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第14話

朝日が差し込む教室で、一人の青年が静かに本を開いていた。

金色に輝く長い髪が朝の光を受けて柔らかく揺れ、その尖った耳はエルフの血を引く証。

深い碧を湛えた瞳は、教科書の一行一行を丹念に追っている。


「……」


──その青年の名は、ルナリア。

誰もいない2-Aの教室で、彼はいつものように早朝の自習に励んでいた。

伽藍洞と化した空間に、ページをめくる音だけが静かに響く。

ここには他の生徒の姿など無い。「いつも通り」誰も来ないのだ。

整然と並べられた机と椅子は、芸術品のように朝日に照らされ、長い影を引く。


「ふぅ」


その静謐な空気の中で、ルナリアの端正な横顔が浮かび上がっていた。

彼の一挙手一投足には生まれながらの気品が漂い、この学園には不釣り合いとも言えるような優雅さを醸し出している。

そんな彼の周りだけ、時間が止まったかのような静寂が広がっていた──。


その時だ。


突如として教室の扉が開かれる音が、静寂を切り裂いた。

ルナリアが驚いて顔を上げると、そこには思いもよらない来訪者の姿があった。

上半身は制服を着た少女のそれなのに、腰から下は巨大な蜘蛛の姿──。黒

く艶やかな外骨格を持つ八本の脚が、おずおずと床を掻く。

アラクネの種族特有の姿だ。彼女の制服のスカートは、人間とは異なる体型に合わせて製作されているのが分かる。


「あ……」


ティーファは予想外の人物の存在に、小さく声を漏らす。

教室に入ると、エルフの美青年の姿があったのだ。

ルナリアもまた、彼女の姿を見て一瞬だけ驚きの色を浮かべたものの、すぐに優しい微笑みへと表情を変えた。


「おはようございます、ティーファさん」


ルナリアの笑顔には、いつもの優しさが溢れていた。

その無垢な微笑みを向けられ、ティーファの頬が僅かに赤みを帯びる。彼女の八本の脚が、少しだけ落ち着きなく床を掻く。


「……おはよ」


そっけない返事ながら、きちんと挨拶を返すその仕草に、ルナリアは意外な温かみを感じていた。

不良とは名ばかりで、本当は素直な子なのかもしれない──。

だが、なぜ彼女がここに?今まで誰一人として足を踏み入れなかった、この早朝の教室に。

そんなルナリアの疑問を見透かしたように、ティーファは恥ずかしそうに、しかし諦めたような声で呟いた。


「あのさ……昨日アイツが言ってたじゃん。『ちゃんと出席しないとテメーの蜘蛛の巣ごと焼き尽くしてやる』って……」


彼女の声には、言い知れぬ恐怖と諦めが混ざっていた。

そう、「アイツ」──新任の担任、アルヴェ・ローレンスの脅しが、こうして彼女を教室へと追い立てたのだ。


──昨日、アルヴェはサボり常習犯の3人に「愛のある指導」を行った。


『リーゼントが自慢だったよなぁ?バルド君よぉ。もう一度サボりやがったら頭髪ごと燃やし尽くしてやるから楽しみにしてろよ?ぎゃはは!』

『ユミルは水が好きだったよなぁ?明日来なかったら、オメェの大好きな池を永久凍土にしてやるからな!あ、もちろんテメェもその中に閉じ込めてやるから安心しろや!』

『ティーファ?随分と洒落た名前じゃねぇか……。ところで蜘蛛の巣って燃えやすいよなぁ。もしお前の姿が見えなかったら、大事な大事な蜘蛛の巣の家が焼失しちゃうかもなぁ。なんでかって?さぁ、知らねぇ』


その時の彼の笑顔は、不気味な輝きを放っていた。

この男なら──本当にやりかねない、という確信めいた恐怖が、不良たちの胸の奥で渦巻いていた。

あの男は、自分の言葉に偽りを織り込む程度の良心すら持ち合わせていない。

むしろ、約束を守らなかった生徒を「教育」する口実として、本気で実行しかねないのだ。


「なるほど……」


ルナリアは静かに頷いた。

しかし、アルヴェの恐怖政治のお陰とはいえ、不良たちがきちんと登校してくれることに、彼は密かな喜びを感じていた。

一方、ティーファは八本の脚をそわそわと動かしながら、ルナリアの姿を不思議そうに観察している。

朝日に照らされた教室で一人教科書を広げる姿は、彼女にとってあまりにも異質な光景だったのだろう。


「あー……その。噂には聞いてたけど、マジで一人で勉強してるんだ」


その言葉には、驚きと共に何か別の感情が混ざっていた。

この2-A教室は、学園の中でも特別な場所だった。

生徒が来ないから教師も来ない。教師が来ないから授業も行われない。

そんな負のスパイラルに支配された空間は、学園という海に浮かぶ孤島のように、完全に打ち捨てられた場所となっていた。

それでもルナリアは毎朝ここに来て、一人黙々と勉強を続けていた。


「そうですね。ここは静かで、勉強にはぴったりなんです。時々、学園長も来てくださって……」


ルナリアは柔らかな笑みを浮かべた。その無邪気な表情は、朝日に照らされてより一層輝いて見える。


「……」


その笑顔を見た瞬間、ティーファの胸の奥が締め付けられたような錯覚を覚える。

彼女は慌てて首を振り、湧き上がる奇妙な感情を振り払おうとした。


「ふ、ふーん……変な奴」


その言葉とは裏腹に、ティーファの口調には不思議な温かみが混ざっていた。

──このエルフは確かに「変」だった。

2-Aという不良の巣窟に、清らかな水晶のように不釣り合いな存在。

いつも穏やかな笑顔を絶やさず、不良とも関わらず、ただ一人静かに学園生活を送る美青年。

普通なら、こんな「いい子ちゃん」は不良から疎まれるはずだ。

しかし、ティーファは彼の在り方が嫌いではなかった。それがどういう感情なのか自分でもよくわからないが。


(なんなんだろ、こいつ……)


自分の中の奇妙な感情に戸惑いながら、ティーファが席に向かおうとした、その時だった。

ガラガラッ!と。勢いよく開かれた扉の音に、思わず二人が振り向く。

そこには意外な来訪者の姿があった。


「おっはよーッス!!」


人魚のユミルが、普段から朝の挨拶をしているかのような自然さで声を上げる。

その尾びれはぴょんぴょんと跳ねるように動き、制服の裾が揺れている。

一方、その隣には不機嫌そうな表情で人間の不良バルドが立っていた。

リーゼントの髪型を必死に保ちながら、「ふんっ」と鼻を鳴らす。


「……」


どうやら二人は偶然、登校途中で出くわしたらしい。

昨日までなら考えられなかった光景──不良たちが朝から教室に集まってくるなど。


「アンタ達も結局来たんだ」


ティーファがそう声をかけると、バルドは更に不機嫌そうな顔をしかめた。


「チッ……髪の毛燃やされたら、目も当てられねぇだろうが。来たくて来てんじゃねぇんだよ」


その言葉にユミルが意地悪く笑う。

尾びれを揺らしながら、わざとらしく首を傾げて。


「ただでさえ薄毛気味なバルドくんが、もっと薄くなっちゃったら大変っスもんね~」

「テメェ!人魚のクセに生意気言ってんじゃねーぞ!お前だって凍らされた魚になりてぇのかよ!?」


二人の言い争う声が教室に響き渡る。

昨日までほとんど接点のなかった者同士とは思えないほど、息の合った掛け合いだ。

まるで古くからの友人のように──いや、むしろ「共通の敵」を得たことで、妙な連帯感が生まれているのかもしれない。

その「敵」とは言うまでもなく、彼らの新任担任である。


「おはようございます。ユミルさん、バルドくん」


ルナリアの穏やかな声に、二人は対照的な反応を見せる。


「おっす!おはようございますッス、ルナリア!」


ユミルは尾びれを軽やかに揺らしながら、元気いっぱいに返事をした。

その無邪気な笑顔は、人魚特有の愛らしさを漂わせている。

一方のバルドは「ふん」と鼻を鳴らし、不機嫌に頷いただけ。

ルナリアは思わず苦笑する。

いつもは静寂に包まれていた教室に、今や賑やかな空気が満ちている。

悪態を吐き合う声、椅子を引く音、教科書を出す物音──。

些細な日常の音が、この空間に不思議な温かみを与えていた。

三人は文句を言いながらも、自然と自分の席へと向かっていく。不良と呼ばれる彼らも、ちゃんと自分の居場所は覚えていたのだ。


「でもよ……アルヴェってのは何者なんだ?」


バルドが不機嫌そうに椅子に座ったまま呟く。

その声には、昨日の恐怖が未だに残っているようだった。


「噂によるとヤバい奴が学園に現れたって大騒ぎになってるらしいッス。この前の『大氷結事件』も、あの狂った野郎の仕業だって」


ユミルは尾びれを揺らしながら、ゴシップでも話すかのような口調で言う。

水辺で様々な噂を拾い集めるのは、人魚の特技なのかもしれない。


「そういえばティーファ、アンタその場にいたんスよね?」


ユミルの言葉に、ティーファの脚が一瞬ビクリと震えた。

彼女は何かを思い出したように顔を曇らせ、ゆっくりと口を開く。


「ああ……いたさ」


ティーファは嫌な記憶を思い出すように、八本の脚が小刻みに震える。


「ゼノンのグループと揉めてた時にさ、突然現れやがったんだ。見たこともねぇような魔術を次から次へと……」


彼女は忌々しげに唇を噛む。その瞳は、まだあの時の光景が焼き付いているようで震えている。


「まず雷が降ってきた。それを必死こいて避けたと思ったら、今度は青い炎の渦が襲ってきて。最後には全てが氷漬けになって……」


ティーファの声が僅かに震える。


「死人が出なかったのが奇跡ってくらいの惨状。でもアイツはさ……氷漬けになった私達を見て、『なんだぁ?一匹も死んでねぇのかよ。つまんねぇなぁ』って笑ってやがったんだ」


教室に重苦しい沈黙が落ちる。


「分かるでしょ?死人が出なかったのは、アイツが手加減したからじゃない。たまたま……運良く死ななかっただけ。それに気付いた時、みんな心底震えてたよ。クローネなんて、氷の中で泣き出しちゃってさ……」


その言葉に、教室の空気が一段と重くなった。

彼らは皆、同じ事を悟っていた──あの狂人は、本気で人を殺せる男なのだと。


バルドとユミルは言葉を失った。

昨日の暴力だけでも十分に異常だと思っていたが、ティーファの証言はその比ではない。

彼らが目の前にしているのは、想像を遥かに超えた「怪物」だったのだ。


「……一体何なんだ、アイツ」


バルドが震える声で呟く。


「本当に人間なのか?あの化け物は……」


その問いに、ルナリアはゆっくりと顔を上げた。

彼の碧眼には、何か深い色が宿っている。


「彼は──英雄です。百年前の大戦を戦い抜いた、伝説の英雄の一人」

「は……?」


三人の声が震えるように重なる。

その言葉が意味するものの重さに、教室の空気が一瞬で凍り付いた。


大戦の英雄──。


授業をサボってきた彼らでさえ、その存在は知っている。むしろ、知らない者などいない。

百年前、人類と魔族の血で血を洗うような戦いを、たった数人の英雄が終結させたという伝説。

まるで御伽噺のような物語は、教科書にも載っているほどだ。

彼らにとってそれは、遠い昔の歴史の一頁でしかなかった。

しかし、もしルナリアの言葉が本当なら──。


「いや、待ってくれよ。あの異常者が英雄?嘘だろ……」


バルドが首を激しく振る。その表情には純粋な戸惑いが浮かんでいた。


「そうっス!だってだって、私達が知ってる、もっと優しくて立派な人たちだったハズっス!」


ユミルが尾びれを慌ただしく揺らしながら抗議の声を上げる。

その声には子供のような純粋さが混ざっていた。

ルナリアは、そんな二人の反応に苦笑を浮かべる。

確かに教科書に描かれた英雄像は、慈愛に満ちた理想的な存在として美化されているのだろう。

そして、それは決して間違いではない。ただし──。


「英雄といっても、一つの『集団』だったんです。確かに傭兵団の団長だったエゼアは、教科書通りの人格者でした。でも……」


ルナリアは言葉を選ぶように、慎重に続ける。


「他の団員達は、かなり……個性的な人物が多かったと聞いています。特にアルヴェさんは、その中でも一際異彩を放っていたようで」


エゼア傭兵団──大戦を終結に導いた伝説の集団。

人々は彼らを「英雄」と呼び、その偉業は語り継がれていった。


「へぇ……じゃあアイツはその傭兵団の一員だったってワケ」


ティーファは八本の脚をゆっくりと動かしながら、不思議そうにルナリアを見つめる。


「でもさ、アンタどうしてそんなに詳しいワケ?妙に色々知ってるみたいだけど」


その鋭い指摘に、ルナリアは一瞬だけ身を震わせた。

彼は困ったように金色の髪を掻き上げ、少し言葉を躊躇った後──。


「僕の両親も、その傭兵団に所属していましたから」

「え……」


その言葉に、またもや呆気に取られる3人。

ティーファが何か言葉を紡ぎ出そうとした、まさにその瞬間──。


ドォン!!と。轟音と共に教室の引き戸が吹き飛んだ。


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