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第21話

 菜月の住んでいるマンションは、繁華街の最寄り駅から私鉄の電車で一本の、駅前すぐの場所にあった。学生のときはよく菜月のところに押しかけて遊んだものだけど、社会人になってから菜月の自宅に行くのは初めてだった。だからか、ついついテンションが上がってしまう。


「おじゃましまーす!」


 誰もいない部屋に向かって元気に挨拶したら、菜月に笑われてしまったけれど、いいんだ。


「とりあえず、先にお風呂入る? 私、料理つくっておくから」

「ほんと!? 菜月の料理久しぶり!」


 嬉しくて、思わず大きな声を出してしまった。菜月の料理を楽しみに、お風呂に入ることにする。


 菜月の家のバスルームは、トイレとは分かれているタイプだけど、一人暮らし向きだなっていう感じの作りだ。うちのお風呂も似たようなものだけど。私よりもたくさんお給料をもらっているはずの菜月も、こういうところで贅沢はしないんだなと思うと、なんだか嬉しくなってにやけてしまう。


 お風呂から出ると、菜月の作る料理の香りがただよってきた。つられてお腹がぐう、と鳴く。思い切り歌ってきたから、空腹だった。


「わー! いい匂い! 美味しそう!!」

「つまみ食いしちゃだめだよ」

「しないよ! 失礼な」


 そんなやりとりをして笑う。それにしても菜月は、私をいつまでも子供扱いする。確かに年のわりに子供っぽいのは否定しないけど、もう二十八なんだけどな、と思う。


 菜月が入れ替わりにお風呂に入っているあいだ暇だったので、音楽を聴いていた。私の携帯には、昔からよく聴いていたクラシック音楽の音源が入っている。バッハの曲を適当に選んでプレイリストに入れて、再生を押した。


 ……あの頃が、懐かしいな。


 バッハを聴いていると、ちょっとだけ昔を思い出す。学生のときは菜月とだけじゃなくて、いろいろな人達と演奏したものだった。そのなかにはヴァイオリンがすごく上手かった元彼もいた。


 思えばあの頃の私は浮かれていた。そして馬鹿だった。ヴァイオリンが上手いだけのろくでもない男にひっかかって、菜月にのろけ話ばかりしていたっけ。それから、と思い出す。


 思い出しながら、ひと筋、涙がこぼれた。菜月にキスしてしまったあの夜のこと。忘れたことは一度だってない。苦しくて、どうしようもなくて。あの頃の痛みをごまかすように、彼氏を作り続けてきたけれど、一度だってうまくいかなかった。


 今は恋人を作る気がないかもしれないけど、菜月だっていずれは誰かを好きになって付き合ったり、結婚したりするんだろう。そんなことを考えるとますます気ばかりが早って、私は誰かと付き合わずにはいられなくなる。だけど結局、相手のことなんて本当に好きにはなれなくて、すぐ別れてしまう。それの繰り返しだった。


 自分でも馬鹿みたいだと思う。私はあの日の菜月とのキスが忘れられないのだ。

 私が歴代の彼氏達とうまくいかなかった理由も、おそらくはそのあたりにある。自分でも、わかっていた。それが何を意味するのか。


 考えなくてもわかっているのに。だけど認めたくなくて、素直になんてなれなくて。なによりも今の関係を壊すことが怖くて。私はだめんずウォーカーの駄目な女のふりばかりしているのだ。


 そんなことばかり、音楽を聴きながら考えていたら、気づいたら菜月が私の後ろに立っていた。驚かそうとしてるんだとわかったから、手の届く距離に近付いたとたんに、菜月の腕をぎゅっとつかまえてみた。


 ……離したくない。つい、そう思ってしまって、菜月にイヤホンを片方、手渡した。


 息づかいが聞こえるほどの距離で、菜月と同じ音楽に耳を傾ける。曲はチェンバロのソロパートに入っていた。思わず聴き入れば、心のもやもやも少しは晴れてくる。


「チェンバロ、好きなんだよね。やっぱり」 

「うん」


 なんとなく出た言葉に、菜月も同調してくれる。それがまた、すごく嬉しくて。同時に恥ずかしかった。菜月が、そろそろ食事にしよう、と言ってくれたので、ごまかすように無理矢理テンションを上げた。


「ワイン、ワイン!」

「はいはい」


 子供みたいな私のテンションに、菜月はいつもどおりの保護者みたいな対応で返してくる。料理をお皿によそって、グラスにワインを注いでくれた。


「やっぱり、菜月の料理は美味しい! 世界一! お嫁さんにしたい!」

「なに、彼氏じゃなかったの」


 呆れたように菜月は言う。いいんだ、これで。私と菜月はただの女友達なのだ。だったら友達らしくするだけだ。

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