先日、お弁当箱を買いに行きました。

家を離れてどこかへ出かけるというのは初めて、ボクはお兄さんに着いて行くのでいっぱいいっぱいでした。切符も、電車も、人や車がたくさん居る所も、動く階段も。売ってない物があるのか分からなくなる程の大きなお店も。目がチカチカして、何を見たらいいのかよく分かりませんでした。

何もかもが初めてで戸惑うボクに合わせて、お兄さんは歩いてくれました。危ない所や人が多い所は、手を繋いでくれました。

　お兄さんの手は大きくてひんやりとしていていたのを覚えています。

そうして辿り着いたお弁当箱売り場で、それぞれのお弁当箱を探しました。

　お兄さんは細長くて四角い、二段になる物を。ボクは赤くて丸い、蓋に小さな兎が居る物を。お弁当箱とお揃いのお箸も買いました。ボクは家で食べるのですが、気付いたらお兄さんが一緒に買ってくれていました。なので、お弁当を食べるときはそのお箸を必ず使う事にしました。

　朝。目が覚めたら着替えてお弁当を作ります。

　お日様は昇っていますが、お兄さんはまだ眠っています。目覚まし時計もまだ鳴っていません。リビングでかちこちと動いている時計の音だけが響いています。ボクの物音で起こさないようにそっと冷蔵庫を開けて、準備しておいたおかずを並べます。

　小さな塩鮭。卵。少し残っていた昨日の肉じゃがとサラダ。油揚げ。お魚のソーセージに、プチトマト。

　お兄さんは和食が好きだと言っていました。この肉じゃがも、昨日作ってくれたものです。

「日本はご飯がおいしくていいね。洋食の方が長く食べてたし嫌いじゃないけど、なんて言えば良いのかな。和食ってなんかほっとする」

　いつかの晩ご飯でそのような事を言っていました。お兄さんが買ってきてくれるお弁当の材料も、ご飯に合うものが多いです。だから、お弁当も焼き魚や煮物が多くなります。

　だからといって、同じ物ばかりではいけません。今日はどうしましょう、と取り出したおかずをじっと見ます。

　油揚げに肉じゃがを詰めて、フライパンで焼いてみます。一緒にソーセージも焼きます。

　焼けたソーセージはプチトマトと一緒に爪楊枝で刺しました。サラダのレタスをお皿代わりにして、お弁当箱に詰めていきます。

　こういう時、台所を見ていて良かった、と思う事があります。

　包丁の持ち方や焼き加減、煮込んだりする時間をずっと見ていました。だからといって上手に使える訳ではないのですが、全然知らないよりはきっと良いです。時々、母様に料理を教えてもらいたかった、と思ったりもします。けれども、あの頃のボクは、そんな事を考えることもありませんでした。

　見たことはあっても、触ったことがない物は、台所だけじゃありませんでした。テレビも。携帯電話も。お弁当も。この家に来て初めて、使ってみたものがたくさんありました。

　お兄さんは、突然居座ったボクにたくさんの物をくれました。たくさんの事を教えてくれました。けれども、ボクはそれに返せるような物を持っていません。

　ボクにできるのは、お兄さんを不幸にさせないこと、お手伝いをすること、それから。こうしてお弁当を作ること。

　塩鮭も焼いて、卵焼きを作ります。いつかはテレビで見たようなオムレツを作ってみたいな、と思いながら卵をくるくると巻きます。これをお弁当箱に入れたら、朝ご飯のお味噌汁を作ります。それができあがる頃には、お兄さんの部屋の目覚ましが鳴るはずです。

　――ピッ。

　アラームが鳴るのと、ぱしん、とそれを叩く音。どっちが早かったでしょう。

　お兄さんは朝がとても苦手だと言っていました。学校での課題や予習もありますが、吸血鬼だから夜の方が過ごしやすいのだそうです。でも、学校には行きたいから絶対起きるのだとも言っていました。だから、毎朝布団の中で目覚まし時計と戦うのだそうです。

　今日はお兄さんが勝ったようで、二つ目の目覚ましが鳴る前に、部屋からお兄さんが出てきました。長袖の薄いシャツにズボン。髪の毛はまだ寝癖がついています。

「おはようございます」

「うん……おはよう……」

　ふわわ、とあくびをしながら答えるお兄さんの目は、まだ半分くらい眠そうです。

　目覚ましに勝ったとしても、眠そうな目をしたまま朝ご飯を食べる事もあります。今日はもしかしたらそんな日なのかもしれません。

　お兄さんはふらふらと台所を通り過ぎて洗面所へ向かう……と、思ったのですが、台所の横でぴたりと足を止めました。お茶碗を取ろうとしていたボクも、思わずお兄さんの方を見ます。眠そうな目でしたが、ボクの方をじっと見ています。

「？　お水。飲みますか？」

　体調が悪いのでしょうか？　それともまだ夢の中なのでしょうか。ボクはコップにお水をついで、お兄さんに差し出しました。

「お兄さん。お水、どうぞ」

「――」

　お兄さんの口から、何か言葉が零れました。なんと言ったのか、ボクには届きません。

　眠そうなお兄さんの目が、なにか違うものを見ているように――なんだか笑っているように見えました。

　お兄さんの手がボクの方へ伸びて、コップを通り過ぎ。髪の毛に触れる直前。

　ぴた、とその手が止まりました。

　少しだけ手に気を取られていたボクがもう一度見上げたお兄さんは、すっかり目が覚めたようでした。

「あ……ああ、ごめん。水、ね」

　そう言ってコップを受け取り、ごくごくと飲んでしまいます。空っぽになったコップを受け取ろうと手を伸ばしたら、小さく首を横に振られてしまいました。

「しきちゃん」

　洗ったコップに視線を落としたまま、お兄さんはボクの名前を呼びました。

「はい」

「いつも、ありがとうね」

「……？」

　いきなりどうしてそんな事を言うのか分からなくて、思わず返事を忘れてしまいました。

　ボクがそれに気付くよりも早く、お兄さんはいつも通り笑って「顔洗ってくる」と洗面所へと行ってしまいました。

　□　■　□

「……なにしてんだ。僕」

　ぱたん。と洗面所のドアを閉め、僕は思わず頭を抱えた。

　寝ぼけていた、なんて事は言わない。確かに眠気はがっつり臨戦態勢で防御一方だけど、それとはまた違う感覚。彼女が、しきちゃんが。なんか違って見えたのは、たぶん眠気のせいじゃない。

　喉が渇いた時に、誰かが美味しそうに見えるのとも違う。彼女が喚起させる庇護欲……それも違う。なんと言うか。それらの欲……気持ちの一端に触れつつも、それを強く諌める衝動がごちゃ混ぜになっているような……いや、感情や欲はどうでもいい。

　今一番の問題は。さっきの行動が、僕の意志とは全く関係ない事だ。気付いたら彼女の髪に手を伸ばしていた。慌てて手を引っ込めたけど、あれは僕の意志じゃない。まるで、糸に吊られたような感覚――。

　呪い。という単語を思い出した。

「いやいや……！」

　身体を、意識を乗っ取られかけたとでも言うのか。頭の中の僕が僕を嘲笑する。否定したいけど、材料がない。むしろ、それを肯定する可能性の方が鎌首をもたげてくる。

　しきちゃんが話していた呪い。僕が取り込んできた、数えきれない程の命。

　ああ馬鹿馬鹿しい話だ。僕が。

「僕が……彼らに負けるとでも言うのか」

　洗面台の鏡に映る僕自身に問いかける。

　鏡の僕は、笑っていた。

　僕を見下すような目で。その問いに肯定を突きつけるように。

　その目は。その色は。

「……誰、だよ……」

　深い深い茶色。

　瞬き一つで元のブルーに戻ったけど。

　それはどう見ても、僕の眼ではなかった。