「ああ、セツィオ……あなたはどうしてセツィオなの……」
「ああ、ネリエット……君もどうしてネリエットなんだ……」
朝日に照らされた学園の屋上で、異様な光景が繰り広げられていた。
ヴァンパイアの男子は、まるでオペラの主役のように派手な衣装に身を包み、フリルのついた白いブラウスに赤いマントを翻している。
その隣では、人間の女子が中世の貴族のようなドレスを纏い、レースの手袋をした手を胸に当てていた。
制服ではなく、まるで舞台衣装──しかもかなり本格的な衣装である。
学園の屋上という場所柄を考えると、明らかに不釣り合いな出で立ちだった。
そんな奇妙な二人を、バルドは物陰から呆然と眺めていた。
彼のリーゼントが朝風に揺れる。
(なんだこいつら……)
バルドの眉間に深い皺が寄る。
クラスメート探しの一環で屋上に来たというのに、目の前で繰り広げられているのは、人間とヴァンパイアの永遠と続く愛の劇場。
普段なら、誰が誰と濃厚な関係を持とうが知ったことではない。
だが、不運なことにあの二人は2-Aの生徒──つまり"狩るべき獲物"なのだ。
「……げぇー」
芝居がかった台詞と大げさな身振りに、バルドの胃が痛くなる。
この甘ったるい光景を、魔導弾で木っ端微塵にしてやりたい衝動に駆られる。
だが──。
アルヴェのおもちゃになるのは、どうにも性に合わない。
反骨精神の塊のような彼は、なるべくあの狂った教師の意のままにはなりたくなかった。
「くそが……!」
バルドは苛立たしげに舌打ちをする。
だが、答えは既に決まっていた。
魔導弾に頼らずとも、このイチャつきを破壊する方法なら、いくらでもある──。
「よし、力づくでも連れてくか」
バルドは不良らしく、拳を鳴らす。
優雅な芝居ごっこは、この拳で終わらせてやる。
「おい!いつまでイチャついてんだよ、テメェら!」
彼の怒声が屋上に響き渡る。
だが二人は、まるで蚊の鳴くような音を聞いたかのように、ちらりと視線を向けただけ。
「まぁ、セツィオ。なにか野獣の声が聞こえたようだわ」
女子がレースの手袋で口元を押さえる。
「ああ、どこかの醜い野良犬が吠えているのだろう、ネリエット」
ヴァンパイアの男子が、わざとらしく肩をすくめる。
「そうねぇ、きっとそうよ」
「ああ、早く消えて欲しいものだ」
二人は優雅に抱擁を続け、まるでバルドなど存在しないかのように振る舞う。
バルドの額の血管が、見る見る膨れ上がっていった。
「てめぇら……いい加減にしろよ!!」
ついに堪忍袋の緒が切れ、バルドは絶叫した。
その怒声に、ようやく二人が振り向く。
だが──。
「あら、貴方だれ?」
女子が首を傾げ、うっとりとした目でヴァンパイアの男子を見上げる。
「さぁ?見たことのない顔だが……」
男子も、まるで虫でも見るかのような冷ややかな目でバルドを見下ろす。
その瞬間。
バルドの脳内で、何かが音を立てて切れた。
「てめぇらっ!!」
バルドの怒声が轟く。
彼の手は、上着のポケットの魔導弾に伸びかけたが──意地と反骨心で、すぐに握りこぶしへと変える。
アルヴェの玩具には、絶対になるものか。
「ぶっ殺すっ!!」
彼は渾身の怒りを込めた右ストレートを放つ。
だが──。
「やれやれ、危ないじゃないか」
セツィオと呼ばれるヴァンパイアは、まるで蚊を払うような仕草でその拳を受け止めた。
そして、優雅な社交ダンスのステップを踏むかのように、軽く手首を返す。
「なっ!?」
バルドの体が宙を舞う。
次の瞬間──。
彼の背中が屋上の床を強打し、コンクリートに蜘蛛の巣状の亀裂が広がった。
「げほっ……!」
バルドの喉から、情けない呻き声が漏れる。
「げほっ……くそぉ……!」
一瞬呼吸が止まったものの、バルドは何とか体を起こす。
リーゼントは乱れ、制服は埃まみれになっているが、不良の意地だけは健在だ。
そんな彼の姿など目に入らないかのように──。
「大丈夫?ネリエット、驚かなかった?」
「ええ、セツィオがいれば何も怖くないわ」
二人は再び甘い視線を交わし始める。
「てめぇら……!」
しかし、バルドが動こうとした時には、既にセツィオの手刀が彼の首筋に突きつけられていた。
「っ!?」
その動きは、人間の目では捉えられないほどの速さ。
バルドは息を呑む。こいつは、ただのラブラブカップルじゃない──。
「これ以上、僕達の邪魔をするつもりかな?」
セツィオの声は穏やかだが、その手刀からは確かな殺気が漂っていた。
「くそっ……」
バルドは悔しさに歯を噛みしめる。
だが、現実を理解していた。このヴァンパイアは、桁違いに強い。
それは単に高位魔族だからというだけの話ではない。
その一挙手一投足には、血で血を洗うような戦いの経験が滲んでいた。
(こいつ……ただの恋するお坊ちゃんじゃねぇ)
バルドが路上で喧嘩に明け暮れていた頃、このヴァンパイアは恐らく本物の死闘を潜り抜けてきたのだ。
それも、吸血鬼特有の特殊能力を見せることすらなく、これほどの実力──。
(マジでヤベェ奴に絡んじまったな……)
バルドは不良らしく、潔く敗北を認めた。
この戦いを続ければ、自分の命が危ないことくらい分かっていた。
「まぁ、この人ったらバカね。セツィオに勝てるわけないのに」
ネリエットが上品に笑う。その声には、明らかな見下しが混ざっていた。
「そんな言い方はよくないよ。この人も一生懸命だったんだから」
「あら、優しいわねセツィオ。そういうところも大好き」
「僕も君が好きだよ、ネリエット」
その甘ったるいやり取りを聞きながら、バルドは胸の中で沸き立つ怒りを必死に押さえ込む。
彼のリーゼントが怒りに震えていた。
(くそっ……我慢だ、我慢……。負けは負けだ。不良にも意地ってもんがある……)
彼の目は、ポケットの魔導弾へと向かう。
これを使えば、きっとこの高慢なヴァンパイアにだって勝てるはず。
だが──。
(そんな借り物の力なんざ、使えるか……!)
バルドは歯を食いしばる。
アルヴェの力を借りて得た勝利など、何の価値もない。
それは不良としての誇りが、決して許さないことだった。
──その時。
一陣の風が吹き抜けた。
バルドのリーゼントを巻き上げ、その瞬間──彼の隠したかった弱点が露わになる。
「まぁ!セツィオ、見て!あの人、随分とハ……じゃなくて、薄くてよ?」
ネリエットが白い手袋で口元を押さえて笑う。
「ほんとだね。なんて哀れな……」
セツィオも、わざとらしく同情するように首を傾げる。
「可哀想に。私達の髪を少し分けてあげましょうか?」
「そうだね。せめて毛根だけでも救ってあげないと」
二人の忌々しい会話が、バルドの理性の最後の一線を踏み越えた。
「──殺してやる」
彼の怒声が屋上に響き渡る。
もはや負けを認めた謙虚さも、不良の意地も、全て吹き飛んでしまっていた。
バルドの手から放たれた魔導弾が炸裂する。
間欠泉のような大量の水流が二人を屋上から打ち上げ、空高く飛ばしていった。
「まぁ!セツィオ、私達空を飛んでるわ!」
ネリエットは、この非常事態でさえ上品に微笑む。
ドレスの裾が風に舞い、まるでバレエのワンシーンである。
「ああ、確かに飛んでいるね」
セツィオも穏やかに応じる。
服が水浸しになっているのにも関わらず、その表情は優雅そのものだ。
「このまま地面に叩きつけられたらとても痛そうね。セツィオ、貴方は翼を出して私を助けてくれるのよね?」
「それが──」
セツィオは芝居がかった溜め息をつく。
「流水に触れると、我々ヴァンパイアは力が使えなくなってしまうんだ」
「まぁ、困ったわ!じゃあどうするの?」
「だから──君を抱きしめて衝撃を和らげることしかできない。許してくれ」
「素敵!じゃあお願いね、セツィオ!」
二人の会話は、この非常事態でさえロマンチックな舞台劇を彷彿とさせる。
そんな二人を見上げながら、バルドは心の中でつぶやいた。
(なんだこいつら、マジで……)
そうして、二人が屋上の床に激突する。
その衝撃音と共に、セツィオの背骨からバキバキという不穏な音が響いた。
「うぎゃあっ!!」
ヴァンパイアの苦痛の呻き声が漏れる。
バルドは大した罪悪感も感じずに、床で痙攣するセツィオを見下ろす。
その上で相変わらず、「まぁセツィオ、貴方は瀕死だけど私は無傷だわ!嬉しい!」とか言いながらイチャつくネリエット。
「はぁ……はぁ……」
バルドは荒い息を繰り返しながら、床で痙攣するセツィオと、彼に甘え続けるネリエットを見下ろす。
結局、アルヴェの玩具を使ってしまった。
不良の意地も、反骨心も、全て台無しだ。
(でも、こいつらが悪いんだ……俺の髪の話なんか出すから……)
そう自分に言い聞かせながら、バルドは吐き捨てるように言った。
「おい、いつまでもイチャついてんじゃねぇぞ。さっさと来いや」
「行くって……どこに?」
ネリエットが上品に首を傾げる。
その仕草は、今の状況を考えると明らかに場違いだった。
「……」
バルドは一瞬言葉を詰まらせる。
そして、深いため息と共に答えた。
「2-A。俺と、お前らの本来の教室だよ」
彼は自嘲気味に付け加える。
「今じゃアルヴェってイカれた野郎が支配する、地獄みてぇな場所になっちまったがな」
「まぁ!地獄ですって!?」
ネリエットが大げさに目を見開く。
そして、痙攣するセツィオに抱きつきながら甘い声を上げる。
「ねぇセツィオ、地獄でも私を守ってくれるのよね?」
「も、もちろんだ……い、いとしのネリエット……」
セツィオは背骨が折れているであろう痛みをこらえながら、芝居がかった台詞を紡ぐ。
「き、君の愛があれば……僕は例え業火の中でも……凍土の中でも……飛び込めるからね……でも、今は少し休ませて……」
バルドは呆れた目で、床で痙攣しながらも愛を語り続ける二人を見つめる。
そして心の中で、深いため息をついたのであった。