子、だよね?」

 親戚の子。さっきもそう言っていました。

 こくん、と頷くと。そっか、と柿原さんも頷きます。

「前に須藤が、親戚の子とケンカしたって落ち込んでた事があってさ。仲直りできた?」

「けんか……」

 ボクとお兄さんがケンカをしたことはありません。けれども、お兄さんを困らせてしまったのは……きっと、ボクが血を吸われた時の事でしょう。

 はい、と頷くと「そっか。良かった良かった」と大きな手で頭を撫でられました。


 ふと。お兄さんに頭を撫でられた時の事を思い出しました。

 普段から力を制限しているというお兄さんは、優しく髪を梳くような感じで撫でてくれていました。

 柿原さんの手は強くて暖かくて。お兄さんの細くてひんやりとした手とは違います。

 パソコンを使ったり料理をしている手を思い出してみると、柿原さんの方が指にも力強さがあるように思えました。

 お兄さんに撫でられたのは、もう随分と前のような気がして。

 また、撫でてもらえるでしょうか、なんて。ちょっとだけ、そんな事を思いました。


「あ。もしかして触られんの嫌だった?」

 何も言わないボクに、柿原さんは慌てた様子で尋ねてきます。

「えっ。いえ。そんなことは……えっと、ごめんなさい」

 ボクがふるりと首を横に振ると、柿原さんは「そっか」と安心したように笑いました。からっとした笑顔に、ボクも少し落ち着いた気がします。

「もし、触られたりとか嫌だったらきっぱり断らないとダメだかんなー。須藤にもその辺は……っと」

 と、柿原さんの言葉が止まりました。

「そうだ須藤は」

「そうです、お兄さんが!」


 二人の声が同時に上がります。この後は何となく分かります。ぴたりと止まって、お互いの言葉を待つのです。

 この沈黙はボクが破っていい物か今でもよく分かりません。でも、このまま二人で止まっていては何も進みません。


「ええと……柿原さん」

 そっと柿原さんに話を差し出すと「ああ。うん」と頷いてくれました。

「須藤が何日も学校来ないから気になってさ。確かに朝は弱い奴だけど、学校を連絡も無しにサボるなんてなかったから」

「お兄さん、お勉強好きですから」

「だよなあ。学校でもパソコン室とか図書室とかばっかでさあ」

 外に居るお兄さんは、ボクが家で見ている姿とあまり変わらないようでした。

「それで、須藤の顔だけでも見ておきたいんだけど」

「あ……」

 この人を家に上げてもいいのでしょうか? 少し考えます。


 柿原さんがお兄さんを心配する様子に、嘘はなさそうです。悪い人でもないと思います。さっきは直感でしたが、少し話しをした今も、その印象は変わりません。

 それに、もしかしたら。

 もしかしたら、あのドアを開けてくれるかもしれない。

 なんとなくですが、そんな気がしました。


「その。お兄さんは、最近具合が悪そうで」

「やっぱりバテたか」

 仕方ねえな、と柿原さんは溜息をつきました。でも、そこに嫌な感じはありません。

「なので。もしかしたら寝ているかもしれませんが……」

「ん。良い良い。出てこなかったらこれだけ置いて帰るよ」

 そう言って、さっきからがさがさと音を立てていたビニール袋を掲げて柿原さんは笑いました。


 □ ■ □


「こちら、です」

 リビングに面した一番奥のドア。そこがお兄さんの部屋です。

 ですが、その部屋は今、物音ひとつしません。お兄さんは居るはずなのに、誰も居ないみたいに静かです。

 ドアの前に立った柿原さんは、ドアをまじまじと見ていました。ノブに手をかけますが、鍵がかかっていて動きません。

「……ちっ。おーい。須藤ー? 生きてるかー?」

 ドアの向こうのお兄さんに問いかけます。返事はありません。

「こりゃ本格的にダウンしてんな? 苦手なのは分かるけど、やっぱ日に当たらなさすぎなんだよな。夜型人間め」

 ぶつぶつと聞こえる言葉は、文句のようでいてやっぱり心配なのだとよく分かります。良いお友達なんだと、なんだか嬉しくなります。

「須藤ー。授業のノートコピー持ってきたぞ」

 こんこんこん、とノック。もちろん返事はありません。

「んー……静かだな」

 ごんごん、とさっきより強めの音で叩きます。

「お兄さん、この間帰ってきてからずっとそうで……」

「えー引きこもってんの? 確かに具合悪そうだったけど」

 ううむ、と柿原さんはドアに向かってぶつぶつ言っています。そして突然。

「おいこら須藤! 具合悪くても良いからさっさと起きろ、顔出せ!」

 さっきよりも更に力強くドアを叩きだしました。このまま力が強くなっていけば、ドアが壊れてしまうかもしれません。

「か、かきはらさ……」


 かちゃり。


「お?」

 ボクが止めに入ろうとした時、小さな音がして。

 叩くのを止めた柿原さんの前で、ドアが少し開きました。


 薄暗い、電気もついていない部屋。そこから光るような青い目が見えました。

 綺麗な青い目は、ボクを見てぱちぱちと瞬きをして。それから辿るように上を見て――ドアがぱたんと閉じました。

「あっ」

 柿原さんが声を上げてドアノブに手をかけるのと、どちらが早かったでしょうか。ドアはすぐに開きました。

 お兄さんはとても疲れた顔で、柿原さんをじっと見ています。

「……柿原は、なんで……居るの……?」

「いや、連絡もなく学校来ないとか心配で?」

 柿原さんはちょこんと首を傾げて、持っていた袋をお兄さんに突きつけました。反対の手はしっかりとドアノブを握っていて、受け取るまで離さないつもりのようです。

「ほら、とりあえずこの栄養ドリンクとスポーツドリンクを飲め。そしてノートのコピーをありがたく思え。試験も近いぞ」

 目の前にぶら下がる白い袋、胸を張った柿原さんの顔。それからボクを見て。お兄さんは大きく息をつきました。それから白い袋をがさりと受け取って。

「はい。ありがとう……」

 疲れたような声でお礼を言ったお兄さんの視線が「それと」と、ボクの方を向きました。

「?」

 なんだろうと思っていると、お兄さんの頭がふらりと揺れました。

「!」

 倒れたのかと思って手を差し出しましたが、お兄さんは膝をついただけでした。ほっとしたボクを青い目が見上げます。

 久しぶりに見た気がするお兄さんの目は、少し陰って寂しそうな色をしていて。

「その。ごめんね。後で、改めて謝らせて」

 声は、とても悲しそうでした。

「え、いえ。あの。ボクこそ……」

 謝られるような事なんてありません。そもそもボクは、この家を幸せにする為に居るのです。お兄さんの顔を曇らせるような事こそ、あってはいけません。

 どう答えたらいいのか分からなくなったボクの頭に、ぽん、と大きな手が乗せられました。柿原さんの手です。お兄さんが、眉を寄せて視線を上げました。

 柿原さんは気付いていないのでしょう。はあ、と大仰に溜息をついてお兄さんに言い放ちました。

「須藤ったらこんなカワイイ子を困らせてたの? ダメな男め」

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