「ここが、あのアルヴェ・ローレンスの家……?」
スーツに身を包んだサキュバスのナジャ・キャステールは、何度も瞬きを繰り返した。
彼女の背中の小さな翼は、ドン引きしている彼女の心情を表しているかのように、びくびくと震えている。
「こ、これは……廃墟じゃないの?」
雑草だらけの庭は、もはや密林と化していた。玄関(おそらく)の板はキィキィと断末魔の叫びを上げ、その上では蜘蛛たちが悠々とマンション暮らしを満喫している。
壁には、正体不明の染みがモダンアート気取り。これを「廃墟」と呼ぶなら、廃墟に失礼だ。
「や、やっぱり間違いなんじゃないか?ナジャ君……」
サキュバスの女性……ナジャの横にいた初老の男性は眼鏡を外して念入りに拭きながら、現実逃避を試みた。
「でも住所はここなんです、教頭先生」
ナジャは書類と目の前の家屋を交互に見比べる。
確かに場所は間違いないのだ。
だが……。
「こんな所に人が住んでいるとは思えないんだけど」
教頭の意見は、今日一番まともな発言だった。
ナジャも心の中で「そうですね」と猛烈に同意する。
「確かにこんな所にかつての"英雄"の一人が住んでる訳ないですよね……やっぱり嘘だったのかなぁ」
最後の「英雄」という単語に、思わず皮肉っぽい抑揚が混じってしまった。この廃墟に、あの伝説の魔法使いが住んでいるなんて冗談にもほどがある。
──英雄。
またの名を大戦を終わらせた「すごい人たち」という、実に雑な表現で片付けられそうな連中だ。
人々は彼らを「英雄」と呼んだ。まあ、「怪物」とか「化け物」とか呼ぶよりはマシだったからだろう。
「そもそもまだ生きてるのかい?その英雄は」
教頭の疑問は的確だった。
その大戦は100年前の話である。人間の寿命なんて、せいぜい80年が関の山だ。どんなに凄い魔法使いでも、寿命には勝てない。
まぁ、エルフに代表される長命種ならば100年くらいは「まだまだ若造」で通せるけど、問題の英雄は残念ながら人間様。
普通なら、とっくにお墓の中で大往生しているはずの年齢である。
「エルフならともかく、普通の人間じゃ100年も生きるなんてほぼ有り得ないよ」
「むむむ……」
ナジャは理路整然とした教頭の意見に反論できず、唸る。正論すぎて反論のしようがない。 でも、今更引き返すのも癪だ。彼女は「やけくそ」という顔で扉に手をかけた。
「あ、ちょっ!勝手に入る気かね!」
教頭が慌ててナジャの腕を掴む。
不法侵入という人生の汚点を阻止しようとする、教育者の鑑である。
「何ですか!?ここまで来て今更帰れませんよ!」
サキュバスの意地と教育者の良識がぶつかり合う、微妙な攻防が始まった。
「いや、こんな家畜小屋みたいな建物でも一応は私有地みたいだし……」
「大丈夫です!私こう見えても結構強いんですよ」
問題はそこじゃない。教頭は目の前で暴走しそうなサキュバスに冷や汗を垂らす。
まさか今日、不法侵入の共犯者になるとは思わなかった。
「!?」
そのとき、ガタッと扉が開く。二人は息を呑む。ついに伝説の英雄と対面……!
「にゃあ」
と思いきや、出てきたのは一匹の子猫。
猫は「なんだお前ら」という顔で二人を一瞬見上げると、すぐに「つまんね」と言わんばかりにトテトテと立ち去っていった。
「あぁびっくりした……流石にこの家に住人がいるとは考えにくいよね?」
「よく考えたら、こんな家畜小屋に人が住めるわけないですね」
ナジャの言葉が空気に溶ける前に──
「家畜小屋で悪かったな!!」
轟音が二人を襲う。教頭とナジャは見事なジャンプを披露した。
恐る恐る振り向くと、そこには人間の形をした炎……とでも形容すべき男が立っていた。
180センチはある長身から、まるで燃え上がる炎のような赤髪、そして紅蓮の瞳。
服はまるで「ファッションじゃなくて本当に貧乏なんです」と主張するかのように、あちこちがほつれている。
どう見ても「普通の住人」ではない。この廃墟にピッタリの住人という感じである。
「えっ……?」
一見すると麗しい顔をした、端正な青年……なのだが、致命的な特徴が一つあった。
──そう、この青年、昼間から完全に出来上がっているのである。
片手には「これぞ酒瓶!」という大きさの瓶を握り締め、顔は夕陽よりも赤く、その立ち方は「今にも倒れそう」という見事な千鳥足である。
「金ならねぇぞ。帰れ。うぃ〜ヒック」
酔っぱらいの言葉はいつの時代も万国共通であるしかも二人を金貸しと勘違いしている様子。
頭頂部が薄い初老の男性と、スーツを着たサキュバスを怖い取り立て屋に見えるというのも、相当なアルコール度数だろう。
「お、おいナジャくん。この青年、酔っぱらってるぞ」
「まぁ手に酒瓶持ってるし……」
完全に出来上がっている。しかも自分達を借金取りと勘違いしているようだ。
なぜこんな廃墟で人が住んでいるのか。まだ青春真っ盛りというのに、なぜ昼間からこんなに酔っ払っているのか。
謎は山積みだが、今は別の気になる点がある。
ナジャは作り笑顔という名の苦悶の表情を浮かべながら言った。
「えっと……すみません。私はナジャ・キャステールと言います。今日はここにいるアルヴェ氏を訪ねて来たのですが……」
彼女は明らかに子供扱いするような声色で続けた。
「ボク、アルヴェさんが何処にいるか知ってる?」
その瞬間、酔っ払いの青年の表情が見事に豹変した。
「は?『ボク』だぁ?もしかしてこの俺様を子供扱いしてんのか?テメェ目ぇ悪いのか?どう見たって俺様の方が年上に決まってんだろうがよ!」
酒瓶を振り回しながら吐き出す言葉は、完全に酔っ払いの戯言そのものだった。
どうやら彼はまともな会話ができないほどアルコールで脳が麻痺しているようだ。
明らかに自分より年下の青年だというのに、お酒の力で「大人の余裕」を見せつけている……。
(で、でもここまで来て帰れない!)
そうだ。
この残念な酔っ払いも、アルヴェ・ローレンスの関係者という可能性は捨てきれないのだ。
「……いえ、申し訳ありません」
ナジャは普段の仕事で鍛え上げた笑顔を振り絞って言った。
「それで、アルヴェ様のことはご存知でしょうか……?」
「知るかボケ。さっさと帰ってママのおっぱいでも飲んでろ」
青年は酒瓶を傾けながら、ニヤリと下品な笑みを浮かべた。
「あ、そうかよく見りゃテメーサキュバスじゃねぇか。なーんだ、自分のその胸にぶらさがってる立派なもんから飲めばいいじゃん!便利だなぁ!ギャハハハ!!」
下品な冗談に、教頭は思わず顔を背けた。。
天使のような顔立ちからこぼれ出る言葉は、深夜の居酒屋でよく見かける困ったおっさんそのもの。
ナジャは心の中で「こんなハズじゃなかった」と嘆息し、教頭は「今日の出張、休暇届で済ませておけば良かった」と後悔の念に駆られていた。
「あの……ちょっといいかな?」
教頭が意を決して声をかける。
「あぁ!?なんだジジイ!?」
「ヒッ!?」
突如豹変した青年の剣幕に、教育者としての威厳も何もかも吹っ飛び、教頭は見事に腰を抜かした。
長年の教師生活で不良生徒は見慣れているはずなのに、この青年は「次元が違う」らしい。
「ちょっ、落ち着いてください!」
ナジャが教頭を守るように前に立つ。
しかし少年は「よし、的が増えた!」とでも言いたげな目つきで二人を睨みつけた。
「何が落ち着いてくださいだよ!借金取りの分際で偉そうに説教かましてんじゃねーぞ!この前、半殺しにしたのにまだ足りなかったみたいだな?今度は全殺しにしてやろうか?お?」
少年の周りで魔力が渦を巻き始めた。その規模は「これ、本当に酔っ払ってるの?」と疑いたくなるほどの代物だ。
ナジャは背筋が凍りつきながらも、必死に叫ぶ。
「だから私達は借金取りじゃないってばー!」
その一言で、まるでスイッチを切ったように少年の動きが止まった。
魔力の渦も、酒の勢いも、一瞬でしぼんでしまう。
「借金取りじゃない……?」
少年は急に素面になったかのように目を見開いた。
「じゃあなんだよ。また決闘でも申し込みにきた馬鹿か?それとも復讐か?どっちにしろ面倒くさいから断るけどな」
まるで日常茶飯事のように血なまぐさい言葉を並べ立てる少年に、ナジャは思わず「この、もしかしてヤバい奴等の隠れ家?」と突っ込みたくなる。
──だが先程の魔力の規模は本物だった。
これは間違いない。ナジャの探偵モードが発動する。
きっとこの少年は伝説の英雄の弟子か、孫か……。
そう、アルヴェ・ローレンスだって超一流の魔術師なんだから──。
「違います。私達アルヴェ氏に用があって。なんでも学園長から彼に依頼があるということで……」
ナジャが恐る恐る状況を説明すると──。
「学園長?依頼?ふむ……ふ〜ん……依頼ねぇ……依頼……」
その瞬間、少年の顔が別人のように変貌する。殺意満々の野良猫から餌を見つけた家猫に豹変したかのように、ニヤリと薄気味の悪い笑みを浮かべた。
「なぁんだ。そうならそうと早く言えよ。ぶっ殺しちまうとこだったじゃねぇか。がははは!!」
少年は豪快に笑い飛ばす。
どうやら彼は人の話を最後まで聞くという概念が欠落しているらしい。
そして本当に殺されかけたという事実に今更ながら気づいたナジャは、背筋が凍る思いだった。
とはいえ、「殺意満々」から「上機嫌」になっただけでもラッキーというものだ。
ナジャは勇気を振り絞って質問する。
「じゃ、じゃあ貴方はアルヴェ・ローレンスさんがどこにいるか知ってるのね?」
「知ってるも何も、俺がそのアルヴェ・ローレンス様だ」
「……へ?」
ナジャと教頭の間の抜けた声が、辺りに響き渡った。