翌日、私は予定通り、工藤先輩と公園デートをした。夜寝るのが遅かったのに、菜月は何事もなかったかのように、一緒に早起きして、お弁当作りを手伝ってくれた。
先輩とのデートは楽しかった。お互いが好きな音楽の話をするのも、先輩の語るクラシックの蘊蓄を聞くのも、私の心をときめかせた。
だけど、私の唇には、まだ昨日の菜月の唇の感触が残っていて。そのせいなのか、胸の奥が甘くくすぐられる感じがする。菜月にもう一度触れたいと思う心と、先輩への申し訳なさとが相まって、工藤先輩の隣にいることに対して、なんだか居心地の悪さを覚えてしまっていた。
公園を歩いていろいろな話をして、ウインドウショッピングをしたり、カフェで珈琲を飲んだりしているうちに、日が落ちて辺りが暗くなったので、それなりにおしゃれなイタリアンで夕食をとり、予想通り、先輩の家へとなだれこんだ。
先輩の目は、部屋に着いたときから、違っていた。経験値のほとんどない私でも、先輩が何を求めているのかくらい、わかった。それは多分、私が昨日、菜月としたようなことなのだ。そして、その先のことも。
私は先輩と付き合っているわけだから、きっとそういうことをするのは、大学生としては自然なことなんだろうけど。だけどその夜、私はどうしてだか、それを受け入れることができなかった。
「ごめんね。美優の心の準備ができるまで、待つからさ」
先輩はそう言って、許してくれた。だけどこのとき、彼が一瞬だけ、冷たい目をしたのを、私は無意識に気づいてしまっていた。
その後も何度となく、先輩とデートをしたけど、大好きなはずの工藤先輩とは、どうしてだか、手をつなぐことにすら、違和感があった。だから結局、何度お泊まりに誘われても、キスをすることすら、できなかった。
自分でも、それがおかしいとは、わかっていた。私は、さっさと工藤先輩から離れるべきだったのだと思う。だけど踏ん切りがつかなかった。それはサークル内の人間関係を気にしていたというのもあるけれど、きっと一番の理由は、違った。
私は、自分が菜月に呑まれてしまうことが怖かったのだ。あの日、自分の身体がコントロールできなくなったときから、ずっとそのことが心のどこかにひっかかっていた。
彼女にあんなことをしてしまったのは、ただ純粋に欲求のはけ口を求めていたからだと、私はそう思い込もうとした。
菜月と私はあくまでただの友達でしかなかった。それ以上のことなんか、望んでいなかった。
結局、学祭の日の、演奏会本番を終えてから、私は工藤先輩と別れた。正確に言うと、振られた。その日も無理をして先輩の家に泊まりに行って、身体を求められたのにやっぱりできなくて。怒った先輩がついに私に手をあげて、私は家を追い出された。
次の日の早くに、私は菜月の家に押しかけて泣きついた。すごく苦しくて辛くて、だから、また菜月に甘えてしまいたかった。
触れてみたかった。もしも菜月が許してくれるのなら、唇に、その先の場所にだって。都合のいいことを求めているってわかっていたけど、私は菜月が相手なら、もしかしたら大丈夫じゃないかって。そのとき、そう思ってしまったんだ。
だけど、菜月は優しい声で言った。
「そういうのは……ちゃんと次の好きな人ができるまで、とっておきな」
菜月が私を受け入れてくれることは、二度となかった。苦しくて苦しくて、涙が止まらなくなった。何も知らない菜月は、そんな私の髪を撫でて抱きしめてくれた。
「大丈夫、きっとすぐ、いい人が見つかるよ」なんて言って。
結局それから、十年近くが経つ今日まで、あの日のようなことをすることは一度もなかった。私たちは普通の親友としてこの十年を過ごしてきたのだった。