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「菜月!聴いて! 曲の続き」
平日の仕事終わり、菜月が帰宅するなり、今日できたばかりのフレーズを弾いて聴かせる。菜月はごはんを食べながら、聴いてくれる。
「いいじゃん。あとは歌詞つけるだけか」
「そうそう。今それを悩んでるんだけどね」
私の場合、音楽のほうは先にできるんだけど、肝心の歌詞のほうはなかなか浮かばないのだ。ここはぜひとも、菜月の作詞案を待ちたいところだった。
だけど、菜月の方も、まだまだ歌詞が完成しないようすで、私たちはとりあえず仮の歌詞を適当に当てて、音楽のほうを推敲していった。
「曲ができたら、どこかで弾き語りライブとかしたいな」
「気が早い早い。……でも、楽しそうだね」
適当なテンションで思いつくままの発言をする私を、これまた適当にいさめつつも、なんだかんだ付き合ってくれる。菜月のそんなところが、安心できるところなのだ。
菜月と一緒に曲作りをするのは本当に楽しくて、時間を忘れるほどだった。できることならこの時間がいつまでも続けばいいと思う。
音楽活動なんて、もともとただの口実なのだ。菜月と一緒にいられるなら、楽しく過ごせるならそれでいい。
だけど、本当にそのままでいいんだろうか。やっぱり時折、不安になる。
もしも菜月が好きな人と結ばれたら、誰かと恋人関係になるときが来たら、おそらく私とのこの暮らしは邪魔になる。
そのときのために、私も備えておかなきゃいけないのかな。そんなことを思う。そして私はまた何度目かの、恋に挑戦しようとしてしまうのだ。
私が曲のラフをひととおり完成させた頃、私たちは都心にあるミュージックバーに繰り出した。実は、前々から密かに調べていたのだ。もちろん最初は聴くだけのつもりだったんだけど、やっぱりなんだかんだ楽譜は持ってきていて。
それに、他の人達が楽しそうに演奏をしているところを見せつけられたら、もう黙って聴いているだけなんて、できそうもなかった。
演奏と演奏の合間に、ちゃっかり滑り込ませてもらって、私と菜月はステージに立った。なんだか、すごく懐かしい。人前でちゃんと演奏するなんて、学生の時以来だったから、すごく緊張した。だけど同時にすごく気持ちがよくて。これは確かに、やみつきになっちゃうな、なんて思ったりもした。
その日の帰り道は、同じようにアマチュアでバンドをやっているらしい、男の人と仲良くなって、一緒に帰った。その人は私をライブやら、自分のバンドの練習やらに誘ってきた。
そのときから、なんとなくわかっていた。今までの経験から、口説かれているんだということはすぐにわかった。私の方は正直、大して興味はなかったのだけど、好感をもたれることそれ自体は悪い気はしなかった。
それに、今回こそは、ちゃんと相手を好きになって、ちゃんと付き合える彼氏ができるかもしれない。今度こそ、菜月のことを吹っ切れるかもしれない。そう、淡い期待を抱いていた。
思惑通り、私たちは何回かの駆け引きののちに、付き合うことになった。お決まりの流れ。定番のルーチン。恋の始まりなんて、そんなもの。でもいつか、この人のことは、今度こそは、きっと好きになれるかもしれない。そう願いながら、私は、彼とのデートを繰り返した。
だけど、物語は、やっぱり、そううまくはいくはずもなくて。
私と彼が付き合うことになって、一ヶ月が経つ頃、彼は、私を旅行に誘ってきた。旅行といっても、ふつうの土日を使って、近県へ一泊二日というもの。正直、何をしたいかなんて、訊かなくても察するのが大人というものだ。
私もいい加減、二十八歳の大人の女なわけで。本当は早く、処女というものをどうにかするべきなのかもしれない。それが世間の普通だということはわかっているのだけど、でも、やっぱり、どうしても嫌だった。
えっち、だけじゃなくて。キスも、菜月以外とはしたことがない。それどころか、彼氏と手をつなぐことすら、ずっと嫌だった。両手に収まりきらないほどの数の男の人たちと付き合ってきたというのに、誰とも、一度も。そうしたいと思える人には、誰一人として出会えなかった。
あの日の夜が最後なのだ。
大学一年生のあの日、菜月とキスをしたあの日から、私の時間はずっと止まってしまっていた。あの日、菜月に触れたいと思ってしまった瞬間から、私の心は、まるで凍ってしまったかのように、他の人には興味を示さなくなってしまった。
それがどうしてかなんて、考えなくても、ほんとうはわかっているのに。