ビエゴから聞かされたキースの甘噛み求婚行動については、何日経っても思い出す度に体がカッと熱くなり、いてもたってもいられない気分にさせられる。
クラリスは馬車に乗っていなければその場でぐるぐると歩き回りたいくらいだった。
しかしそれもままならない今、頬を軽く叩き深呼吸をしてなんとか気を紛らわしている。
「ああ、もうどうしよう。どうしよう。そんな、求婚だなんて、嘘よね! 多分、トリブラの花粉に惑わされたに違いないわ。あの花には幻覚作用があるから……そうよね」
気がつけばそんな言葉を吐き出してしまう。
十八年間生きてきて、こんなにも短い間に〝嘘〟という言葉を声に出したのは初めてだった。
すでに馬車に乗りルバック領から出発して七日が経った。
もう王都まであと一歩というところまできているのは街道の賑やかさでも感じられた。
(王都……そこに着いたら、キース様がいらっしゃる……!)
クラリスの胸が大きく高鳴る。
それが、キースの甘噛みからの求愛行動ということに対しての不安なのか、それとも他の感情なのかよくわからない。
それに、そもそもクラリスが王都へと呼ばれたのは元婚約者となったフランクに決めつかれた冤罪が始まりだった。
キースやイグノーたちには問題ないと言われたものの、いざ王都での聴取となるとやはり心配だ。
禁止魔法薬生成も危険薬草栽培も絶対にかかわってはいないが、どうとられるかはクラリスにはわからなかった。
もしもフランクのように話も聞かず、全てをクラリスに押しつけてしまえばという考えならば彼女にはどうやってもなすすべがない。
いったいこれからどうなるのだろうか。大きな不安を胸に抱えながらクラリスが乗った馬車は、獣師団に先導され王都の門をくぐっていった。
王都に到着して早々、クラリスが連れていかれたのは王宮の一角にある騎士団本部。
ルバック伯爵邸よりも大きく部屋数も多い三階建てのどっしりとした本部へと出入りする人たちを見て、クラリスはあんぐりと口を開けた。
「なんて大きいの……それに、こんなにも人が、多いだなんて……」
「そうですか? 人出だけだったら街の市の方がよっぽど多いですよ。あっちこっちでやってますから退屈しません」
「そうなのね」
ビエゴはクラリスの鞄を馬車から取り出すと、自身の荷物と一緒に担ぎ上げ軽い足取りで本部の入り口扉に向かった。
アリアテーゼ王国には騎士団を統括する騎士団長の下に五つの中隊、王族と王宮の護衛を主とする近衛隊、そして獣人で結成された獣師団の七つの隊が帰属している。
この騎士団本部には基本近衛隊以外の隊が常駐し任務に当たっているので、必然的に収容数が大きくなっている。
とはいえ型にはまることが嫌いな獣人たちは訓練所横の小屋の辺りでたむろすることが多いのだが。
それでも田舎領地の屋敷の中に引きこもっていたクラリスからしてみれば、この騎士団本部でも十分驚かされる。
おそるおそるビエゴの後に付いて一歩中に足を踏み入れると、エントランスにはさらに多くの騎士団員が揃っていた。
騎士服に身を包んだ若い男性が話をしていたり、椅子に座りながら剣を磨いていたりと各々が好きなことをしている。
しかしなぜだかクラリスは、彼らが皆自分の方を凝視しているように思えて仕方がない。
(何……なに? 私何かしたの、かしら? ああ、禁止魔法薬生成の容疑者だから? でも、それにしても……)
ただでさえ人慣れしていない田舎の貴族令嬢であるクラリスは、これほど一斉に男性からの視線を浴びたことなどあるはずもなく、冷や汗がだらだらと落ちる。
隣にいるビエゴの存在さえ忘れこの場から逃げ出したい衝動に駆られる。
目がぐるぐると回り出し始めたところで、キースの補佐であるダイムが団員たちの間を縫ってクラリスに声をかけた。
「クラリス嬢、到着なされたんですね」
「あ、はい。ええと、第五中隊の騎士様ですね」
一度会ったことのある騎士に呼びかけられ、ようやくほっと息がつけた。
「そうです。ダイムとお呼びください。で、到着早々申し訳ありませんが、今から聴取をお願いしてもよろしいですか? ちょっと面倒な人がいるものですから……」
頭をぽりぽりと掻きながらすまなそうに言うダイムに、クラリスは緩んだ頬を引き締めて「勿論です」と答えた。
(面倒な人って誰かしら? 運ばれた私の魔法薬に何か問題でもあったのだとしたら……ううん。あれは全部合法のものだから大丈夫よ、ね。きっと)
一階の長い廊下を歩きながら考えていると、緊張で顔が強張ってくる。
そんなクラリスの様子をうかがいながらダイムはいろいろと話を振ってくれる。
「道中はいかがでした? 獣師団の者たちも気はいいのですが、なにぶんがさつな者が多いので不自由はありませんでしたか?」
「は、はい。親切にしていただきました。皆さんにはとても気をつかっていただいて」
確かに道中で用意してもらった食事などはただ焼いた肉だの野菜だのと、普通の貴族令嬢ならば鼻を摘まんで見向きもしないものだっただろう。
しかしクラリスのために精いっぱい考えたり丁寧に準備をしたりと気をつかってもらった。
ルバック伯爵家ではクラリスの気持ちは二の次で、まずビアンカのことというのが当たり前になっていただけに、常に意見を確認してもらえた獣師団との旅は気が楽でとても楽しいものだった。
「そうですか。それならばよかった」
そう言って笑うダイムの目元にはくっきりとしたクマができていた。
「ダイム様は随分とお疲れのご様子ですが、大丈夫ですか?」
「ああ、うん。ちょっと、その面倒な人が急がせるもんだから、四日で走りきったんだよね、王都まで」
「四日⁉ それは大変でしたね」
クラリスたちが七日かけてきた道のりを四日で走るとは随分と強行軍だったのだろう。
感心していると、ダイムはさらにげっそりとした調子で続ける。
「そう。到着したらしたで速攻捕縛したヤツらの尋問と、預かった魔法薬の再検査や報告書作成やらで、走り回って。なんとかクラリス嬢が到着前に一通り片付きはしたんだ、うん。俺もこれが終わったらようやく休めるから」
「お疲れ様でした。ゆっくり休んでください」
クラリスたちがのんびりと王都へ向かっている間、第五中隊の騎士たちはずっと働き通しだったのかと知ると、申し訳ない気持ちになってしまう。
その労りの言葉に、ダイムは顔を引きつらせながら一つの扉の前に止まった。
そして「皆、死んだように寝てるよ……一人以外は」と呟くと扉を叩き、大きな声で「第五中隊騎士ダイム、参考人クラリス・ルバック伯爵令嬢をお連れいたしました」と告げた。
「騎士ダイム、入れ」
少し低めの生真面目なその声にクラリスは聞き覚えがある。
扉が開かれるのと同時に椅子から立ち上がり、あっと思う間もなくクラリスの前に立ったのはキース。
彼女を見つめる透きとおった青い瞳はふんわりと微笑んでいるようにも見えた。
「……っ、キース様」
「ようこそ、お待ちしていました。クラリス嬢」
そう挨拶すると、キースはスッと手を差し出した。
あまりにも素早い動きで距離を詰められたため、思わず固まってしまう。
(キ、キ、キース様……きゅ、求婚行動っ? いいえ、まさか、ね?)
ビエゴが言った〝甘噛みは獣人としての求婚行動〟という言葉をまた思い出して挙動不審になる。
そんなクラリスの姿に、キースは手を引き「驚かせてすまない」と謝罪し、ソファに座るよう勧めてくれた。