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私と菜月が出会ったのは、大学一年生の春だった。
「ねえ、君、一緒に歌わない?」
大学の、クラシック音楽のアンサンブルサークルに入っていた私は、そう言って、最初のミーティングの日に、菜月にいきなり声をかけた。
「え、でも私、歌、未経験なんだけど」
そう言い淀む菜月を、無理矢理口説き落として、私は彼女に歌をうたわせた。彼女の話し声を聞いただけで、なぜか、そうしなければいけないと思ったのだ。
菜月は歌は未経験だったけど、もともとフルートをやっていたから、音感も旋律を奏でるセンスもあった。声楽経験者の私が、ちょいちょい指導をしながらサークル活動をしているうちに、彼女はめきめきと上達していった。
私は歌のほかに、鍵盤楽器もやっていて、そのサークルでは主に、チェンバロという楽器を弾いていた。
チェンバロは、英語だとハープシコード、とも呼ばれる鍵盤楽器で、ルネサンスやバロック音楽の時代によく使われていた楽器だ。ピアノのような見た目の箱の中に、弦が張ってある。鍵盤を押すと、その弦を内部で、ちいさな爪が弾いて音が鳴る。とても繊細な楽器なのだ。
チェンバロが置いてある大学なんて、そうそうないと思うけど、そんなレアな大学のレアなサークルに私たちはいた。「アンサンブルサークル」と言ったけど、私たちが演奏するのは、そのチェンバロが活躍するような、バロック音楽がほとんどだった。
「チェンバロ弾くときの感触てさ……なんかエロいよね」
「わかるそれ」
ある日、菜月の言ったその一言で、私は彼女と親友になれることを確信した。練習帰り、みんなが帰ったあとのちょっとした時間、菜月がチェンバロを触りたいと言うので、軽く弾き方をレクチャーしたりしていたのだ。
ピアノの鍵盤とは違った、キイの奥で弦が弾かれる感触があるのだけど、多分そのことを言っているのだと思う。その道の偉い人たちには怒られてしまうかもだけど、私たちはそんな馬鹿なことばかり話していた。単純に、繊細な感覚を共有できることに喜びを見出していたのだと思う。
そんな私たちと同じサークルの四年に、ヴァイオリンを弾いている工藤先輩という人がいた。彼の奏でるバロックヴァイオリンの音色は、なんだか他の人の音よりも艶があって、生き生きとしていて、美しかった。
私は密かに彼に憧れていた。音楽経験はそれなりにあるほうだけど、あんな美しいヴァイオリンの音を聴いたのは生まれて初めてだったから。
それは本当に純粋な憧れでしか、なかったのだと思う。だけど、今思えば、私はここで判断を誤ってしまったとしかいいようがない。
熱っぽい私の視線に、彼が気づくのは時間の問題で。まだ何も知らない一年生の私は、先輩である彼から、手厚い指導を受けるようになっていた。そして、それは明らかに、他の後輩たちに対するものとは違ってきていた。
実際、付き合うの時間の問題だった。その頃の私は、そういう駆け引きめいた時間がなんとなく楽しくて、工藤先輩の素敵な音を聴いていられるのが嬉しくて、そのことをよく菜月に話していたように思う。
菜月は、そんな私の話を、いつも笑って聞いていてくれた。だけど菜月のほうの恋バナは、私はちっとも聞いたことがなくて。何度か問い詰めたんだけど、なかなか口を割ろうとしないのだった。
だけど、冗談ぽくそんな話をしながらも、私はなんとなく気づいていた。菜月は多分、男じゃなくて、女の子のほうが好きなんだと思う。別にはっきりと確かめたわけじゃないけど、そう思った。
高校の時にも、好きな人はいたらしいけど、その人のことをちっとも教えてくれないのも、多分そういう理由からだったのだろう。
だから、私はそのことにはずっと触れずにいた。菜月が自分から言ってくれるまで待とうと思っていたのだ。あの夜までは。
その日、私は、工藤先輩との公園デートを翌日に控えていた。付き合ってからは二度目のデートだった。せっかくの公園デートだからって調子に乗って、手作り弁当を持っていくなんて約束してしまった私は、料理が得意な菜月に泣きついたのだ。
菜月は、仕方ないな、というような顔をしながらも、料理の特訓に付き合ってくれた。1Kのアパートの狭いキッチンで。デートの一週間前から毎日、私は菜月のアパートに入り浸って料理を作り、そして一緒に夕食を食べた。
菜月とはただでさえ同じ学年で同じサークルなのに、夕食時まで一緒にいるなんて、さすがにべったりしすぎだとは思ったけれど、その一週間はなんだかとても楽しかった。正直もう、デートの前日には、当日どんなお弁当を持って行くかなんて、どうでもよくなっていた。
だから、私はデートの前夜にまで、菜月の家に押しかけた。そして無理矢理泊まり込むことにしたのだ。
「ねえ、今夜、菜月の家に泊まってもいい?」
「いいけど、明日デートでしょ。大丈夫なの?」
「なんか、ひとりだと興奮して寝れなくなりそうだから。誰かにいてほしいんだ」
「はぁ。しょうがないなあ」
菜月はいつものように、しぶしぶ、といったポーズをとる。そんな態度をとっていても、実は嫌がっていないことは明らかで、だからこちらも安心してわがままが言えるのだ。