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幕間:呪いの匂いがする

 ホテルの浴室から出てきたノイスは、ベッドでうなだれるように座っているテオに気がついた。その口元は何か難しい事を考えているように曲がっていて、珍しい顔だ。

「テオ? どうしたのよ」

 腕でも取れそう? と隣のベッドにぽすんと座って、髪をタオルで丁寧に拭く。

「ん……なんか、匂いがさあ」

 変わった気がしてね、とテオは重そうに息を吐いて天井を仰ぐ。髪の毛の隙間から、榛色の目がわずかに覗いた。

「匂いってその、探してる人の?」

「そう。少し前から変なんだ。何か混ざってる。胸に来るというか、澱むというか。気持ち悪い」

「なにそれ」

 ノイスは手を止めて彼の方を見る。テオは天井を見上げたまま、うーん、と唸る。

「なんていうかな。ウィルの場合、匂いが変わるのは時々あるのさ。吸血鬼だから、血を吸いすぎた時とかだろうけど。でも、ここまで混ざるのは初めてだよ」

 しかも、と彼は息をつく。

「こんなに酷いのも初めて。なんて言えば良いかなあ。木に染み付いた、泥っぽい……」

 ああ、とテオは何か思い出したように口の端を上げた。

「これは、血だ」

「いつも言ってる匂いも血じゃないの?」

「そうだね」

 ノイスの指摘に、テオはぎこちなく笑う。

「魂の匂いは血の匂いと似ているね。特にウィルは鉄と霧みたいな匂いだから、余計に似る。でもこれはなんて言うかなあ。これまでウィルにはなかった。土地とか土とか。そんなものに染みついた血……呪い、みたいな?」

「呪い」

 繰り返したノイスの言葉をテオは「そう」と肯定する。

「俺もよく分からないけれど、そう表現するのが一番しっくりくる気がする。染みついて剥がれない呪いの匂い」

「なんか陰気ね」

 ノイスが眉をひそめて呟くと、テオも「陰気だね」と頷いた。

「それにしても、これは厄介になってきたかもしれないなあ……」

 ぽつりと呟いた言葉は、ノイスには届かない。彼女がその言葉を聞き返そうと首を傾げると同時に、彼は立ち上がった。

「俺も風呂入ってくるよ」

 質問をし損ねたノイスは、開きかけた口を閉じてため息をついた。


 きっとテオは答えてくれないに違いない。

 ただの独り言。彼にとってはそれ以上の何でもない言葉だったんだわ。

 まあいいけど、とノイスは瞳を閉じ――何かを思い出したようにぱちりと開いて、通り過ぎていったテオの背中を視線で追った。


「テオ」

「何?」

「昨日みたいに指を排水溝に落とさないでよ?」

「はは。気をつける」

 そう言ってテオは浴室へと姿を消す。


 残されたノイスはぽんぽんと髪をタオルで叩きながら、呟いた。

「染みついた呪い、ねえ……」

 そのような物はノイスやテオが居た国にもなかった訳ではない。一族郎党恨まれ呪われ全滅する、なんてよくある話だ。物によっては、原因になった品が別人の手に渡り、同様の悲劇を繰り返す。なんて事もある。

 ノイス自身にも、多少の心得と経験があるから分かる。


 しかし、テオがあんな難しい顔をしているのは珍しい気がした。

 顔色が悪いのはいつものことだけれども。

 ちょっとだけ、気になった。

 ほんの、ちょっとだけ。


「あっ。ちょっとノイス」

 浴室からテオの声がした。

「なーに?」

 手を止めて返事をすると、「すまないんだけど」となんだか困った様子の声がした。

「袖に腕が残って取れないんだ」

「えー……またあ?」

 ちょっと何してるのよー、と口を尖らせて浴室に向かうと、シャツを片手に途方に暮れた背中があった。

「で、そのシャツ?」

「うん」

 袖の中にごろりと入った腕は、袖口のボタンで引っ張られて外れたらしい。

「いやあ、左手じゃボタンうまく外せなくてさ」

「もういっそ袖のボタンは留めるのやめたらっていつも言ってるのに。どうしてそう抜けてるのかしら」

 文句を言いながらも慣れた手つきでボタンを外し、腕を抜き取る。

「ああ、ありがとう」

「別に」

 いつものことよ、とノイスは言い残して浴室を後にした。


 テオの身体はとても脆い。

 彼の肉体がこの世界に根付く力を奪われて以来、ずっとこうだ。一応あちこちをテープで留めたり縫い付けたりしているが、それでもどうしようもない時がある。


「最近は特に頻度も上がってきたし。身体にも限界がきてるのかしらね」

 ノイスはベッドに転がって溜息をつく。

 旅の疲れはとうに取れたはずだが、ベッドに横になるとすぐに眠気がやってきた。

 抗うことはしない。眠気をそのまま受け入れて、ノイスは瞼を閉じる。

「早く、見つけないと……」


 呟いたその声は、寝息に紛れて消えていった。

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