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2.友と過去との別離の味は?

「ああ――君が最近騒ぎになってる人、だね?」

 影は答えない。

 警戒したのか、女性をどさりと投げ捨てるようにして立ち上がった。背が高い男性だった。ナイフを手にしたまま一歩後ずさる。帽子が深くて顔が見えない。

 逃げるのかと思ったが、彼は逆に僕の方へ飛びかかってきた。

 曇った空が、赤く濡れたナイフに鈍く反射する。

「――ちっ」

 舌打ちひとつで躱す。数歩後ろに下がると、踵が液体を踏んだ音がした。

 影はそのまま立ち去ろうとする。させるか、と一歩踏み出して影を強く踏む。飛び出したコウモリの影が、石畳を滑って相手の影に吸い込まれる。急に身動きが取れなくなった彼が戸惑いの声を上げた隙に影を渡り、進路を塞ぐように立つ。

「な……」

「なんでこの状況残して逃げようとするのかな。足もつくだろうし勿体ない」

 影から彼女を引きずり出して突きつける。血に濡れた長い髪が指に絡む。

「ほら見ろよ。可哀想に、これじゃあ声も出ないし、折角の化粧も衣装も台無しだ」

 喉の切り込みが深かったのか、女性の身体は自身の重みに堪え兼ねて崩れ落ちようとする。ぷちぷちと小さく聞こえる音も、僕の影に滴る液体も。何もかもがもったいなくて、僕は頭を掴んでいた手を離した。

 石畳に落ちた血液が、影に同化して消える。地面に落ちた身体から零れたものも、石畳に付いた跡も、影が綺麗に舐め取っていく。

 手に残った血を舐める。思ったより甘くてさっぱりしていた。

「うん――まあまあかな。流石、目の付け所が良い」

 最後の一滴まで綺麗に頂いてる間も、僕は目を離さなかった。もう縛り付けてはないはずだけど、影は動かなかった。目の前で何が起きているのかを理解するので精一杯だったのだろうか。微動だにせず、生き物のように血を飲む影を見つめていた。

「――うん。今の僕は機嫌がいい。だから見逃しても良いんだけど、そうするとまあ……色々都合悪いんだよね」

 こつん、と一歩距離を詰めた靴の踵が乾いた石畳に響く。

「だから仕方ない。なにより、僕は約束を守らないといけないんだ」

 動かない影に僕は言う。

「本当は、やりたくないよ。大事な物を失うんだ」

 僕は笑ってるのか。泣きそうなのか。表情も分からない。ただ、この次に出す言葉が苦しかった。


「――ねえ。テオドール」


 僕が呼んだのは、友人の名だった。

 恐怖が貼り付いたような影に問いかける。が、彼は答えない。ぱくぱくと動く口は「なんで」という疑問を発しているのだろうか。残念だけど読心術は得意じゃない。でも、きっと間違っていないだろう。


「僕が吸血鬼だったのがそんなに意外? いいや。テオは僕の事を知ってたよ」

 知識や記憶の共有という物がされていないのか。その表情には驚きと戸惑いが見えた。

「君の事も気付いてた。だから僕の家に来てたんだろう。万が一のために」


 僕は知っていた。

 僕の正体を知る数少ない友人が、二重意識――複数の人格を持っていること。

 いくつの意識があるか分からないけど、その内のひとつが快楽のための暴力を好み、世間を騒がせていること。

 それをひどく悩んでいることも。

 そんな悩みを抱えつつも、彼は。テオは、いつだって僕を気遣い、笑い、僕の家を訪れ続けた。僕の正体を知っても逃げずに受け入れてくれて、彼も秘密と悩みを打ち明けてくれた。


 それからテオは、頼み事もひとつ、僕に託していた。

「もし、俺がどうしようもない状態で君と出会ったら。その時は遠慮せず殺して欲しい。――この身体も血も、好きにして良いからさ」


 だから僕は、犯人捜しなんてしなかった。

 その現場に、犯人に出会わなければ。友人を失うことはないのだから。

 明日も、明後日も。彼は僕の家を訪れ、何気ない話をして笑えたのだから。


 でも、出会ってしまった。仕方ない。


「〝君”の事は新聞でしか知らないけどさ。僕はこれで済ませる気はないよ。見つからなかったから知らないフリしてられたのに。――残念」

 運がなかったよねお互い。と僕は呟く。


 ああ、そうだ。大事な友との約束だ。遠慮はしない。容赦もしない。

 目の前に居るのはただの殺人鬼だ。友はもう居ない。きっと、この影に殺されたのだ。

 影は何かを言っている。聞こえない。後ずさろうとしている影を、視線で縫いとめる。石畳に触れた手のひらが、腕が、固まる。

「――ここからが本番なのになんで逃げようとしてるの?」

 返事はない。ぱくぱくと声にならない声で何かを訴えようとしている。逃げられないと分かった途端に怯えた色をしたその眼が、なんだかおかしかった。

「――は。あっはははははは! なんだよその眼! さっきまでの勢いはどうしたのさ?」

 ずい、と近寄り、胸元を濡らす血を指先で押さえる。冬間近の冷気でひやりと冷たい。

「ほら。こんなに血を浴びて、そのナイフで斬り裂いて、どうだった? 楽しい? 嬉しい? その黒い欲を、満たせたんじゃないのか? 違うのか?」

 握られたままだったナイフの血が、とろけるような光を反射する。

 ごくり、と喉が鳴ったのが自分でも分かる。


 こいつなら。

 こいつなら。

 本当に。

 姿形が残らないほどに喰らってしまっても――構わないだろうか?


 一瞬だけ僕へ笑いかけてくれていた彼がよぎる。

 罪悪感はなかった。寧ろ背中を押されたような気分だ。


「ある意味、君に感謝してるんだよ。僕の所行もさほど目立たなかった」

 けどな。と笑みを消して指先をタイに引っ掛け、引き寄せる。

 ただの人間とは違うのだと、その存在の差を見せつける。

「おかげで街の警戒は底上げでさ。ある意味では迷惑だった――って、どうでもいいか」


 じゃあさようならだ。と、呟く。

 答えはなかった。

 ただ、震えていた。

 榛色をしているはずの瞳は、空を映して灰色に見えた。

 それを勝手に肯定として、胸を濡らした血にひたりと手を添え。


 ずきり、と。

 眼から頭へと、突き刺さるような痛みが走った。


「――っ」

 暗転しかけた頭を抑え、壁に当てた手を支えに倒れるのだけは堪える。

「痛ぅ……一体、なんだって……」

 ぐらぐらする頭を押さえ付ける。折角の獲物を逃がす訳には行かない。

 膝をなんとか押さえつけ、倒れるのだけは堪え――ふと、違和感を覚えた。


 温度。冬の外気に晒された石ではない。

 乾いている。先程まであった血の冷たさもない。

 匂い。血でも霧でもない。土に混じる木の匂い。

 床。それも板張りの。


 一体どこだ?


 昂ぶっていた感情が一気に薄れていく。霧の向こうへ霞んでいく。ついさっきまで確かにあった感情も記憶も、全てが過去の再現だったと気付く。

「な……?」

 知らない家だった。

 これは、土間だ。僕は土間と部屋の間……式台にへたりと座り込んだ。床板に指のアクセサリーが当たる音がする。状況がさっぱり分からない。


「ああ……そうだ。これ、夢……だ」

 夢というものに常識的な流れを求めてはいけない。そもそも記憶の整理だと言う説もあるくらいだ。さっきの状況だって昔の僕だ。確かに僕自身の経験談だった。


 けど。この家は知らない。

 忘れたとかではない。記憶に引っかかる物がない。何を整理しようと言うんだ僕の脳。

 別の意味でぐらぐらしてきた頭の整理を試みようとしたその時。

「――よく来てくれたね」

 静かな水面に酔ったような声がして、僕は思わず顔を上げた。

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