「ひっ……!」
バルドは思わず悲鳴を漏らし、その場にへたり込んでしまう。
この男に名前を呼ばれただけで、膝から力が抜けてしまったのだ。
アルヴェはゆっくりと、倒れた獲物を眺めるかのような目つきでバルドを見下ろしていた。
「ふぅん……テメェ、なかなかの善人じゃねぇか?あんな社会のクズ共に道を譲るなんてよぉ。と~っても良い子なんだなぁ?えらいえらい」
アルヴェは指をくるくると回しながら、笑みを浮かべる。
その皮肉めいた台詞に、バルドの背筋が凍り付いた。
見られていたのか──不良としてのプライドを捨て、異種族の不良に道を譲ったあの瞬間を。
「へへっ……リーゼント立てて、首からチンピラみてぇなネックレス下げといて、中身はお利口さんかぁ。人は見かけによらねぇもんだなぁ!ぎゃはははは!」
アルヴェの嘲笑が響き渡った直後。
「──!?」
──鋭い蹴りがバルドの腹を貫いた。
「がはっ……!?」
予期せぬ一撃に、バルドは腹を抱えて地面に倒れ込む。
痛みと共に湧き上がる疑問。
──なぜ蹴られた?何が気に食わなかったというのか?
「あん?なに不思議そうな面してやがる?あぁ、分かんねぇのかぁ?俺がテメェを蹴った理由が……」
アルヴェは意地の悪い笑みを浮かべながら、地面に這いつくばるバルドを見下ろす。
「へへっ……」
アルヴェは腹を抱えて蹲るバルドの耳元まで顔を寄せ、低い声で呟いた。
「俺はなぁ……テメェみてぇな『偽物』を見るとイライラすんだよ。外見だけイキがって、中身は情けねぇクソ雑魚。へっぴり腰で逃げ回るゴミクズが……なぁ!」
「!?」
再び放たれた蹴りが、バルドの体を貫く。
彼は抵抗する間もなく、人形のように廊下を転がっていった。
「まぁ、本来ならテメェみてぇな中途半端なクソゴミは、即座にぶっ殺して消し炭にするとこだが」
アルヴェは意地の悪い笑みを浮かべる。
「運がいいことに、テメェは2-Aの掃きだめクラスの生徒らしいじゃねぇか。幸運に思うんだなぁ?底辺クラスに所属していたことをよ……」
「な、なにを……言って……」
バルドは血を吐きながら、意味不明な言葉を呟く。
この狂った男が何を言いたいのか、理解しようとする前に──。
今度はアルヴェの拳が、バルドの腹を貫いた。
「ぐはぁっ……!?」
「へへっ……じゃあな。目が覚めたら『天国』だぜ?2-Aっていう素晴らしい楽園だ。ぎゃははは!!」
薄れゆく意識の中で、バルドは悟っていた。
この男が言う『天国』なんて、きっと地獄そのものなのだと。
狂人が支配する、まさに生き地獄──。
そんな確信と共に、バルドの意識は暗闇へと沈んでいった。
床に転がる彼の横で、アルヴェは実に満足げな笑みを浮かべていた
♢ ♢ ♢
「へへっ、平和ボケした学園も案外楽しいもんだなぁ」
アルヴェは千鳥足で学園内を徘徊していた。
時折、不良どもが道を譲らない様子を見て歯指一本で吹き飛ばし、魔導外套を光らせては炎上させ、実に愉快そうに破壊の限りを尽くしている。
「元気が有り余ってるゴミ共にこの英雄様が『正義の教育』をしてやってるだけだァ……有難く思え社会の底辺どもぉ~♡」
廊下の角から獣人の不良が飛び出してきたと思えば、デコピンで天井まで吹っ飛ばし。
校舎の裏で奇妙な草を吸っていたドワーフの集団には火をつけてやらぁと言って熱い炎をばら撒き。
屋上でサボっていたハーピーの群れは、雷撃一発で見事に丸焼き状態──。
「ぎゃはははは!段々とわかってきたぜ。教師ってのは実に素晴らしい職業じゃねぇか!ストレス解消にはもってこいだなァ!」
そんな「教育者」が貯水槽の前を通り過ぎた時、ふと足を止めた。
「ん?」
貯水槽の中から、何かの気配が漂ってくる。
「妙だな……あんなところから気配を感じる……」
アルヴェは目を細めて貯水槽を見上げる。
普通なら、あんな場所に生命の気配を感じるはずがない。
「まぁでも、ここは色んな種族が集まる『学び舎』だからなぁ……」
彼は嘲笑うように言葉を紡ぐ。
「いや、どっちかっつーと世界中のゴミクズを一箇所に集めた、立派な『ゴミ集積場』って感じだな。そんな場所なら貯水槽の中に気配がするってのも、まぁ納得っちゃ納得か」
アルヴェは不吉な光を放つ魔導外套に身を包んだまま、そっと空中へと浮かび上がる。
「さーて、どんなゴミが隠れてやがるのかなぁ?」
錆びついた貯水槽の扉を開けると、中からは冷たい水の匂いが漂ってきた。
内部は薄暗いが澄み切った水が溜まっている。恐らくこまめに手入れされているのだろう……。
しかし、貯水槽は貯水槽だ。幾ら綺麗だからと言って普通の生物が住める場所ではない。
だが、そこにいたのは──
「……人魚?」
アルヴェは目を見開いた。
そこには制服を着た人魚の少女が浮かんでいたのだ。
肩まで届く青色の髪が水中でゆらゆらと揺れ、腰から下は美しい魚の尾を持つ。
制服の裾は水に濡れて重そうに沈んでいるが、彼女自身は優雅に水中で身体を保っていた。
人魚族──人の上半身と魚の下半身を持つ、水棲の種族である。
「はぁ……?人魚のクソガキが貯水槽でサボってやがんのか。まぁ、人魚らしい発想ではある……魚は水の中が居心地いいもんなぁ!ぎゃははは!」
アルヴェは嘲笑うように高笑いを上げる。
なるほど、と彼は納得したように頷いた。水中でこそ力を発揮する人魚にとって、この場所は最高の隠れ家なのだろう。
さすが不良、サボり場所の選定が実に的確である。
いや、むしろそこまで考えてサボる場所を選んでいるなら、その頭を勉強に使えばいいものを──。
「ったく、世の中には色んなゴミがいるもんだぜ」
アルヴェは呆れたように溜め息をつく。
今日一日で様々な「社会のゴミ」を目にしてきたが、こんな場所でサボる不良は初めてだった。
「んぁ〜……まぶしいっス……扉、閉めてよ〜?」
人魚の少女は、顔だけ水面から出して、すやすやと眠りこけていたらしい。
突然の来訪者に対して、寝ぼけながらそう言った。
実に図々しい態度である。
(この生意気なクソガキが……サボり中のゴミクズの分際で偉そうに……)
アルヴェの額に青筋が浮かぶ。
こいつは教育的指導が必要かもしれない。いや、必要に決まっている。
……だが待て。
よく見れば、そこまで不良っぽい雰囲気でもない。
むしろ、ただの「おバカ」という印象だ。
そうだ、このアルヴェ・ローレンスは紳士なのだ。高潔なる英雄様が、ただの馬鹿な生徒に手を上げるわけにはいかない。
「おいおい、魚ちゃんよぉ。そろそろ目を覚ましたらどうだ?つーか、貯水槽で寝てたら水が濁るだろうが。お前の体から出る汚れで、この水飲めなくなっちまったらどうすんだよ?」
アルヴェは極めて紳士的に、実に丁寧に接していた。
普段なら即座に相手を消し炭にするところを、ここまで言葉で諭すなんて──
さすがは高潔なる英雄様である。アルヴェは自分で自分を褒めてあげた。
だが──。
「はぁ〜?何言ってんスかこいつ〜。アタシの綺麗な身体は、アンタみたいなゴミとは違うから水は全然汚くならないっスよ〜?つーかアンタ誰っスか?まさか人魚の乙女の眠りを覗きに来た変態?キモッ!」
「──」
その瞬間。
アルヴェの表情が、見事なまでに一変した。
彼の額に浮かぶ青筋は今にも切れそうなほどに膨れ上がり、目は血走り、魔導外套の紋様が不吉な輝きを放ち始める。
──変態、だと?
この高貴なる英雄様に向かって、変態とは?
しかも、ゴミ呼ばわりまでして?
紳士的に接してやった自分の慈悲の心が、今、音を立てて崩れていくのが聞こえた。
「……」
アルヴェは一切の言葉を発することなく、ただ純粋な怒りに顔を染めながら、指先を水面へと向ける。
その指から迸る紫電は、まるで雷神の怒りのように周囲を這い回っていく。
「ていうかぁ、さっさと出てってくれないっスか?ここはアタシのプレイスなんでぇキモいおっさんはお呼びじゃ……って、うぎゃあーーーーッ!?」
人魚の侮蔑的な言葉は、悲鳴へと変わった。
アルヴェの放った電撃が水面を走り、貯水槽全体が紫色に輝き出す。
「こ、この魚のガキが……テメェ、この俺様が誰だか分かってて言ってんのかぁ?」
アルヴェは怒りに震える手で顔を覆いながら、低く唸るように言った。
「ぎ……ぎゃぁ……い、いえ、誰なんスか?アンタ……ぎょえーーーッ!?」
更なる電撃が水面を走る。
貯水槽の水が沸騰し始め、人魚の少女は文字通り、煮え湯に浸かっているような状態に──。
「へへっ……焼き魚になりたいってんなら、この英雄様が特別にサービスしてやるよ!」
アルヴェの魔導外套がこの日一番の輝きを放つ。
紫電は更に強さを増し、貯水槽の水は文字通り沸騰し始めた。水蒸気が立ち昇り、人魚の悲鳴が響き渡る。
「やべ……あちゅい!!びりびりする!!いでぇ!?うきゃーーーー!!」
やがて「お仕置き」を終えたアルヴェは、ぐったりとした人魚を魔術で宙に浮かせ、水から引き上げた。
制服はボロボロで、白目を剥いた人魚は、まるで干物のように力なく宙を漂っている。
「うーん……ちょいとばかし、やり過ぎたかねぇ?」
アルヴェは首を傾げながら、魔術で浮かせた人魚を眺める。
「まぁいいか。この程度で死ぬような奴は、最初から生きる価値なんてねぇんだよ。ギャハハハ!」
周囲に焼き焦げたような匂いが広がる中、アルヴェは気怠そうに手をくるくると振り翳す。
「さて、と」
アルヴェは魔力を操って、近くに「置いていた」他の生徒たちを浮遊させ、自分の周りに集める。
アルヴェの眼前には、気絶した生徒たちの体が宙に浮かんでいた。
──蜘蛛の糸を操るアラクネの不良女。
──不良の皮を被った腰抜けの人間男。
──生意気な口を利く人魚の女。
「ようやく三匹目ってとこか」
人形のように宙を漂う三人を眺めながら、アルヴェは深いため息をつく。
「はぁ~……この糞デカい学園、腐るほど広すぎやがる。時間食っちまうぜ」
アルヴェは気絶した三つの「戦利品」を眺めながら、溜め息をつく。
この学園は、まるで一つの街のように広大な敷地を誇っていた。
税金の無駄遣いも甚だしいが──まぁ、そんなことはこの英雄様には関係ない。
「これだけ頑張ってたった3匹とはな……。このペースじゃ50匹全員確保するのに、どんだけ時間かかるんだよ」
アルヴェは不機嫌そうに呟く。
クラス全員を回収するという壮大な目標に対して、あまりにも進捗が悪い。
「しかもよぉ……」
彼は意地の不機嫌な表情を浮かべ、気絶した三人を見つめた。
「捕まえた順から見ても、この学園のゴミの質が段々と落ちてきてやがる。最初はまだマシなゴミだったが……」
三人の不良は、無造作に宙に浮かんでいた。
「はぁ……」
アルヴェは気絶した生徒達を見つめながら、どこか遠い目をする。
──このザマじゃあ、戦場なんて生き残れるはずがない。
何しろ戦場は、地獄以上に残酷な場所なのだ。アルヴェ自身、生きているのが奇跡と言えるほどの修羅の世界。
甘やかしていては、こいつらのためにならない。
新兵は、甘い考えを持ったまま戦場に出れば、すぐに死んでしまう。
そう……あの時の、若き兵士たちのように。
──だから、もっと厳しくしないと。
「……!」
ハッと我に返ったアルヴェは、慌てて周囲を見回した。
そこには平穏な学園の風景が広がっているだけ。
もう戦場も、死体の山も、悲鳴も、何もない。
「そうか……今は、もう殺し合いなんてしなくていいんだっけ」
アルヴェは自嘲するように呟く。
今はあの地獄のような時代じゃない。平和な学園で、生徒達を「教育」する必要なんてない。
もう……殺し合いは、しなくていいのだ。
「ちっ」
不機嫌そうに舌打ちをすると、手元の酒瓶を傾ける。
だが、既に中身は空。最後の一滴さえ残っていなかった。
「……肝心な時に、酒がねぇとはな!役立たずが、消えろ!」
アルヴェは空になった酒瓶を高々と放り投げ、指先から魔力の光線を放った。
バリンッ!という音と共に、酒瓶は粉々に砕け散る。
硝子の破片が、キラキラと光を反射しながら雨のように降り注ぐ。
「……くそっ」
その破片の雨の中、アルヴェは気絶した三人の生徒を魔力で浮かせながら、よろよろと歩を進めていった。
まるで、百年前の亡霊に追われるかのように──。