「ここ、防音じゃないからね、小さい音でよろしく」
「はーい」
元気よく返事をして、弾き始めた。白くて細長い指が鍵盤の上を動いていく。
「あれ、この曲」
「……さっきの続き」
それは、さっき聞いた前奏の続きだった。私がお風呂に入っている間に、思いついたらしい。チェンバロふうの電子音で、可愛らしい音を鳴らす。
「いいね、これ」
「でしょ? 菜月の歌詞に合うといいんだけど……」
そう言って、次は伴奏にのせて、歌詞のないメロディラインを小さな声で歌う。抑えているようだけれど、こっちとしては、その艶々した魅力が隣の部屋に聞こえないか、気になって仕方ないのだけど。
「すごい素敵だけど、出来上がってるメロディに歌詞を乗っけるの、すごく難しそうだね」
「だよねぇ……ごめん、私が先走りすぎちゃって。そしたら、この曲はこの曲で、私が歌詞もつけて仕上げてみるから、菜月は菜月で歌詞書いてみて? そしたらそれに別の曲つけるから」
「わかった、やってみる」
そこまでやってくれるなら、と私も歌詞を少しずつ書いてみる。フレーズの断片をつくって、二人であーでもない、こーでもない、と夢中でやっていたら、隣から、壁を叩く音が聞こえた。
しまった、やりすぎた。
学生でもないのに、隣の人に申し訳ないことになってしまったのだった。
「そろそろ、寝ようか。これ以上うるさくできないし」
「うん、そうする。ごめんね。隣の人も、ごめんなさいー」
美優はそう言って、誰もいない壁に向かって手を合わせる。その動作は可愛いけれど、なんか怖いよ。
歯を磨いて、いざ寝室に向かうところで気がついた。
「あ、そっか。うち、来客用布団、ないんだ」
「ごめん美優、私のベッドに寝てもらってもいい? 私、ソファーで寝るから」
「え、だめだよそんな……身体バキバキになっちゃうよ? 私がソファーで寝るよ!」
「一応、美優がお客さんだしなあ」
「そんなに気を使わなくてもいいのに……あ、じゃあさ、二人で一緒に寝ようよ!」
「え、何言ってんの。シングルベッドなんだから、せまいよ?」
「いいじゃんべつに。学生の時みたいで、なんか楽しいし! ねぇ……だめ?」
子犬のような上目遣いで言われて、簡単に陥落した。下心でいっぱいの私は、つい学生時代のあの夜のことを思い出してしまう。
もう、あんなことなんてないと、わかっているけれど。
心を落ち着けて、息を整えて、ベッドに横たわる。私が壁側で、美優がその隣。私は壁と美優に挟まれて、身動きが取れなくなる。
美優も私も、今は二十八歳の立派な成人女性なわけで。十八歳の頃とは若干、その、体格が異なっている。
壁側を向いていても、隣の美優の気配は、なんとなく十年前よりも近く感じる。美優の吐息が、髪にかかるような気がして、美優の柔らかい胸が、背中にあたるような錯覚にとらわれる。
こんなの本当に、寝られるわけがないのに。
だけど美優は、お構いなしに、私の耳元で話しかけてくる。
「ねぇ、菜月……まだ、起きてる?」
まるであの時と同じだった。
「……早く寝なさい」
後ろは振り向かずに、返答する。美優の声を聴いているだけなのに、耳がくすぐったいし、身体が熱くなる。
「ごめん……あのときのこと、覚えてる?」
あのとき、が何を指すのか、すぐにわかった。だけど、これが答えてはいけない質問だということも、瞬時にわかってしまっていた。
「私、記憶力ないからさ。……昔のことは、忘れちゃったよ」
多分、こう返すのが正解だと思った。美優にも伝わっただろうか。私が今更それを、蒸し返すつもりはないということが。
「……そっか。ごめん、なんでもない。寝よっか」
「うん、おやすみ」
美優は小さな声でそう言って、それきり、静かになった。多分、これでよかったんだと思う。美優は、ヘテロだから。あのときみたいに、一時の寂しさだけで、妙なイベントを起こさせるわけにはいかない。
キスなんて、もうしたらいけない。
胸の奥に小さな痛みを抱えながら、私は目を閉じた。
朝起きると、隣にはもう誰もいなかった。
「美優……?」
少しだけ寂しさを覚えながら呼ぶと、キッチンの奥から、美優がひょっこり顔を出した。
「あ、菜月。おはよう! 今起こそうと思ってたんだ」
「おはよう。……なにしてるの?」
「朝ごはん! 作ってみたの!」
確かに、なにやら食べものの匂いがしていた。昨日使った食器はきれいに片付けられていて、フライパンの上では、カリカリに焦げたベーコンにピンク色になった黄身が乗っていた。
「美味しそう! ありがとう」
冷蔵庫を勝手にあさられたことよりも、美優が料理を作ってくれた嬉しさのほうが勝ってしまった。
「菜月に料理つくるの、学生の時以来だよね」
「あーたしかに。なんか彼氏に弁当作るとかなんとかで、練習しにきたんだっけ」
投げやりに話すけど、その頃のことを忘れたことは、今まで一度もないのだ。
「あーもう、その話はだめ。恥ずかしいから……それより、この目玉焼き、どう?」
「どうって? ……うん、美味しいよ」
それはもう、ベタな表現だけど、ほっぺたが落ちそうなくらい。
「よかった。ほら、目玉焼きの作り方って、好みが分かれるでしょ? 確か菜月は、蓋を閉めて蒸し焼きで、半熟のが好きだったなあ、と思って」
「よく覚えてるね、そんなこと」
そう、私が好きな、ピンク色の目玉焼きの作り方は、十年前に美優にも教えていたのだ。
「前の彼氏にもさ、作ったことあるんだけど。『蒸し焼きなんて邪道だ! 弱火でじっくり片面焼きすべき!』とか言われて、喧嘩になったんだよね」
「なにそれ……そんな喧嘩あるの」
でも美優だったら、ありそうだな、なんてことを思った。私の目玉焼きの作り方が、別れの原因になっていたら面白いな、なんて、つい失礼なことを考えてしまう。