白い天井を、絶望的な気持ちで見上げる。
清潔で無機質な病室に、ただ寝転ぶだけの今。
部活が終わって自転車で帰宅する途中、不意に左折してきた車に巻き込まれたのだ。
右足を複雑骨折してしまい、元通りに歩けるようになるかどうかわからないと医師に言われた。
もちろん、今まで打ち込んでいたバスケットなんて、復活できる見込みもない。
やっとつかんだレギュラーの座で、インターハイに出ることも決まっていたのに。
スポーツどころかそれ以前の問題で、後遺症が残るかもしれないなんて……目の前が真っ暗になるって、本当にそんなことがあると知った。
本当についていない。
ミイラ男になった自分が嫌で鏡は見ていないが、右腕や右頬にも擦り傷があるからズキズキする。
痛み止めが効いているはずなのに、ズキズキズキズキ痛くて仕方ないのに、不思議と涙も出てこない。
身体はもちろん痛いが、心はもっと痛かった。
ほんの少し前まで自分にあったものが、無くなってしまうなんて思ってもみなかった。
今まで息をするほど簡単に描いていた未来の図は、もう二度と見ることもできない。
その「二度と」の大きさを嫌でも考えてしまい、目の前が真っ暗になる。
気持ちがささくれてしかたない。
八つ当たりをするのが嫌で、お見舞いに来てくれたチームメイトたちの声が廊下から聞こえてくると寝たふりをした。
自分でもちっさいなと思うけれど、顔を合わせたくなかった。
足の痛みで熟睡ができないのでうつらうつらとしか眠れないから、機嫌が最悪でちょっとしたことで感情が爆発しそうになる。
学校に行けることも、歩けることも、走れることも、何も不安を持たずただ笑えることも、全部全部うらやましい。
息をするより簡単に未来の幸せの図を描ける「普通」がうらやましくてしかたなかった。
訳もなく怒鳴り散らしたり、ひどい言葉をぶつけるなんてことはしたくないのに、今までと変わらない顔をした彼らを見たら、自分を抑えられる自信がなかった。
しばらくは誰にも会いたくないと、親を通して学校にも伝えてもらった。
それでも、顔を出すお節介がいた。
付き合っているわけでもないし、挨拶はするけれど特に仲が良かったわけでもないのに、バスケ部のマネージャーだというだけでお節介はやってくる。
部活も同じで縁があったし、たまたま同級生で、それも同じクラスだったから。
たったそれだけの理由で、来なくていいと親を通して学校に申し入れたのに、俺が休んでいる間の配布物やノートのコピーを持ってくるのだ。
俺の扱いに困惑している親は、来ないでくれと頼む俺自身を持てあましているのか、マネージャーが来ると「ごめんね」とか「悪いわね」とかホッとした声を出して俺の病室に通す。
通されたからと言って俺は布団をかぶってピクリともしていないのに、親もマネージャーも懲りない。
また来るね~とありがとうまたね~を、当事者である俺を抜きにして勝手にやり取りしている。
こうなったら、とことん寝たふりをしてやる。と決めていたのだが。
最初は俺が本当に寝ていると思っていたらしいけれど、途中でマネージャーに狸寝入りがばれてしまった。
もう! と口を尖らせて、次からは「来たよ!」と遠慮なく声をかけられるようになった。
「わからないところがあるなら教えてあげるのに、積読(つんどく)だとわからないところすらわからないよね」
無視しているのにマネージャーは全く懲りなくて、ノートのコピーを見ずにベッドの横に積み重ねているだけだと、あっさり見抜かれた。
頭は無事なんだから勉強ぐらいすればいいのに、なんておふくろみたいにこぼすから、うるさい! とつい八つ当たりしてしまった。
自分でもびっくりするぐらい大きな声が出て、マネージャーも寝たふりをしていた俺が怒鳴るなんて予想していなかったらしく、しばらくは固まっていた。
「もう、帰ってくれないか」
ほら見ろ、八つ当たりしちまったら、やったほうがきまりが悪いんだっての。
なんてもやつく気持ちを何とか落ち着けながら、とうぶん誰にも会いたくないとはじいたら、ふぅっと彼女は長い息を吐きだした。
「私は会いたいよ。生きていてくれて、本当に良かったと思う」
ギュっと手を握られて、ドキリとする。
「ほら、ちゃんと生きてるでしょ?」
「おまえ、バカだろ? 生きてるから痛いんだっての」
心も体もズキズキするのは、生きているからだ。
これから先も生きていくから、今はただ痛いんだ。
マネージャーはカバンを開くと、ゴソゴソと中身を探して手帳を取り出した。
はさんでいる写真を取り出して、俺に渡す。
「これ、私のおじいちゃん」
いきなり家族自慢かよ、と思いながら写真を見て、俺は息をのんだ。
一人の老人がたくさんの家族に囲まれて、自分の足で立っていた。
右の袖は中身がなくて、風にゆらりとはためいている。
右の足の膝から下は、鋼の色をして明らかに義足だった。
だけどなによりも目を引いたのは、満面の笑顔だった。
何の憂いもない太陽みたいな明るい笑顔だった。
自分の子供だけでなく、孫たちにも囲まれて、真夏の太陽みたいに老人は笑っている。
「なんだよ、これ? お前のじいちゃんが幸せに生きてるから、俺の気持ちがわかるとでもいう気か?」
「あなた、バカでしょ? あなたの気持ちなんて、おじいちゃんにもわからないわよ。だって他人だもの。私、自分のかあさんの気持ちすらわかったことないよ。へその緒でつながってたっていうのにさ」
「じゃぁ、なんでだよ」
「ん~なんとなく?」
「なんとなく?」
「なんとなく、今、貴方に会っておかないと、心残りになると思ったからさ」
なんだよそれ、と思ったけれど、真っ直ぐに俺を見る彼女の瞳はどこまでも真摯だった。
「あなたってばさ、どんなに流れが悪くて他の人があきらめてしまうような時でも、往生際が悪いっていうか、絶対に最後まで喰らいつくタイプじゃない? だからおじいちゃんのことも、話してもいいかな~と思って」
何をどう言えばいいのか言葉を失っている俺に、マネージャーはへにゃっと笑った。
少し斜め上に目線が動いて、亡くなったという祖父のことを思いだしているようだった。
「今日を頑張れば、明日が変わる。明日が変われば、未来も変わる。だから、折れるなって」
今もこうやって話ができるし、勉強もやる気になればとりかかれるし、そのうち立ち上がることもできる。
生きているだけで未来が訪れるって、亡くなったおじいちゃんが言っていたの、とマネージャーは笑う。
「だから、きっとね。あきらめるのは、今じゃないよ」
失ったものは戻らない。
どんなに頑張っても、元通りにはならない。
それは不自由かもしれないけれど、不幸ではないから。
確かめるようにしっかりと告げられた言葉は、俺には衝撃的だった。
どうでもいいなんて投げやりになっていた気持ちを、張り手でぶん殴られた気分だ。
まぁ、ぶん殴る勢いで俺の心を張り手代わりにぶっ飛ばしたのは、マネージャーのじいさんの笑顔だけどさ。
どんな風に生きたら貴方のように笑えるのですか? と問いかけたくなるその笑顔は、知らないどこかの老人ではなかった。
その写真を目にした瞬間に、俺も同じように笑っている未来を夢見てしまったから。
本当に明るくて、力強くて、幸せな人生だったと宣言している笑顔だったから、ブルリ、と体が震える。
武者震いって、本当にあるんだ。
亡くなった人の遺した言葉は、どうして心の奥まで響くのだろう。
俺にもできるかな? と思わずマネージャーに問いかけたら、できないの? とあっさり問い返された。
思わず笑ってしまう。
キョトンとした顔が普通過ぎて、気負いすらないのが怖い。
諦めたらそこで終わりだって、自分なりの普通を見つけられなくなると、突きつけられた気がする。
「ひでぇな」
ぼやいたら、マネージャーはクスクスと笑いだす。
「応援とサポートは得意だから、私にまかせて」
リハビリも手伝うから、と握ってくれる手の暖かさを、俺は両手で包み込む。
「なにそれ、プロポーズ?」
「バカなの? ただのサポーターで応援団。ボコボコにへこんで寝てるだけの誰かさんを、どうやって好きになるの?」
「おまえ、ほんと容赦なく心をえぐるよな!」
朗らかに彼女は笑いだした。
それが心底楽しそうだったので、俺もつられて笑ってしまった。
事故にあってから初めて、何も考えずにただひたすら笑ったかもしれない。
だが、それもほんの五分ほどの間だった。
マネージャーは、どこまでもマネージャーで、この病室に来た目的を忘れていなかった。
「まずは授業を追いつくところからだよね♪ ほら、ノート開いて!」
「明日からでいいってのに、おまえは鬼か……」
マネージャーがニコニコしながら告げるから、思わず天井を見上げる。
一に勉強、二に治療、三四はリハビリかな~なんて鼻歌交じりにノートを広げるので、俺は苦笑することしかできない。
退院する、ただそれだけでもものすごく先が長い気がするのに、彼女にかかると大したことない気がするのが不思議だ。
まぁ、気がするだけで、この先も大変なのは確かだ。
頑張っても上手くいかなくて、何度も心が折れるかもしれない。
それでも今この瞬間も生きているし、俺は一人じゃない。
今日を頑張れば、明日が変わる。
明日が変われば、未来も変わる。
可能性という名の、希望を胸に。
遠くない未来、俺は自分の足で立ち上がる。
【 おわり 】