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第17話

 一応、かたちばかりの料理の練習をして、夕食としていただいた後は、順番にシャワーを浴びて部屋着に着替えた。


「ねえ、音楽聴こうよ」


 そう言って私は、菜月のパソコンの電源を勝手につけて、ブラウザを開く。動画投稿サイトのURLをたたく。適当な作曲家名で検索して、無料でクラシック音楽を聴くのだ。


 以前は、無料で音楽を聴こうと思ったら、わざわざ図書館でCDを借りていたけれど、このあいだ菜月に教わってからは、こうやって探すようになった。コツは日本語じゃなくて、なるべく原語、それか英語で曲名を入れること。つくづく、いい時代になったなあと思う。


「早く寝なくて大丈夫? 明日朝、早いんでしょ」

「大丈夫、大丈夫」


 お母さんみたいな菜月の心配をよそに、私は次々と候補の曲を検索する。菜月の呆れ顔が見えた気がしたけど、まあいいや。


 音楽を聴きながら、私たちは自然と、好きな作曲家の話を始めた。サークルのアンサンブルでは、今はヘンデルの曲を練習しているけど、私は本当はJ.S.バッハが好きだ。バッハの曲は鍵盤で弾くのも歌うのも難しいけれど、彼の音楽を聴いているだけで、私はどこまでもどこまでも遠い世界へ行ける気がした。


 毎日いやなニュースばかりの、この世の中だけど、音楽を聴いているその瞬間だけは、ほんの束の間だけど、『永遠』なんて言葉さえ信じられるような気がした。そして十九歳の愚かな私は、その感覚を、ただの一人の人間の男である工藤先輩に、投影してしまっていたのだ。


 目を瞑って、遥か遠い宇宙の彼方にまで思いを馳せていたら、眠いんだと思われたのか、いつのまにか布団が敷かれて、照明が常夜灯ひとつに減らされていた。


 部屋の暗さを認識し出したら、ついあくびなんて出てしまうもので、観念して、私は布団に入ることにした。


「ごめんね、布団ひとつしかないから、狭くて」


 菜月はそう言うけど、押しかけた私が悪いので、気にしていない。そもそも、1Kの部屋に、来客用布団なんて置くスペース、ないだろうし。


 一緒の布団に入ると、菜月の身体からいい匂いがした。ベビーパウダーみたいな、優しい匂い。思わず、ぎゅっと抱きしめたくなる。私、いったいどうしてしまったんだろう。


 別に、女の子に対して、そういう意味で興味があるとかではない。そもそも私は工藤先輩と付き合っている身でもあるし。だけど、菜月はどうなんだろう。前からずっと疑問に思っていたことを探ってみたいという気持ちもあった。


「菜月……起きてる?」

「……うん」


 声をかけてみたら、眠そうな声で、一応返事をしてくれた。


「実は、明日さ、お泊まりになると思うんだよね、多分」

「……もう? 早くない?」


 菜月は驚いた様子だった。確かに、私も本当はそう思う。でも、愚かな私は、先輩との交際に舞い上がっていて。きっと明日の公園デートのあとは、多分大学生らしく、お酒を飲んだり相手の家に泊まり込んだりするだろう。


 他の女の子たちの話を聞いていて、そうするのが普通のような気にさせられていた。要は流されやすいのだ、私は。


「菜月ってさ。経験者だよね?」

「……なに、言ってんの。私、そういう話しないからね」

「えー、いいじゃん別に。減るもんじゃなし」


 ふと、菜月のそういう話を聞いてみたくなって、話を振ってみるけど、菜月はやっぱり口を割ろうとしない。


「美優こそ。別に初めてってわけじゃ、ないんでしょ」


 そう言って、むしろ、こっちにバトンを渡してくる始末だ。


「まあ、そうだけどさ」


 仕方なく、私は答える。なんとなく今更、処女だとは言いづらかった。

 私は別にモテないほうじゃないけど、自分から好きになった男の人というのはいなくて。高校は女子校だったけど、なんとなく彼氏はいて、何度かそういう雰囲気になったことはあったけど、なんとなく勇気が持てなくて拒否しているうちに、いつのまにか別れていた。


 別にそんなの珍しくもなんともないのだろうけど、なんだか菜月にそう言うのは恥ずかしくて、ごまかしてしまった。 


「……ねぇ、菜月。こっち向いて」


 菜月の背中に顔を近づける。やっぱりいい匂いがして、なぜだかわからないけど、胸がドキドキして、苦しくなった。


 こういうとき、私はどうすればいいのか、まったくわからなかった。菜月に触れているだけで、涙が出そうなほど苦しいのに、それをうまく表現する言葉が見つからないのだ。


 気づけば私は、衝動的に菜月の唇を奪っていた。こんなこと、歴代彼氏にもしたことがない。正真正銘、初めてのキスだった。

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