アルヴェは千鳥足で街を歩いていた。先ほどまでの「社会の底辺交流会」は、参加者が次々とアルコール過多で意識を失い、自然消滅。
唯一まだ歩ける状態だったアルヴェは、一人アルサス都市を徘徊している。
「チッ……あのゴミクズ共が……」
アルヴェは壁に手をつきながら、呂律の回らない舌で毒づく。
「社会に馴染めない底辺の分際で、酒に弱いとかよぉ……何のために生きてやがんだぁ~?」
完全に出来上がった英雄様は、つい先ほどまで「親友」と呼び合っていた連中を平然と貶している。
そして、目的地を持たない蝶のように、大通りから路地へと、フラフラと歩を進めていく……。
時折、通行人とぶつかりそうになっては、「このぉ~、英雄様に道を譲らねぇのかぁ?」と意味不明な文句を垂れ流していた。
「しかし……このアルサスって場所は中々面白い場所だなぁ〜?」
アルヴェは街灯に肩をぶつけながら、上機嫌で呟く。
この都市は不思議な場所だった。大通りでは人間と魔族が礼儀正しく行き交い、店舗も整然と並び、一見すれば理想的な共生社会のように見える。
しかし、一本裏道に入れば──。
借金取りから逃げ回るゴブリンの集団。
違法な賭博場から這い出てくるオークたち。
路上で立ち飲みするエルフの集団が、通りかかった人間に絡んでいる。
露店の八百屋で万引きを試みる悪魔の女が、店主のドワーフに追い回されている。
治安が極端に悪いわけではない。むしろ、どこか人情味すら感じる。
ただ、表と裏がこうもはっきりと分かれている都市も珍しい。
「まるで俺みてぇだな……」
アルヴェは意味不明な独り言を呟きながら、さらに奥の路地へと足を進めていった。
「つーか俺、何でここにいるんだっけ?」
アルヴェは路地の真ん中で立ち止まり、首を傾げる。
酔っ払いの極みここに極まれり。自分がなぜこんな都市をフラフラ歩いているのか、全く思い出せない。
「う〜ん……?」
街灯に寄りかかって唸るアルヴェ。
そして突然思い出したように目を輝かせた。
「あぁ!そうだ!この英雄様は依頼を受けに来たんだった!ぎゃははは!」
路地に響く高笑い。
「愛しい娘のクルシュが会いたがってるんだよなぁ。かわいそうに、さぞ寂しかったことだろうなぁ~」
彼は先日、サキュバスの女性・ナジャから依頼を受けてこの街に来たのだ。
なんでも学園長が……いや、義理の娘が……いや、どっちだ?あぁ同じか。
アルヴェの頭の中で、現実と妄想が楽しげにダンスを踊っている。
「そうそう、クルシュが愛しいお父様に会いたいっつーから会いに来たんだぁ……いや、依頼か?まぁいいや、どっちでも酒が飲めりゃ……」
記憶と妄想が混ざり合い、アルヴェは自分に都合の良い「真実」を作り上げていく。
いや、そもそも彼は本当にそう信じているのかもしれないし、単に酔っぱらって何が何だか分からなくなっているだけかもしれない。
「そうそう、学園に行く前に腹ごしらえでもしようと思ってたんだよなぁ」
アルヴェは壁に手をついて、千鳥足で歩きながら独り言を続ける。
「それが途中であのゴミクズ共に絡まれちまって……底辺どもが酒を持ってきてこの英雄様に無理やり飲ませやがったんだ……ち、人気がありすぎるのも困っちまうな、まぁ俺様は英雄だししょうがないけどよぉ~」
実際は自分から地べたに座って酒を要求していた事実には、都合よく触れない。
先ほどまで「アルサス最高!」と叫んでいた時の熱気は何処へやら。今や全てが他人のせいになっている。
「さぁ〜て、酒場でも探すかぁ。今度は一人でゆっくりと飲みてぇなぁ」
よろめきながら路地裏を歩くアルヴェ。これだけ飲んでもまだ足りないらしい。
そんな時だった。
路地の奥から荒々しい声が聞こえてきたのは。
「──いいから金出せっつってんだよ。この雑魚共がよ……」
「あぁ!?何だテメー!?殺されてーのかガキが!!」
「上等だよクソ野郎!!ぶっ殺してやる!!」
女の声だ。
アルヴェが声のする方向を見やると、路地裏で小さな騒動が起きていた。
そこには一人の少女が立っていた。炎のように鮮やかな赤いロングヘアが風に靡き、その髪は夕陽に照らされて宝石のように輝いている
制服のブレザーを着崩し、スカートの裾も乱れている。少女の紅い瞳は、目の前の三人の男たちを睨みつけていた。
一瞬、女性が襲われているのかと思ったが、状況は逆だった。
男たちの方が女に襲われているようだ……。
「なんだありゃあ?」
アルヴェは壁に寄りかかりながら目を細める。
「喧嘩か?だがあの小娘の気配……ただもんじゃねぇな。面白ぇ、ちょいと見物するとするか」
アルヴェが酔った目で眺めていると、戦いは一瞬で始まった。
少女が一歩を踏み出す。その動きは、疾風のように鋭い。最初の男が拳を振り上げる前に、彼女の蹴りが顎を直撃。男は人形のように宙を舞う。
「がはっ……!?」
二人目の男が背後から襲いかかるが、少女は優雅な舞のように身をひねり、その腕を掴んで投げ飛ばした。重力を無視したような動きで、男は壁に叩きつけられる。
「ぐ、ぐあぁ!?な、なんだこいつ……!?つえぇ……!?」
その動きは無駄がなく、かつ美しい。少女の赤い髪が、炎のように彼女の動きを追いかけていく。
残されたのは、リーダー格の男一人。
革のコートを着た大柄な男は、仲間が次々と倒される様を見て、額に冷や汗を浮かべている。
「くそっ!こいつただのガキじゃねぇ!」
「ようやく分かったのか?遅かったな、さっさと死んどけ」
少女は冷たく言い放つ。赤い髪が風に揺れ、その瞳には一片の感情も宿っていない。
彼女は優雅な踊りのように身を翻し、しなやかな動きで拳を振りかぶった。
「な、舐めるんじゃねぇ!」
男は咄嗟に懐からキラリと光る筒状の物体を取り出した。
それは青い魔力の光を纏った、拳ほどの大きさの銀の筒。
男がそれを投げ、地面に着弾すると同時に、轟音が路地裏に響き渡った。
「──!?」
眩い光と共に、赤と橙の炎が少女を飲み込んだ。
爆風が路地裏を駆け抜け、壁に積まれた木箱が吹き飛ぶ。
「へっ!油断しやがったな!これは魔導弾!」
男は勝ち誇ったように高笑いを上げる。
「魔力を込めた爆弾だぁ!テメェがいくら強くてもこれならどうしようもねぇだろ!」
灼熱の炎は少女の姿を完全に覆い隠し、路地裏は一瞬にして焦げ臭い煙に包まれた。
石畳には黒い焦げ跡が広がり、周囲の壁も黒く焦げている。
しかし──。
「え?」
男の間抜けな声が路地裏に響く。
目の前で少女は、散歩でもするかのように、燃え盛る炎を纏ったまま優雅に歩いていた。
「お、おい待てよ、嘘だろ……!?」
「このアタイが、こんなチンケな炎で怯むと思ってたわけ?バーカ」」
少女は高笑いを上げる。
彼女の身体は炎に包まれ、その赤い髪は炎と一体となって、より一層妖しく輝いていた。
「な、なんで無傷で……!?」
男が絶叫する中、アルヴェは酔った目を少し細めて、感心したように「ほぉ」と呟いた。
「よく見りゃあのガキ……サラマンダーか。は、そりゃ火なんざ効かないだろうよ」
サラマンダー──
火の精霊とも呼ばれる魔族。
通常の生物なら一瞬で灰となる高熱の炎をものともせず、それどころか力の源として使いこなす種族。
「テメーのせいで制服が燃えちまっただろうが……!」
少女の声が怒りに震える。その姿を見て、男の顔から血の気が引いていく。
素人の人間が、魔族の中でも好戦的と言われるサラマンダー族を相手に勝てるはずもない。
見た目こそ普通の少女に見えるが、その身体は業火で、そしてその気性は烈火そのもので構成されているのだ。人の手など触れられはしない。
男は震える足で逃げようとするも、もはや手遅れだった。
「ひ、ひぃっ!」
男が逃げ出そうとした瞬間、少女の姿が炎と共に舞う。
優美な動きで男の前に回り込み、炎を纏った拳が顔面を直撃。続けて蹴りが腹を貫く。
「うぎゃっ!」
男は壁に叩きつけられ、地面に崩れ落ちた。他の二人も、意識を失って路地に転がっている。
「雑魚が……」
少女は舞い散る炎を払いのけるように手を振ると、無造作に男たちのポケットを漁りはじめた。
財布を取り出すと中身を確認し、舌打ちをする。
「これっぽっちしか持ってねーのか。シケてやんの」
炎に焦げた制服のスカートを払いながら、少女は財布を自分のポケットに放り込んだ。
アルヴェは酔った目で状況を観察する。
「おいおい、なんだそりゃ……」
強盗に襲われたと思いきや、少女の方が強盗だったとは。
というかまさか……アレが学生だというのか?
今や炎で制服が焼け落ち、下着姿となった少女。
もしも彼女が本当に学生なら、この都市の治安はとんでもないことになる。
学生が野盗の真似事とは……。大戦中でさえ、もう少しはマシな秩序があったはずなのに。
「あ?なに見てんだクソ野郎。さっさと失せろ殺すぞ」
少女はアルヴェの視線に気付いたようだ。
少女の挑発的な言動……普段のアルヴェならば、すぐさま激情して逆に『制裁』を行うところだが、今のアルヴェにはそんな考えは浮かばなかった。
何故なら……。
(このガキ……なかなかいい体してるじゃねぇか!学生でこれとは……将来が楽しみだぜウヒョヒョ……。しかしよぉ、あの魔導弾が俺様の作ったものだったら、下着まで焼き尽くせたのに……って違う違う、そんなこと考えてる場合じゃねぇ)
下心満載の視線を向けるアルヴェだったが、ハッと我に戻る。これ以上見続けて絡まれても面倒だ。
なにしろ自分は「高潔なる英雄様」なのだから、こんな強盗チンピラ共とは格が違う。
(ふん……金の為に人を襲うとは。今時の若いのは物の考え方がなってないな。なんと嘆かわしい世の中か)
アルヴェは偽善者のように世を憂いつつ、次なる酒場を求めて歩を進めようとした。
その時──。
「あれ?そういえば俺……金持ってねぇじゃん」
突如として英雄様の脳裏に閃いた悲しい現実。
二千万という大金に目が眩んで、古びた魔導外套を引っ張り出し、見栄えだけはつけて急いで飛空魔法で飛んできたのだ。金なんて持ってくる暇がなかった。
というか、あの廃墟と化した家には、着ていく服はあっても金などあろうはずもない。
「これはマズイ……」
酒も飲めないとあっては、この英雄様の気分が乗らない。
確かにさっきは底辺たちと一緒にしこたま飲んだが、あんな程度では全然足りやしない。
「う〜ん」
アルヴェが途方に暮れていると、目の前で下着姿の少女が意気揚々と強奪した金を数えている。
その姿を見た瞬間、アルヴェの酔った脳裏に、ある「素晴らしい」アイデアが閃いた。
「……」
よくよく考えれば、あの金は汚い金だ。
そんな汚れた金を、未来ある若者が持っているなんて、許されるのだろうか……?
──否!
それは教育的によくない。なにしろアルヴェは正義の英雄なのだ。
こういう場合は自分が預かるべきである。
そう、強盗から金を奪うのは正義の行為。これぞ「善意の強盗」というものだろう。
強盗から金を奪うのは立派な行為!更に若者の非行を防ぐという教育的効果まで付随している!
実に「英雄的」な理論が彼の頭の中で、瞬く間に構築されていく……。そう、アルヴェは突如として正義の味方に転身を遂げたのだ。
彼は即座に行動を開始した。
「──なぁサラマンダーの姉ちゃんよ」
「あん……?なんだクソ野郎、テメェまだいやがっ……た……の……か」
少女の声が徐々に小さくなっていく。
その理由は明白だった。アルヴェが天高く掲げた手の上には、二階建ての家ほどもある巨大な氷塊が浮かんでいたのだ。
炎を操る種族にとって、最も恐ろしい氷の塊。それが今、アルヴェの手一つで宙に浮いていた。
「悪ぃが金貸してくんねぇか?100年後くらいには返してやるからよ……」
アルヴェの言葉に、少女は信じられないものを見るような目で巨大な氷塊を見上げている。
その手からは、先ほどまで得意げに数えていた紙幣が、枯れ葉のようにパラパラと落ちていく。
かくして、英雄様による「正義の金策」は、路地裏の下着姿の少女と、家ほどの大きさの氷塊と共に──幕を開けたのであった。
♢ ♢ ♢
カランカランと、安物の真鍮の鈴が軋むような音を立てた。
開店前のまだ薄暗い店内に、その音が虚しく響く。
「まだ開店前だぜ」
店主は、せっかちな常連かと思い、面倒くさそうに扉に目を向けた。
「うぃ~」
そこには一人の青年が立っていた。炎のような赤髪に、血のような赤い瞳。
高価な魔導外套を着ているが、どこか胡散臭い。しかも、その立ち方が既に千鳥足気味だ。
青年は勝手に一番奥の席に陣取ると、自分の家でも来たかのように声を張り上げた。
「おうオヤジ。酒くれや」
普通なら、こんな生意気な若造は即刻店から放り出すところだ。
せめて「おいガキ、ミルクでも飲んで帰れや」と、からかって追い返すのが定石。
「......」
しかし、この店主は30年の商売で培った危険察知能力には自信があった。
理屈ではない。動物が地震を感じ取るように、本能で危険を察知する。
それが店主の密かな誇りだった。
──そして今、その危険センサーが悲鳴を上げている。
目の前の「若造」からは、異質な気配が漂っていた。
まるで、人を装った猛獣がそこに座っているかのように。
「……ほらよ」
店主は最高級の酒瓶を差し出す。
「おぉ、上等な酒だなァ!?こりゃあ!?」
青年は嬉しそうな表情を浮かべながら、目の前の酒を一気に流し込んだ。
その飲み方は、とても若者のそれではない。完全にアル中のおっさんそのもの……。
「うい〜、生き返ったぜ〜!もう一杯だ、オヤジィ!」
「……」
店主は無言で青年の外套に目を向ける。
黒い生地に金糸で刻まれた魔術紋章……あれは並の物ではない。何人もの魔術師を見てきた店主には分かった。
あの外套は、高位貴族が莫大な金を投じて作らせる代物か……それとも軍の上級将校クラスにしか与えられない魔術兵器としての外套か……。
いずれにしろ、ただ者ではない代物だ。
そんな高価な外套を着た「若造」が、一人でこんな時間に、酒場になど来るはずがない。
きっと何かの組織に属しているのだろう……。そう考えると、余計に厄介な予感がした。
「ふひひぃ〜……ぁあ、うめぇ〜」
グラスを置きながら青年は上機嫌で呟く。
「5軒目でやっとまともな酒場に当たったぜ、くそがよぉ〜」
「5軒目……?」
思わず口をついて出た言葉に、店主は内心で舌打ちする。
こういう危険な客とは、余計な会話を避けるのが鉄則なのに。
「おうともさ……」
青年はグラスを揺らしながら不機嫌そうに続ける。
「酒出せっつってもよぉ〜、叩き出そうとしたりミルク出したりするイカレた酒場しかなくてよ。いやぁ、助かったぜちゃんとした酒場があってよ……ひっく」
「……そいつは災難だったな」
「おぉ?分かってくれるかぁ?」
青年は酔っぱらいながらニヤリと笑う。
「テメーいいオッサンだなぁ!ギャハハハ!つまりよぉ、この英雄様は世のため人のために行動しなきゃなんねーと思ったわけさ。客に酒を出さない店なんて、この世界の癌細胞みてぇなもんだろ?」
グラスを片手にヘラヘラ笑う青年の顔は、既に酒で真っ赤になっている。
「──だから消し炭にしといたよ」
瞬間、店内の空気が凍り付いた。
店主の額から、冷や汗が一筋、ゆっくりと流れ落ちる。
「クソみてぇな店は消毒だぁ……うへへへへ!あんなゴミみてぇな店が存在するから世の中よくならねぇんだよなぁ!?」
青年はグラスを掲げながら店主を見上げる。
紅蓮の瞳と、店主の視線が交差した。
「おめーもそう思うだろ!?」
「そうだな……」
狂っている。
単なる酔っぱらいの戯言として片付けるには、この男の纏う魔導外套の存在が重すぎた。
「だよなぁ!?そうよなぁ!?」
青年は酒瓶を振り回しながら高笑いする。
「世の中良くするにはよぉ、悪い奴らを焼き払えばいいんだよ!カッー!」
「そうだな……その通りだ」
店主は心の中で必死に祈る。
──頼むから、ただの酔っぱらいの与太話であってくれ。
だがその願いは、勢いよく開かれた店の扉と共に打ち砕かれた。
「ヴェルゴさん!大変だ!」
顔馴染みの男が息も絶え絶えに叫ぶ。
「飲み屋街で火柱が上がってる!既に酒場が4軒も燃えて……!ここも危ないかもしれない、早く──」
店主は静かに、しかし確固たる意志を込めて答えた。
「酒がある間は大丈夫だ」