起きるとすぐに可愛らしいピンク色が目に入る生活も、三度目の朝ともなるとそれなりに慣れるものですでにクラリスは順応し始めている。
ここまでではなかったが、ビアンカの部屋もかなり華やかではあったから、彼女の部屋で看病中に寝落ちしてしまったのだと思えば大した違いはない。
むしろ全くといってなれないのは周りの目。
専属侍女は必要ないと断ったものの、キースが頼んだのか騎士団本部内の厨房や雑用をしている女性たちが掃除に入ってくれる。
中年から若い女性までその日によって違うものの、やはり中隊長であるキースに連れられてきた娘だということで、彼女たちの興味は尽きないらしい。チラチラとのぞき見られるような視線が痛い。
そして当然のことだが騎士団員の集まる本部内ではどこにいても視線が突き刺さってくる。
「あの方がキース中隊長の?」
「なんでも責任を取ると廊下で宣言したらしい」
「住ませるために本部の一室を与えたって」
「彼女のために中隊長も本部で寝泊まり始めたんだと」
等々、噂し、最後にこう付け加える。
「しかし、悪いがキース中隊長にはあまり似合わないな」と。
(はい。私もそう思っていますから)
ぎりぎり聞こえるほどの声で伝わる噂話は地味にクラリスの神経を削る。
ただでさえ田舎育ちのうえ、そのルバック領から出ることがなかっただけに、ここまで多くの人の視線に晒されるのがどうしてもストレスになる。
そのうえで、この噂だ。クラリスとしてはできる限り静かに、ひっそりと過ごしたいのだが。
「クラリス嬢、そろそろ休憩を取った方がよいのでは? よろしければ、自分の執務室にお茶を用意したのですが」
クラリスが騎士団本部で世話になってからというもの、毎日午前、午後、夕方、と最低でも三度はキースからのお誘いがくる。
にこやかな笑顔が眩しくて、断るのも申し訳なくて了承すれば結局また好奇な視線と噂が走る。
しかし、本日は少しばかり今までとは違い――。
「ダメだ、キース。今日は俺らの方が先約だ」
「すみません、キース様。お邪魔していまーす」
イグノーたち獣師団の面々が、クラリスが与えられている一階の調合室でわいわいと騒いでいた。
それなりの広さがある調合室だが、大柄な獣人たちが揃うとなかなかに狭く感じる。
そこに背の高いキースが入室するともう自分が小人のように思えてしまう。
(外を移動中は気にならなかったのにね)
獣人と魔法薬という組み合わせがしっくりとこないのか、キースはイグノーに向かい尋ねた。
「お前たちが魔法薬か?」
「まあな。というか、俺ら用の薬? ま、それをちょっくら知りたいって嬢ちゃんが言ってたから手伝いにきてんだよ」
獣人は人のための魔法薬は効かない。
それは元々人よりも頑強な体をしているということと、魔法に耐性があるというのが理由である。
しかし体の強さとケガや病気が無縁というわけでもない。痛いものは痛いし、辛いものは辛いのだ。
王都への道すがら、胃薬代わりにむしって飲んだ薬草を見たのを思いだし、獣人にも効果のある薬が調合できたらいいのではとクラリスは考えた。
そのあたりの話を聞きたくてイグノーへと話を振ったら、思いのほか多くの獣人が調合室に顔を出してくれたと言うわけだ。
「実は魔法薬もポーションも欠品分はもう作ってしまいまして。だからもしよかったら獣人の方々のお話を聞かせてもらおうとお呼びしました」
「クラリス嬢の手際が良く、すでに用意した分の材料は使い切ったと報告は受けていました。ならば少しくらいは時間が取れるかなと思ったのですが」
少ししゅんっとした顔を見せるキース。銀色の長い睫が揺れる。
最初こそ生真面目で硬いと感じていたキースだが、こうして何度も会っていると意外と表情豊かなのだと思うようになる。
「まあまあ、俺らも親から聞いたり経験則だったりと、いいかげんなとこがあるからな。お嬢ちゃんに手伝ってもらってちっとばっか整理できりゃ楽になる」
「はい! せっかくですので獣人の皆さんだけでなく、人にも使えるような薬草とかも知ることができれば嬉しいです」
新しい学びができることはとても大変だが、それだけにやりがいがある。
「そういえばサニベリーの木の実が胃もたれに効果があるとは知りませんでした」
「あれは酸っぱすぎて人にはダメみたいです。でも葉っぱをこすりつけて傷を治すのには獣人も人も普通に使いますねえ」
「なるほど……実と葉では随分と用途が違いますね。今までの薬草と同じような効果があるものと比べてみるのもいいかもしれません」
「サニベリーなら王都の中どこにでもあるからな。魔法薬でなくてもそれなりに効くもんなら獣人にも平民にも手を出しやすくなる」
「確かにそうですね!」
イグノーの言葉にハッとさせられた。
今までクラリスはビアンカのためだけに魔法薬を作り続けてきたのも同様だった。
ごく稀に領民へと薬を分け与えることはあっても、それはビアンカの誕生日であったり祝い事であったりした時に下賜するものであり、彼らのために処方されたものではなかった。
それでも物資の届かない田舎領地では十分に喜ばれたし、そのおかげで領地民にもビアンカの評判は上々だ。
しかし分け与えられたものをいざという時のために用量などお構いなしでちびちびと使い続ける生活よりも、必要な時に必要な量を使い病気やケガを治せることができるのならそちらの方がいいに決まっている。
クラリスはここでその研究ができるのならと考えた。
そして同時に、今の自分の保護者であり滞在許可を出してくれているキースの存在に気がついた。
「あの、キース様……すみません。その、忘れていたわけではなく……」
キースからのお茶の誘いは頭の隅から一切抜けていたわけだがまさか正直にそのまま言うわけにもいかない。
しかし当の本人は全くそんなことは気にしたふうでもなくクラリスの姿をじっと見ていた。
「いや、どうぞ続けてください」
「でも、そういうわけには」
「構いません。大変興味深く聞かせてもらっています。それに……」
「それに?」
首をことんと傾げながらオウム返しに尋ねるクラリス。
後ろに一つでまとめた栗色の髪が跳ね、キースの目にはまるで子リスのように見えた。
トクン。と心臓が軽く跳ねた気がした。思わず右手で胸を押さえると、クラリスが不思議そうな顔で声をかける。
「キース様、あの?」
「つまり、クラリス嬢が楽しそうにしていたので、つい」
キースの答えに、クラリスは大きな茶色の瞳をこれでもかというほど丸くしながら尋ねた。
「私……楽しそう、でしたか?」
「あ、ああ。とても、楽しそうだった」
だから目が離せなかった。と正直に言うべきか迷っていると、クラリスは頬を上気させ声を弾ませた。ふわりと花が咲いたように笑った。
「ええ、そうですね。私、とても楽しかったんです」
生まれて初めてビアンカと切り離されてやりたいことができたクラリスは、何かとても大きな荷物を下ろしたような気がした。
「こうして、皆さんとお薬のお話をして。もしかしたら、皆さんのお役に立つ新しいお薬ができるかもしれない。そう考えるだけでとても楽しくて……!」
「クラリス嬢」
「私、初めて楽しいと思えることができました」
そうしてにこりとほころんだ笑顔は、ふわりと花が咲き誇ったように美しかった。
その姿に見蕩れながらキースは、自分の胸が思うとおりにならないほどドクンドクンと大きく脈打つのを感じていた。