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第23話

尾びれをバタバタと震わせながら、ユミルは中庭を駆け抜ける。

まさに逃げのスペシャリストの真骨頂といった走りっぷりだが、後ろからは相変わらず不良達の怒号が追いかけてくる。


「あびゃびゃびゃびゃ!」


女子にあるまじき悲鳴を上げながら、彼女は玄関のドアを突き破って校舎内へと滑り込んだ。

かつての大魔術師様(自称)の威厳など、既に跡形もない。


「テメェ逃げんじゃねぇ!」


轟音と共に、壁が吹き飛ぶ。

ゼノン作の魔導弾の破壊力で、不良達は遠回りなど必要としない。

文字通り、壁を突き破って最短距離で追いかけてくるのだ。


「右に3人回れ!正面2人!残りは左を固めろ!」


不良のクセに、その動きは軍隊のように統制が取れている。

ゼノン一派は学園最大の武闘派集団。その名は伊達ではなかった。

ユミルの悲鳴が廊下に響き渡る。


(くそっ!水の中なら、あんなクズ共なんて一瞬で撒けるのにぃ!)


水中なら話は別だった。

人魚という種族の特性を活かせば、あんな陸生下等生物どもなど自分の足元にも及ばない。


だがここは地上。

人魚の尾びれは水中では最強の推進力を誇るが、陸上ではただの邪魔な付属物でしかないのだ……。


(まぁ、それでも逃げるのだけは上手いんスけどね♡)


確かに彼女の逃走スキルは、並の陸生の学生を遥かに凌駕している。

日頃からの豊富な逃げ経験のお陰で、尾びれを使った地上での機動力は「逃亡のエキスパート」と呼べるレベル。それでも、生まれながらの水生生物である以上、陸上での行動には限界がある。


「この魚女がぁ!殺してやる!」

「つーかてめぇホントに人魚かよ!?獣人並みに足速ぇじゃねぇか!」


不良達の怒号が廊下に響き渡る。

ユミルは、逃げるしかなかった。

何故って──そりゃあさっきまで大魔術師様として散々小馬鹿にしてたヤツらが、今や血に飢えた猛獣の目で追いかけてくるのだから。


「よくも『腰巾着』だの『雑魚』だの言いやがったな!三枚おろしにして刺身にしてやらぁ!!」

「ぴゃあああああ!誰か助けてぇぇぇ!」


ユミルの悲鳴が虚しく廊下に響く。

どれだけ逃げ回っただろう。もう尾びれは限界まで震え、動きは次第に鈍くなっていく。


(もう、ダメっス……。アタシは今からあのゴリラ共にボコボコにされて、人魚の刺身にされちゃうんスよぉ……)


まな板の上の魚──いや、今やただの哀れな人魚と化したユミル。

その朦朧とした頭の中で、彼女の妄想は暴走していく。


(あぁ……ひょっとしてあの異種族共、案外魚に興味あるかも……。この清らかな人魚の乙女の純潔が、無惨に散らされて……ぐすん……いやあああああっ!!)


彼女の妄想は徐々にエスカレートし、ますます現実逃避の色を濃くしていく。

そんな時──。


「あ……あれは!」


ユミルの大きな瞳が、廊下の先の人影を捉えた。

金色の長い髪が朝日に輝く端正な顔立ちのエルフ。その横には八本脚のアラクネ、そして見たことのない巨漢のオーガ。


──ルナリアだぁ!


「た、助かったっス!」


何故あんな場所にいるのか──。

いや、今はそんな疑問を考えている場合ではない。

このタイミングでの出会いは、きっと清く正しい生き方をしてきた(?)自分への、恩寵に違いない。


(神様ぁぁ!やっぱりアタシみたいな善良な乙女は見捨てられないんスねぇ!)


先ほどまでの「大魔術師様」も、その後の「臆病な人魚」も、今や見る影もない。

代わりに浮かび上がったのは、か弱き乙女の演技──いや、表情である。


「るっ、るなりあぁぁーっ!!」


ユミルは涙目になりながら、プロの役者のように全力疾走。

そのままルナリアに飛び込むと、見事な バレリーナの如き動きで彼の背後に隠れる。

まるで練習でもしていたかのような、実に手慣れた身のこなしだった。


「え?」


ルナリアの困惑の声が響く中、ユミルは彼の制服の裾を掴みながら、すすり泣きの演技──いや、表情を浮かべるのだった。


涙目で制服の裾を掴み、か弱き乙女を演じる人魚を見て、ルナリアは首を傾げる。

唐突な展開に、彼の端正な顔が明らかな困惑の色を浮かべていた。


「ちょっと、アンタ」


ティーファが肩をすくませ、呆れたように声を上げる。


「あれ……一体何したのよ……」


彼女は廊下の向こうを指差す。

そこには──まさに地獄の使者とでも言うべき形相の不良達が迫っていた。

オーガの青筋立った顔、トロルの血走った目、そしてエルフの殺気立った眼光。そのほかにも多種多様な種族が、血眼になりこちらに迫ってきている……。

彼らが本物の鬼なのか、それとも怒りで鬼と化したのか、もはや判別すらつかない。


「ち、違うんスぅ!」


ユミルは涙目の演技──いや、表情を更に強めながら叫ぶ。


「アタシはなーんにもしてないっス!あの変態共が、突然アタシに襲い掛かってきて……多分魚に欲情する異常者なんスよ!きっと!」


その場にいた全員──ルナリア、ティーファ、そして初対面の巨漢オーガ、ナサラオまでもが、一斉に嘘だと確信する。

何しろユミルの演技があまりにも露骨すぎた。


「おいおい……」


ナサラオは分厚い首を傾げながら、呆れたように声を上げる。


「ありゃあゼノンのグループじゃねぇか。お前さん、よっぽどヤベェことしでかしたんじゃないのか?」


彼の目は確かに捉えていた。あの不良達の纏う空気が、ただの喧嘩屋とは明らかに違うことを。

温厚で統制の取れたゼノン一派が、まるで人格が変わったかのように激昂している。

そこまでさせる何かを、この人魚がやらかしたに違いない。


ナサラオは自分の巨体を忘れて、首をすくめながら思わず後ずさる。

この人魚、見た目は可愛らしいが、どうやら相当な「曲者」のようだ。


しかし人魚のお嬢さんは、ナサラオの言葉など耳に入っていないかのように、震える声でルナリアの背後から叫び始めた。


「テ、テメーら!この御方を誰だと思ってるんスか!?このルナリア様は、エルフの高貴なる貴族様なんスよ!」

「──!?」


貴族──。

その一言で、獣のように荒々しかった不良達の動きが、時が止まったかのように凍りついた。


(よしっス!効いた!)


ユミルは内心で歓喜の声を上げながら、ルナリアを盾のように前に押し出す。


「実はこの御方、大戦を終結させた英雄様の息子で!エルフの国の大貴族の……えーっと……」


ユミルは必死に記憶を辿りながら、尾びれをバタバタと震わせる。


「あの……アスパラ……?アジフライ……?あ、そうだ!アルマジロ侯爵の御子息様なんス!」


静寂が廊下を支配した。

不良達は呆然と口を開け、ティーファは手で顔を覆いながら、天を仰ぐ。

ルナリアに至っては、苦笑いを浮かべるしかない。


「……アルバトロでしょ」


ティーファが深いため息と共に訂正する。


「そ、そう!アルバトロ!エルフの誇り高き名門、アルバトロ侯爵のご子息様なんス!(全然知らないけど)」


ユミルは必死に声を張り上げる。もちろん、ルナリアの背中にガッチリと隠れたままで。


「見た目は庶民的な優等生って感じっスけど、これでも超が付くほどの御家柄なんスよ!?いいんスか!?この御方に傷一つでも付けたら、怒り狂った侯爵様がエルフの軍隊引き連れて殴り込んでくるんスよ!?一族郎党根絶やしにされても知らないっスからね!?」

「いや、それは流石にないかな……」


ルナリアは困ったように苦笑する。

「あの」父親が自分の傷を理由に報復するなど、有り得ない話だ。

むしろ真逆で、「わが息子ときたら何たる情けなさ!」と嬉々として折檻が始まるに違いない。

しかし不良達にそんな家庭の事情が分かるはずもない。

彼らは互いの顔を見合わせ、明らかに及び腰になっていく。


「お、おい……マジで貴族かよ……」


オークが分厚い首を縮こませながら、仲間に目配せする。


「落ち着けって。どうせあの魚女の嘘だろ」


人間の不良が強がりを言うものの、その声には明らかな動揺が混じっている。


「で、でもよ……マジモンだったらどうすんだよ?本気でエルフの軍隊が押し寄せてきて、皆殺しにされたら……」


彼らは確かに学園随一の不良グループ。

ゼノンの名を借りた威光は、この学園内なら誰もが恐れ慄く。

だが、彼らにはある種の賢さがあった。


──所詮、自分達は「井の中の蛙」でしかない。


学園の中でしか通用しない不良の威厳など、本物の貴族の前では塵芥にも等しい。

そんな現実を、中途半端に聡い彼らは理解していた。

こうして、学園の頂点に君臨するはずの不良集団は、一匹の人魚の嘘か真か分からない言葉に、成すすべもなく翻弄されていく……。


不良達は互いの顔を見合わせ、コソコソと内緒話を始める。

そしてようやく結論が出たのか、オーガの不良が一歩前に出た。


「貴族のお坊ちゃまよ。ちぃと話を聞いてくれ」


彼は普段の乱暴な口調を改め、できるだけ丁寧に言葉を紡ぐ。


「俺らはアンタとは争いたくねぇ。ただ後ろの魚女を引き渡してくれりゃ、それでいい」


エルフの貴族と無用な争いを起こす必要などない。

彼らが欲しいのは、支配者と繋がっているらしいこの人魚だけなのだ。


「ぴゃあっ!?」


ユミルは思わず悲鳴を上げる。

その通りだ。ルナリアには自分を守る義理など、どこにもない。

昨日出会ったばかりの、ただのクラスメイト。実質初対面のようなものだ。

だが──。


「ル、ルナリアぁ……」


ユミルは涙目になりながら、エルフの制服の裾をぎゅっと握り締める。

そしてまるで迷子の子猫のような、か弱い目で彼を見上げた。


「お願いっス……助けてくださいっスぅ……」


その哀願の声には、明らかな打算が混ざっていた。

ルナリアは思案に耽る。

碧眼のエルフには見え透いていた。ユミルのか弱き乙女の演技も、計算された涙目も、全てが分かっている。


(きっと自業自得なんだろう)


ユミルという女生徒は、明らかに考えなしの行動派だ。調子に乗りやすい性格も相まって、何か余計な事を言ってしまったに違いない。


だが──。


後ろで震える尾びれの音が、彼の耳に届く。

演技だと分かっていても、助けを求める少女を見捨てることなど、自分には出来そうもない。

ルナリアはゆっくりと手を伸ばし、ユミルの頭を優しく撫でる。

そして不良達に向き直ると、貴族の血を引く者としての気品を漂わせながら、毅然とした声で言った。


「申し訳ありませんが、彼女は僕の大切なクラスメイト。そして、友人でもあります」


その碧眼には、揺るぎない意志が宿っていた。


「貴方達の要求はお断りさせていただきます」


その凛とした態度に、不良達は思わず身を引く。

まるで本物の貴族の威厳を目の当たりにしたかのように。


「……」


──かっこいい。


ユミルは背中に隠れながら、そんな感想を抱いていた。

まるで童話の王子様のようだ。自分がこの人を盾にして逃げようと目論んでいたことが、急に恥ずかしくなる。


──まあ、今も逃げやすい体勢は崩していないんですけどね。


「がっはっはっは!!」


突如として豪快な笑い声が響き渡る。


「そうこなくっちゃお坊ちゃん!そうだよな、仲間を見捨てるなんて漢のすることじゃねぇ!」


ナサラオが巨体を揺らしながら、ルナリアの横に並ぶ。


「ゼノングループが、なんぼのもんじゃい!オレも助太刀させてもらうぜ、ルナリアよぉ!」


(や、やった!なんか知らんけど味方が増えた!誰だか知らんけど!)


ユミルは見知らぬオーガが味方に回ってくれたことに安堵した。

いや、誰だか分からないけど、とにかく助かる。肉壁にくらいにはなってくれるだろう。

きっと、運の風が吹いているに違いない。絶対に。


(絶対に風が吹いてる……これは間違いなく勝利の風っス……!)


かつての「大魔術師様」は、今や完全なる「風見魚」と化している……。

ナサラオという巨大な肉の壁を得て、ユミルの態度は一変していた。


「くっくっく……形勢逆転っスねぇ?ゼノンの靴舐め共よぉ、こっちにはエルフの軍勢がついてるんスよ!?覚悟は出来てるっスか!?」


ルナリアの背中に隠れたまま、得意げに尾びれを揺らす。

不良達の顔が見る見る青ざめていく。

確かにその通りだ。もし本当にエルフの軍隊が攻めてきたら、ゼノン一派など木っ端微塵だ。


……冷静に考えれば、子供の喧嘩程度で軍を動かす貴族などいる訳がない。

だが不幸なことに──いや、ユミルにとっては幸運なことに、不良達は冷静さを完全に失っていた。


「……」


そんな中、ティーファは、呆れた目でユミルを見つめていた。

斜に構えた視点から見ると、人魚の嘘っぱちぶりが手に取るように分かる。


(ったく……あんなに怯えてた癖に、肉盾が出来た途端に偉そうに……)


そして彼女は見抜いていた。

ユミルの立ち位置が、明らかに「独り逃げ」を狙っているものだということも。


(そうはいかないわよ……)


ティーファは密かに蜘蛛の糸をユミルの尾びれに巻きつける。

もし逃げ出そうものなら、即座に宙吊りにして魚の干物にしてやるつもりだ。

そうなれば、この調子に乗った人魚への最高の教訓となるだろう。



「さぁて、どうするっスかぁ?」


ユミルは得意げに尾びれを揺らしながら、相変わらずルナリアの背中に隠れたまま高笑いする。


「今なら特別に、土下座して謝れば許してやるっスよ?ゼノンの下っ端クンたち?」


その傲慢な態度に、ティーファは密かに蜘蛛の糸を強めていった。

この人魚、どうやら一度干物になる必要があるらしい。


一方、不良達は互いの顔を見合わせ、ヒソヒソと相談を始めた。


「おい、マジでどうすんだよ……貴族様が相手じゃ……」

「バカ野郎!どうやってゼノンさんに報告すんだよ?『すみません、貴族の坊ちゃんが出てきたんで、オシッコ漏らして逃げ帰ってきました』とでも言うのかよ!」

「そ、それは……」

「くそっ……ここは覚悟決めるしかねぇな」


一人の不良が拳を握りしめる。


「貴族だろうが何だろうが、ぶち殺すしかねぇ……!それが『男』ってもんだろうがよ……!」


不良達は無言で頷き合う。

その目には、覚悟とも開き直りともつかない光が宿っていた。


「ここで尻尾巻いて逃げたら、ゼノンさんの名に泥を塗ることになる。それに……」


オークの不良が一歩前に出る。


「ここで引いたら、俺らの漢が廃るってもんよ!行くぜぇ!ゼノン一派の本気ってもんを見せてやろうじゃねぇか!」


その叫び声には、ある種の潔さすら感じられた。

たとえ相手が貴族でも、ここで引くわけにはいかない──。

不良としての意地が、彼らをそう駆り立てていた。


不良達の覚悟の言葉に、ナサラオが獰猛な笑みを浮かべる。

その巨体からは、まるで「そう来なくては」とでも言わんばかりの戦意が漏れ出していた。

一方のルナリアは、困ったように金色の髪を掻く。


「え……は!?ちょ、マジっスか!?ここは一旦、話し合いで……」


ユミルの声が裏返る。

そうして、こっそりとその場を後にしようとした瞬間──。


「むにゃ!?」


突如として謎の糸が彼女の体を縛り上げ、人魚は見事な「活け締め」状態で宙に浮かび上がったのだった。


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