アルヴェによる「大氷結事件」から数日後──。
「う〜ん……むにゃむにゃ……酒をくれぇ~……♡」
学園長室で、アルヴェが幸せそうに寝言を漏らしていた。
かつては高貴な香りを放っていたはずのこの部屋も、今ではアルコールの匂い漂う居酒屋とでも形容すべき様相を呈している。
机の上には空き瓶の山が築かれ、床には「明日片付けよう」と永遠に先送りにされた酒瓶の群れが転がっていた。
「すぴー……すぴー……」
その酒瓶のコロニーの中心で、一人の青年が優雅に昼寝を楽しんでいた。
いや、「居座っていた」と表現する方が正確かもしれない。
本来ならハーブティーの香りと共に知的な空気が漂うはずの学園長室は、今や酔っ払いの住処と化していたのである。
「ぐ〜ぐ〜……」
アルヴェは幸せそうな寝息を立てながら、机の上で大の字になっている。
机の上に積み重ねられた大事な書類の束は、彼の枕として新たな役目を与えられていた。
その傍らには、「今日の英雄様のお供」と書かれた立て札付きの酒瓶がニョキニョキと林立している。
そうして、幸せそうな寝息を立て続ける英雄様だったが──。
「ぐぎゃぁっ!?」
突如、彼の胴体に炸裂した蹴りは、アルヴェの夢の続きを本棚まで吹っ飛ばした。無数の魔導書と共に、酔っ払い英雄が床に転がり落ちる。
「こ、この野郎……誰だぁ俺様の昼寝を邪魔した奴は!ぶっ殺されてぇのかぁ!?」
アルヴェが恨めしそうに目を開くと、そこにはエルフの女性……学園長クルファの姿があった。
いつもはハーブティーを片手に優雅な笑みを浮かべているクルファだが、今や彼女の表情は見事なまでに歪んでいる。
額に浮かぶ青筋と、ビクビクと痙攣する頬が、その怒りの大きさを如実に物語っていた。
「学園長室をすっかり『改装』してくださって、ありがとう」
クルファは実に上品に、しかし確かな殺意を込めて言葉を紡ぐ。
「どうやら、貴方は『学園長室』と『酒場』の区別がつかないようですね」
クルファの刺すような皮肉に、アルヴェは実に悠長に目を擦りながら立ち上がる。
まるで自分の寝床で目覚めたかのような、のんびりとした仕草である。
「ふわぁ~……もう朝かぁ?随分と懐かしい目覚まし方だったなぁ。昔は毎朝、オーガの群れに踏み潰されそうになって目覚めたもんだ。今のはちょっと物足りなかったぜぇ?」
アルヴェの余裕たっぷりな態度に、クルファの額の青筋がさらに膨れ上がる。
だが、この酔っ払い英雄に何を言っても無駄だと悟ったのか、深いため息をつくしかなかった。
「貴方ね。この部屋は貴方の寝床じゃないんだけど。いい加減にしねぇと殺すわよ」
最後に放たれた殺意の籠もった言葉だが、アルヴェの表情は一切変わらない。
そりゃそうだ。「殺すぞ」という言葉は、百年前の戦場で死ぬほど──文字通り「死ぬほど」──聞かされた台詞なのだから。
「はぁ……まさか一日中ここで酒飲んで寝てるだけなんて。やっぱり人選を見誤ったわ」
クルファが頭を抱えるように呟くと、アルヴェは意地の悪い笑みを浮かべる。
「へへ〜、俺だって寝てるだけじゃねぇよぉ?ほら、見ろよ」
彼は床に転がる無数の酒瓶の中から、一際輝きを放つ瓶を取り出した。
その瓶の持つ気品は、周りの安酒の瓶とは明らかに違う。
黄金の装飾が施された深緑のボトル。その首には、「竜血の雫」という刻印が浮かび上がっている。
「……ちょっと待って。それって『竜血の雫』?」
クルファの声が震える。
竜血の雫──それは、ドラゴンの血を原料に数百年もの歳月をかけて醸造される、超高級酒である。
一本で優に数百万ヴァルを超え、高いものでは一億を超えるその酒は、貴族であっても滅多に味わえない……。
そんな逸品が、どうしてこの酔っ払いの手に──?
まさか強盗?いや、そこまで堕ちてはいないはず……。
いや、堕ちてはいないが、元々ゴミクズだから堕ちるもクソもないか。
この男のことだ。酒のためなら何をしでかすか分からない。
クルファが恐る恐る想像を巡らせていると……。
「へへぇ……この都市はホント退屈知らずでよぉ。街歩いてたら、みんな元気そーに『暇』を持て余してやがった」
アルヴェは意地の悪い笑みを浮かべながら、空になった高級酒瓶を弄ぶ。
「『戦友』に『弟子』、おまけに『仇敵』まで……みんな相変わらずだぜ。人間とは違ってよぉ、異種族は寿命が長ぇからなぁ。あの時の連中が今でもピンピンしてやがる。むしろ昔より元気になってやがるクソ野郎もいたぜ?ギャハハハ!」
「……アルヴェ、まさか貴方、彼らと会ったの?」
クルファの声が僅かに震える。
都市アルサス──人も魔族も、善も悪も、全てを飲み込んで成長を続ける混沌の巨獣のような都市。
世界有数の人口を誇るこの坩堝には、数多の長命種が暮らしているのだ。
エルフを始めとする寿命の長い種族たち。人間なら百年も生きられぬというのに、彼らは数百年、時には千年以上も生き続ける。
つまり、大戦時代の生き証人が、今なおこの都市のどこかで──。
「あぁ、みんな元気だったぜぇ。エルゼルなんざ、大戦の時はこ~んなチビッ子だったのによ。今じゃ都市警察のトップだ。ご立派ご立派!」
アルヴェは酔っぱらいながら、実に嬉しそうに高笑いする。
「アリアーシャに至っては、商売が当たったのか知らねぇが大金持ちよ。あんなでけぇ屋敷建てやがって!昔は泥まみれで戦ってた癖によ。今じゃすっかり上品なご婦人様でさぁ〜」
「……そうね。彼らは今、この都市で元気にやってるみたいね」
クルファは懐かしむような目つきで呟く。
今アルヴェが口にした名前は、かつての戦友達。あの血みどろの戦場を、共に駆け抜けた仲間たち。
戦場という地獄の中で、互いの背中を預け合い、そして生き延びた者たち──。
短命な人間たちは、もう皆この世にはいない。だが、長命種である異種族の戦友達は、今なお生き続けている。
(……にしても、なんでこの男、未だにピンピンしてるのかしら。早く死ねよ)
クルファがアルヴェの即死を心の中で祈っていると、彼の口から驚くべき言葉が零れ落ちた。
「だからよぉ……この偉大なる英雄様は思ったわけさ。『弟子』が『師匠』様より偉くなるなんざ、ちょいとばかし生意気じゃねぇかってな」
クルファの背筋が凍る。この男が見せる意地の悪い笑みには、ろくな意味が込められていない。
まさか……。
「だからちょぉ~っとばかし『喝』を入れてやったんだぜぇ♡」
その瞬間、クルファの全身が硬直した。
この男の言う『喝』──それは地獄の特訓の婉曲表現に他ならない。
クルファ自身、百年前にたっぷりと味わった悪夢。今でも夜な夜な金縛りに遭う程のトラウマである。
「ちょ、ちょっと待って。貴方まさか彼らに……」
「おう!奴等ときたら感動で涙腺が緩んでたぜ!特にエルゼルなんざ、まるで死者が生き返ったみたいな目で俺を見つめやがってよ!あぁ〜、嬉し泣きだったんだろうなぁ!ぎゃはははは!!」
アルヴェは床に転がる酒瓶を蹴散らしながら、実に愉快そうに高笑いを上げた。
その表情からは、かつての教え子達との「感動の再会」を心から楽しんでいる様子が伺える。
「へへっ、酒場街でちょいと粗相しちまったことも、『敬愛する師匠様のためでしたら、喜んで揉み消させていただきます!』だってよ。いやぁ~エルゼルのヤツ、相変わらず可愛い弟子だぜ!かっー!!」
アルヴェは上機嫌で高笑いを上げるが、クルファは完全に引いた目で彼を見つめている。
この男の脳内では、明らかに現実との著しい乖離が起きているようだ。
実際の会話が、クルファの頭に自然と浮かんでくる──。
『こ、今回だけは見逃しますから!だから二度とこの都市に近づかないでください!お願いします!』
エルゼルがそう必死に懇願したに違いない。
……というか、酒場を燃やすだの揉み消すだの、妙に不穏な単語が飛び出してきたが、一体この男は何をしでかしたというのか。
「アリアーシャもよぉ、俺を見た瞬間に感動で号泣してよ。『お師匠様!まだ生きてらっしゃったのね!嬉しい!』なんて言いながらこの『竜血の雫』を献上してきたんだぜ?いやぁ~百年経っても俺様への恩義を忘れないとはな!なんて可愛い弟子なんだ!かっー!!」
「……」
きっとこうだったのだろう──。
豪華な屋敷の門前で、真っ赤な顔をしたアルヴェが「お〜い!アリアーシャ!お師匠様が来たぜぇ!」と叫びながら暴れまわる。
警備の者たちが必死に止めようとするも、アルヴェの魔力の前には無力。
そして屋敷の主であるアリアーシャが慌てて出てきて、「な、なんですって!?あの男、まだ生きてたの!?」と絶望的な表情を浮かべる。
最終的に「こ、これを差し上げますから、どうかお引き取りを!お願いします!」と、涙目で『竜血の雫』を差し出したに違いない。
──まぁ、こんな感じだろう。
アリアーシャは商人の中でも特に優秀な才覚の持ち主だ。即座に最悪の事態を回避する判断を下したに違いない。
酒を失うか、屋敷丸ごと燃やされるか。どちらが得かは、商人なら即座に計算できるはずである。
クルファは深いため息と共に頭を抱えた。
この男、学園長室で酒びたりの生活を送っているだけでも十分性質が悪いというのに、都市中を徘徊して昔の知り合いに迷惑をかけていたとは……。
「……はぁ」
彼女は心の底から疲れたような溜め息をつく。
そうだ、この男を都市に呼び寄せること自体が間違いだった。
「まったく……貴方を呼んだ私が馬鹿でした。だけど、しょうがないか……」
クルファは諦めたように呟きながら、手元の冊子をアルヴェに投げつけるように渡した。
「あん?なんだこりゃあ?」
アルヴェは酔っ払った目で、その冊子を不思議そうに見つめる。
「というわけで貴方には2-Aクラスを担当してもらいます。本日から」
「は?おいちょっと待てや!俺は戦争部の顧問として雇われた筈だぞ?なんだこの急な話は!?」
アルヴェは酔った目で抗議の声を上げる。その手元には『2-A クラス名簿』と書かれた冊子が握られていた。
「数日前にも言いましたよね?この学園では教師が部活の顧問を担当する決まりになってるから、貴方には教師として着任してもらうって」
クルファの言葉に、アルヴェは首を傾げる。
そんな話があったか?
いや、あったような?
やっぱりあったわ。
思い返してみれば、確かにクルファはそんな説明をしていた。
ただ、その時アルヴェは酒を煽りながら「へぇ~」とか「ほぉ~」とか適当に相槌を打っていただけで、内容なんて一言も頭に入っていなかったのである。
アルヴェは自分の記憶の欠落を悟りつつ、曖昧な表情を浮かべるのだった。
数時間前の記憶すら怪しい英雄様にとって、数日前の記憶など期待するべくもない。
「そうそう、言い忘れてましたけど、勤務中の飲酒は禁止です。まぁ当然のことなんですけど」
「は?何だと!?酒禁止だと!?そんな横暴な話があるか!?俺は戦争部を育てりゃいいだけだろうが!?」
「だから違うって言ってるでしょう?とにかく、そういうことですので、よろしくお願いしますね」
クルファは実に優雅な笑顔で言い放つ。
アルヴェは「ぐぎぎ……」と歯軋りしながらクルファを睨みつけるが、諦めるしかなかった。
何せ借金の肩代わりと、二千万ヴァルという大金が懸かっているのだ。ここは我慢するしか──。
「あ、それと今渡したクラス名簿に載ってる生徒全員の名前、覚えておいてくださいね。50人分……」
「はぁ!?ガキの名前を50人分も覚えろだと?この偉大なる英雄様に!?」
アルヴェは震える手で名簿を開く。
そこには生徒一人一人の写真と名前が整然と並んでいた。
人間は勿論、エルフやドワーフ、オークやドラゴニュートまで──種族の垣根を超えた、実に多様なクラスである。
アルヴェは名簿を見た瞬間、全身から「面倒くせぇ」というオーラを放出し始めた。
ガキのお守りなど、この高貴なる英雄様の仕事ではない。そんな暇があったら酒を飲んでいた方がよっぽどマシである。
「つーかよぉ、戦争部の顧問なら、テメーがやりゃよかったんじゃねぇのか?あんなガキ共なんざ、お前なら3秒で皆殺しにできるだろうが」
アルヴェは机に足を投げ出しながら、溜め息を吐く。
「あのですね。どこの世界に生徒を皆殺しにする教師がいるんですか」
クルファは実に上品に言い返す。
「いえ、できますけれど……私はね、『公務員』なんですよ?一応。ここは市営の学園なんですし……まぁ、もちろんしませんけれど。そんなことをしたら今まで積み上げてきた私への信頼が崩れ去りますからね。……まぁたまにぶっ殺したくなりますけど……あ、いえなんでも」
最後に不穏な言葉を吐きかけた彼女は慌てて口を閉ざし、優雅に髪をかき上げながら、儚げな表情を浮かべる。
「信頼ねぇ……」
アルヴェは不敵な笑みを浮かべながら、酒瓶を弄ぶ。
「くだらねぇ看板だな。お前の今の姿は、ただの上っ面じゃねぇか」
空になった酒瓶が、コロコロと転がりクルファの足元で止まった。
「所詮、俺たちゃ同じ穴の狢さ。イカれた殺人鬼がいくら取り繕ったところで、薄皮一枚剥がせばすぐにボロが出る」
その言葉は、毒を吐くように放たれた。
クルファの優雅な表情が一瞬で崩れ落ちた。額に浮かぶ青筋と共に、彼女の瞳から光が消え失せる。
「……私はお前とは違う」
彼女は低い声で言い返す。その声には、かすかな震えが混じっていた。
「もう、力で支配するのは辞めたんだ。今の私には地位も、名誉もある。……だけど」
クルファは窓の外に広がる学園を見つめながら、続ける。
「ウォーゲームの指導には、力を見せつけなければならない。だからこそ、テメェみたいなクソ野郎に頼むしかないんだ。何のしがらみもない、あぶれ者の力が……」
百年前の口調が、無意識のうちに彼女の口をついて出ていた。
この声色こそが、アルヴェと共に戦場を駆け抜けた殺戮者の素顔。いくら取り繕っても、それは彼女の本質なのだ。
だが今の彼女には、その力を振るう自由さえない。立場という枷が、本性を露わにすることを許さないのだ。
「くっくく……なるほどな。だから俺を呼んだってわけか」
昨日語った生徒達への想いは確かに本物だろう。しかし同時に、闘争本能に支配された狂戦士としての一面もまた、彼女そのものなのだ。
その相反する二つの精神に引き裂かれ、身動きの取れない状況。アルヴェにはそれが実に哀れに映った。
「確かに俺なら、クソガキ共に忖度なんてしねぇからな?いくら暴力を振るおうが知ったこっちゃない。何か問題起きても俺一人の責任で済む……つまりテメーは無傷ってわけか。へぇ、おみそれしたぜ。俺だけ悪者にさせようって魂胆の性悪女によぉ」
「……」
クルファは言葉を返そうとしたが、できなかった。
アルヴェの言葉は、彼女の本質を見事に言い当てていたからだ。
彼女は苦虫を噛み潰したような表情で俯くしかなかった。
「まぁ、いいさ。俺は金さえ手に入ればあとはどうでもいい。テメーもせいぜい俺を利用しろや。持ちつ持たれつ……いや、素晴らしい関係じゃねぇか。これぞ理想の親子関係ってやつだな?くくっ……」
アルヴェはクラス名簿を手に、意地の悪い笑みを浮かべながら部屋を後にした。
残された学園長室に、彼女の震える声が響く。
「利用する……か。そうだな……私は最低な奴だ。本当に……」
その呟きは、誰にも届くことなく静寂に溶けていった。
かつての殺戮者は、ただ一人、自嘲の笑みを浮かべるのだった。