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第6話


──それは、アルヴェが校庭で「お礼」をする少し前のことだった。




アルサス学園。それは、この都市随一……いや、世界でも類を見ない巨大な学園だ。

煉瓦で作られた巨大な校舎群が敷地内に広がり、その高さは雲に届かんばかり。

無数の尖塔が空を突き刺すように林立し、その影は大地に長く伸びている。


生徒数は一万人を「優に超える」らしいが、その数え方は極めて寛容なものだ。

教室で居眠りする生徒も、校門前でサボる不良も、果ては保健室に入り浸る者、というか学費を払ってない者も、とにかく学籍さえあれば生徒としてカウントされる。

税金で運営される公立学園であるが、この都市の税収は潤っているのか細かい事は気にしないという素晴らしい風潮である……。


その潤沢な血税で作られた広大な敷地内には魔法実験場、武技訓練場、そして競技場が点在し、生徒達の姿は遠くから見れば蟻のようだ。


そして、この巨大学園の中心──。


他の建物を圧倒する存在感で聳え立つ巨塔。これぞ学園長が居住する塔である。


「ふぅ……」


学園長室。

床から天井まで届く本棚には古ぼけた魔導書が所狭しと並び、机の上にも積み上げられた書類の山。

そんな部屋の窓際に置かれた机の前で、一人の女性が寛いでいた。


「平和ですねぇ」


長い金髪を風に揺らし、深い碧の瞳。

腰まで届くその長い髪は、透明な碧の瞳と美しく調和していた。


「このハーブティーのなんて美味しいこと……」


彼女の碧眼には、愛しい学園の風景が映し出されていた。

教室では生徒達が真剣な面持ちで講義に耳を傾け、図書館では魔導書を片手に研究に没頭する者の姿が見える。

実験棟からは新たな魔法の開発に励む生徒達の歓声が漏れ、訓練場では剣術の稽古に汗を流す若者たちの姿が──。


「……ん?」


……と、そこまで見渡した瞳が、微かに曇る。

運動場の片隅では、巨漢のオーガが威圧的に他の生徒から金を巻き上げ、中庭ではドラゴニュートの集団が居座って賭け事に興じている。裏門近くでは、ゴブリンの不良グループが新入生を取り囲み、脅迫まがいの「商売」を始めていた。


そして校庭では──。


『ぶち殺すぞボケがぁー!』

『あぁ!?やんのかワレェ!?』


百人規模の抗争が繰り広げられていた。風に乗って彼らの実に楽し気な声が聞こえて来た。

人間もエルフも魔族も入り乱れての大規模な「課外活動」である……。


「……」


クルファは微笑みながらハーブティーを啜る。

──おかしいね、今は授業時間のはずなのにね。まぁいいか。


「ふぅ……今日も『平和』ですねぇ」


クルファは校庭の混沌を眺めながら、実に優雅に溜め息をつく。

そう、これが平和なのだ。生徒達が元気に殺し合っているのは、平和の証。

むしろ、静かな方が不気味なくらいである。実に元気があってよろしい。


彼女は自分に言い聞かせるように、ゆっくりとハーブティーを口に運んだ。

金色に輝く長い髪が、窓から入り込む風に靡く。その一つ一つの仕草には、上級貴族のような気品が漂っていた。

小柄な体格に幼い容姿。身長160センチに満たない彼女は、一見すれば人間の少女のようにも見える。

だが、尖った耳が彼女の種族を物語っていた。

エルフ──それも150歳という、人間から見れば想像もつかない年月を生きてきた存在。


そして、その瞳には確かな知性を感じさせる光が宿っている。

そう、これは紛れもない知性の輝き……決して狂気などではない。


ほんの少しだけ、一般的な常識から外れているだけなのだ。それもほんの些細な程度に。

例えばガチの殺し合いを「課外活動」と呼ぶ程度の話である。


「まぁ、私はエルフですからね。この光景を平和だと思うのも、私がエルフだからこそ……」


クルファは実に上品に、自分のことを完璧に棚に上げた。

エルフという種族性を盾に、自身の「個性的な」性格を正当化するのは彼女の十八番である。

一方で、他人の非常識には実に厳しい。「教育者」として当然の姿勢、と彼女は言う。


「ふぅ~♡」


優雅にハーブティーを啜りながら、校庭の混沌を見下ろす。

ハーブティーは彼女の生命線だ。一日に何杯飲むのかも分からないほど。

おそらく血液の半分くらいはハーブティーで出来ているのではないか、という噂すらある。


今も机の上では、優美な白磁のティーカップの中でハーブティーが静かに波打っていた。

クルファは目を細め、高価な宝石でも愛でるかのように、じっくりとその香りを味わった。


そして──。


「んぐ……んぐ……」


ティーカップを優雅に持ち上げ、一気に飲み干す。

その仕草は上品そのものなのだが、飲み方は意外とガツガツしていた。というか実に下品である。

喉を通り抜けていくハーブの爽やかな風味と、鼻腔をくすぐる芳醇な香り。その瞬間、彼女の表情が、まるで十代の少女のように恍惚としたものに変わった。


「ぷっはぁ〜!やっぱり仕事中のハーブティは格別ですよね~!」


優雅な立ち居振る舞いが一瞬で崩れ、すっかり緩んだ表情で空のカップを置く。


──その瞬間であった。


「!?」


轟音と共に窓ガラスが大きく砕け散り、無数の破片が舞い散る中を一つの影が転がり込んできた。


「いってぇ〜!くそぉ、あのクソ妖精がぁ……俺ごと吹っ飛ばしやがってよぉ!ぶっ殺してやる!」


羽根のような腕を持つ青年が床を転がりながら毒づく。ハーピーと呼ばれる空の支配者だ。翼で自在に空を舞い、強力な風魔法を操る種族である。

そんな彼の豪快な転がり方は、机の上に置かれた白磁のティーカップを直撃。

クルファお気に入りの逸品は、見事にハーピーの尻で粉々に粉砕された。哀れなハーブティーが机の上にゆっくりと広がり、重要な書類を次々と染めていく。


「……」


クルファの表情から、先程までの笑みが消え失せた。

部屋の気温が、一瞬にして氷点下まで低下したかのような冷気が漂う。


お気に入りのティーカップ……愛しのティーカップ……。

それは単なる食器ではない。毎日の至福の時を彩ってくれた大切な相棒。

今や粉々となったその姿を見つめながら、クルファは全身をわなわなと震わせていた。


そんな彼女の様子に気付いたハーピーの青年は、のんきな声を上げる。


「あ?なんだよ、震えてんぞババア。更年期か?つーか誰だよお前」


青年はそう吐き捨てると翼をバサバサと羽ばたかせ、窓から飛び立っていった。

まるで自由の象徴のように、大空へと旅立っていく。

そして部屋には、粉々になったティーカップの破片と、机の上に広がる染みだけが残された。


あとには、青年の翼から抜け落ちた大量の羽毛が、ゆっくりと舞い降りていく。

……いや、これは単なる羽毛ではない。これは、立派な「証拠品」である。


「ガキが……舐めやがって……」


クルファの額に青筋が浮かび上がる。 その小さな体から漏れ出す憤怒の魔力は、部屋の空気を震わせ、床に刻まれた魔法陣を不気味に輝かせていく。

机の上に散らばった書類が、神を恐れるかのように震え始めた。


「……!」


ハッとして我に返る。

これはいけない。あと一歩で「昔の自分」が顔を出すところだった。

今の自分は違う。慈愛に満ちた、優雅な学園長なのだ。

「生徒をぶっ殺したくなるような衝動」は、しっかりと抑え込まなければ。


「そう、今日も平和……だからよォ……じゃなくて、ですからねぇ」


クルファは深いため息をつきながら、自分に言い聞かせる。

平和とは、生徒を殺さないことである。ただそれだけ。

殺さなければ、それはもう立派な「平和」なのだ。


「すぅ〜はぁ〜……すぅ〜はぁ〜」


クルファは目を閉じ、深呼吸を繰り返す。

そう、呼吸を整えれば心も落ち着くはず。殺意も……いや、怒りも収まるはず。


「そうです!子供の悪戯ですもの、大目に見てあげないと!私は慈悲深いエルフなのですから!」


実に優雅な笑顔。端から見れば天使のような笑みだった。


……額に浮かぶ青筋と、ハービーの羽毛を握りつぶす手の力を無視すれば、の話だが。


「そう、私はあの男とは違う……あんなイカれた男とは違うんですから」


彼女は優雅に髪をかき上げ、穏やかな微笑みを浮かべる。





──その時だった。


「!?」


蒼白い稲妻が、神の制裁のように校庭を貫いた。

一条、また一条と、次々に降り注ぐ雷撃。その光と轟音の奔流は、クルファの目と耳を容赦なく打ちのめしていく。


「え……はい?」


雷鳴が収まる前に、今度は炎が吹き上がった。

学園のあちこちから立ち昇る火柱は地獄の業火のように全てを巻き込んでいく。

生徒達の悲鳴をかき消すように、炎の渦は天を目指して伸び上がっていった。


「な、なに……?」


そして最後に訪れたのは、凍てつく寒気。

瞬く間に校舎は氷の牢獄と化し、空気すら凍りつく。生徒の叫び声も、風の音も、全てが氷の中に閉じ込められていく。

クルファは凍り付いた窓から、黙って校庭を見下ろした。 そこには、紛れもない地獄絵図が広がっていた。


「……」


静かに、しかし確実に怒りを滲ませながら、クルファは口を開いた。















「ぜんっぜん平和じゃねぇ!!」


彼女の叫びが、氷漬けとなった学園に響き渡った。


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