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第11話

「ここ、防音じゃないからね、小さい音でよろしく」

「はーい」


 元気よく返事をして、弾き始めた。白くて細長い指が鍵盤の上を動いていく。


「あれ、この曲」

「……さっきの続き」


 それは、さっき聞いた前奏の続きだった。私がお風呂に入っている間に、思いついたらしい。チェンバロふうの電子音で、可愛らしい音を鳴らす。


「いいね、これ」

「でしょ? 菜月の歌詞に合うといいんだけど……」


 そう言って、次は伴奏にのせて、歌詞のないメロディラインを小さな声で歌う。抑えているようだけれど、こっちとしては、その艶々した魅力が隣の部屋に聞こえないか、気になって仕方ないのだけど。


「すごい素敵だけど、出来上がってるメロディに歌詞を乗っけるの、すごく難しそうだね」

「だよねぇ……ごめん、私が先走りすぎちゃって。そしたら、この曲はこの曲で、私が歌詞もつけて仕上げてみるから、菜月は菜月で歌詞書いてみて? そしたらそれに別の曲つけるから」

「わかった、やってみる」


 そこまでやってくれるなら、と私も歌詞を少しずつ書いてみる。フレーズの断片をつくって、二人であーでもない、こーでもない、と夢中でやっていたら、隣から、壁を叩く音が聞こえた。


 しまった、やりすぎた。


 学生でもないのに、隣の人に申し訳ないことになってしまったのだった。



「そろそろ、寝ようか。これ以上うるさくできないし」

「うん、そうする。ごめんね。隣の人も、ごめんなさいー」


 美優はそう言って、誰もいない壁に向かって手を合わせる。その動作は可愛いけれど、なんか怖いよ。


 歯を磨いて、いざ寝室に向かうところで気がついた。


「あ、そっか。うち、来客用布団、ないんだ」

「ごめん美優、私のベッドに寝てもらってもいい? 私、ソファーで寝るから」

「え、だめだよそんな……身体バキバキになっちゃうよ? 私がソファーで寝るよ!」

「一応、美優がお客さんだしなあ」

「そんなに気を使わなくてもいいのに……あ、じゃあさ、二人で一緒に寝ようよ!」

「え、何言ってんの。シングルベッドなんだから、せまいよ?」

「いいじゃんべつに。学生の時みたいで、なんか楽しいし! ねぇ……だめ?」


 子犬のような上目遣いで言われて、簡単に陥落した。下心でいっぱいの私は、つい学生時代のあの夜のことを思い出してしまう。


 もう、あんなことなんてないと、わかっているけれど。


 心を落ち着けて、息を整えて、ベッドに横たわる。私が壁側で、美優がその隣。私は壁と美優に挟まれて、身動きが取れなくなる。


 美優も私も、今は二十八歳の立派な成人女性なわけで。十八歳の頃とは若干、その、体格が異なっている。


 壁側を向いていても、隣の美優の気配は、なんとなく十年前よりも近く感じる。美優の吐息が、髪にかかるような気がして、美優の柔らかい胸が、背中にあたるような錯覚にとらわれる。


 こんなの本当に、寝られるわけがないのに。


 だけど美優は、お構いなしに、私の耳元で話しかけてくる。


「ねぇ、菜月……まだ、起きてる?」


 まるであの時と同じだった。


「……早く寝なさい」


 後ろは振り向かずに、返答する。美優の声を聴いているだけなのに、耳がくすぐったいし、身体が熱くなる。


「ごめん……あのときのこと、覚えてる?」


 あのとき、が何を指すのか、すぐにわかった。だけど、これが答えてはいけない質問だということも、瞬時にわかってしまっていた。


「私、記憶力ないからさ。……昔のことは、忘れちゃったよ」


 多分、こう返すのが正解だと思った。美優にも伝わっただろうか。私が今更それを、蒸し返すつもりはないということが。


「……そっか。ごめん、なんでもない。寝よっか」

「うん、おやすみ」


 美優は小さな声でそう言って、それきり、静かになった。多分、これでよかったんだと思う。美優は、ヘテロだから。あのときみたいに、一時の寂しさだけで、妙なイベントを起こさせるわけにはいかない。


 キスなんて、もうしたらいけない。


 胸の奥に小さな痛みを抱えながら、私は目を閉じた。




 朝起きると、隣にはもう誰もいなかった。


「美優……?」


 少しだけ寂しさを覚えながら呼ぶと、キッチンの奥から、美優がひょっこり顔を出した。


「あ、菜月。おはよう! 今起こそうと思ってたんだ」

「おはよう。……なにしてるの?」

「朝ごはん! 作ってみたの!」


 確かに、なにやら食べものの匂いがしていた。昨日使った食器はきれいに片付けられていて、フライパンの上では、カリカリに焦げたベーコンにピンク色になった黄身が乗っていた。


「美味しそう! ありがとう」


 冷蔵庫を勝手にあさられたことよりも、美優が料理を作ってくれた嬉しさのほうが勝ってしまった。


「菜月に料理つくるの、学生の時以来だよね」

「あーたしかに。なんか彼氏に弁当作るとかなんとかで、練習しにきたんだっけ」


 投げやりに話すけど、その頃のことを忘れたことは、今まで一度もないのだ。


「あーもう、その話はだめ。恥ずかしいから……それより、この目玉焼き、どう?」

「どうって? ……うん、美味しいよ」


 それはもう、ベタな表現だけど、ほっぺたが落ちそうなくらい。


「よかった。ほら、目玉焼きの作り方って、好みが分かれるでしょ? 確か菜月は、蓋を閉めて蒸し焼きで、半熟のが好きだったなあ、と思って」

「よく覚えてるね、そんなこと」


 そう、私が好きな、ピンク色の目玉焼きの作り方は、十年前に美優にも教えていたのだ。


「前の彼氏にもさ、作ったことあるんだけど。『蒸し焼きなんて邪道だ! 弱火でじっくり片面焼きすべき!』とか言われて、喧嘩になったんだよね」

「なにそれ……そんな喧嘩あるの」


 でも美優だったら、ありそうだな、なんてことを思った。私の目玉焼きの作り方が、別れの原因になっていたら面白いな、なんて、つい失礼なことを考えてしまう。

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