クラリスが騎士団本部にきてからひと月が経ったが、すでにもう彼女は騎士団に欠かせないほどの人材となりつつある。魔法薬やポーションの作成は無論のこと、手が空いていれば進んで団員たちの診察も手伝い、症状にあった薬も用意してくれる。
獣師団の獣人たちもそれまで任務以外では離れにいることが多かったのだが、クラリスの常駐する調合室に入れ替わり立ち替わりやってくることで、今まで接触のなかった団員たちとの交流も増えていった。
元々任務が被ることの多かった第五中隊以外の団員たちとの見えない垣根のようなものも今ではあまり感じることがなくなってきていた。獣人たちは感情を読み取る力が優れているので自分たちに否定的な人には進んで近寄らない。そういった感情が改善してきた証拠なのだろう。
「五日後の王都外探索ですが、第二中隊から獣師団への協力要請が届いています。鼻の利く者らが必要だそうです」
「なぜ
補佐のダイムが書類を回すとキースは呆れたように言い放った。
「まあまあ、中隊長。第二はそこそこの立場の貴族子弟も多いですし、協力要請をするようになっただけマシですよ。獣師団への窓口もないようですし、今回だけは橋渡ししてやりましょうよ。恩を売っておくのはよいことです」
にやりと計算高く口の端を上げるダイムはまるで商人のようだが、れっきとした貴族出身だ。
「まあいいだろう。そっちは処理しておいてくれ」
「了解しました」
ダイムの返事を聞きながら、キースは読んでいた書類を机の上に放り投げるように置いた。
「おや、ご機嫌斜めですね。いったい何の報告書ですか?」
「ああ。ルバック領での件だ。ブリオール伯爵家のバカ息子は結局勘違いということで逃げ切ったようだ。トリブラは焼却したつもりだったし、頼まれた報告書も出したつもりだった。だからクラリス嬢の調合室にトリブラがあったのを見つけた時に、不法所持だけでなく違法栽培をしているのだと思ってしまったのだと供述したらしい」
キースは苦り切った表情で報告書の内容を語る。普段ならばどんな犯罪者であろうとおとしめるような言葉を使うことのないキースが、バカ息子などと言ったことにも驚いたが、ダイムはそれ以上にフランクの供述に呆れた。
「頭が悪すぎませんか? それで通ると思っているのが凄いですね」
「実際通ってしまったのだから仕方がない」
「えっ⁉」
本気ですか? とでも言いたげなダイムに、書類を渡す。
「虚偽申告で牢に入ってもらおうかと思っていたのだけれどもそうはならなかった。残念だが」
「鼻薬でも嗅がされました? でもブリオール伯爵家か、それともルバック伯爵家? うーん、どちらもなしかなあ?」
そこまで由緒が正しいわけでもなければ有力でもない伯爵家にそこまで力があるのだろうか、とダイムは不思議に思いながら手渡された書類をめくる。
「そうではないさ。ただグストレム王国との関係がきな臭くなってきているから、国境近くの領地であまり波風を立たせたくないという政治的配慮だろう。そうでなくともヤツの申告が回り回って違法栽培者の摘発に繋がってしまったのがな、結果情状酌量された形になってしまった」
「嘘から出た実ってことですか。なんだか釈然としませんね」
「ああ、そうだな」
ダイムの言葉にキースはあの日のフランクの非道な言動を思い出す。
自身の欲望のために婚約者だったクラリスを追い詰め切り捨てたフランク。クラリスのことを全く知らずにいたあの時ですらその身勝手さに苛ついた。
クラリスの真面目で謙虚さを兼ね備えた誠実な人となりを知った今ならば、腸が煮えくり返ってもおかしくはないだろう。
実際、婚約を破棄すると言いクラリスを小バカにしたように見下したフランクの顔を思い出すだけでムカムカとする。ダイムから返された書類をまとめて一気に絞るとギリッと牙を噛みしめながらそのままゴミ箱に叩き込んだ。
「ひぃっ! 中隊長、さすがに牙出すのやめてくださいよ」
キースは普段牙を人前で見せるような真似はしないだけに、こういう仕草をとられると顔が整っているだけに余計に怖い。
珍しく不機嫌満載な態度のキースに、ダイムはまあまあとなだめるように声をかける。
「でもむしろこれでよかったのかもしれませんよ?」
「何がよかったんだ?」
「だって、牢に入ることになってしまえば当然王都に連行されるじゃないですか。そうすると嫌でもクラリス嬢の耳に入ることになるでしょう? そうしたら絶対にあの厚かましい男はクラリス嬢へと助けを求めますよ」
「そんなこと許されるわけがないだろう」
ぎろりと睨まれ首を竦める。
いや面倒くさいなこの人。と思いながらダイムは言葉を続けた。
「そうですけれど、そんな殊勝な……いや普通の人物だったらあんな形で婚約者を振りませんって」
キースは顎に指を当てて、うんと頷いた。
「確かに。クラリス嬢は優しい方だから、知り合いから助けを請われれば簡単には切り捨てられないだろう」
「うわあ、元婚約者を知り合いで片付けちゃうんですね、中隊長」
「そうなるとクラリス嬢に負担がかかるのは間違いないな」
ダイムの言葉を無視してキースは椅子から立ち上がる。そうして窓から外を見た。
ちょうど休憩時間になったのか、獣人たちに連れられて庭へとクラリスが誘われたところだったらしい。
最近では獣師団の団員たちが離れ横に薬草畑を作り始めたということだから、その様子を見に行くのだろう。獣人たちは皆本当にクラリスのことを気に入っているので、ずっと騎士団にいたくなるようにといろいろと画策しているようだ。
あの日、初めて出会った時、どこにも居場所がなく寂しそうだったクラリスも、今では心から楽しんでいるように見える。
ビエゴがこちらの窓を指さすと、ふわりとスカートを揺らしながらクラリスが振り向いた。クラリスがキースを見つけると、頬を緩めながら軽い会釈をする。
そんな姿に胸がドキンと脈を打ち、思わずギュッと手に力が入る。
(あの優しく慎ましい人が、あんな家族やクズ男たちにいいように使われるのは気分が悪いし見たくもない。だから——)
「ずっと、離したくない」
ぽつりと呟いた自身の言葉にキースは驚いた。が、すぐに納得した。それが自分の本音なのだと今ようやく自覚した。
自分の牙に指を当て、クラリスの首へと歯を立てた時の感覚を思い出す。ぞくりと背中に甘い何かが走った。
責任感などという言葉では片付けられない重い執着心。この腕に捕まえて、もう一度——。
「本能か……」
「え? 今なんて言いました?」
ダイムが聞き返してきたがキースは何も答えずに、ただ外を行くクラリスを見つめていた。