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第8話

 社会人になってから、私も美優も音楽活動からは離れていった。別に飽きたとか、嫌になったわけではない。きっかけは単純に、新卒の給料では活動費をまかなえなかったからで、一度やめたらその後はどんどんと縁遠くなり、今ではクラシックの曲を歌うことはほとんどなくなっていた。


 歌うといえば、美優が失恋した時に行く、カラオケのときくらいだった。



 *



 四畳半のスペースで、何度目かの失恋ソングを歌う。傷ついた美優のそばで、気づかれないように、そっと。曲に乗せて、『大好きだよ』ってささやいた。


 曲が終わって、今度は美優の番になる。いつもの声が鳴り響く。何度聴いていたって、何度でも聴きたくなる。ぼっとしていて曲を入れ忘れて、うっかり間が空いた。


 そのときだった。


「ねえ、一緒に歌わない?」


 どこかで聞いたことのあるようなセリフを美優が言った。


「ん、デュエットってこと? いいよ。何歌う?」


 さっきから何度かデュエットはしていたから、その話かと思った。


「ええと、今とかそういうんじゃなくて」


 さっきまで震えるように泣いていた美優は、急に明るいテンションになって言う。


「私と菜月で、また演奏しない? っていうお誘い」

「え、演奏って、学生のときみたいな? 楽器とかどうするの? レンタルだって高いよね?」

「ううん、違うの。今度はちょっとジャンルを変えたいなって」


 それは、思いも寄らないお誘いだった。美優は今、ポップスの楽曲制作をしていて、その曲のボーカルを私にお願いしたい、ということらしかった。


「私、そういうの未経験なんだけど」

「大丈夫だって。学生のときもそう言ってたけど、さまになってたでしょ?」


 そう言って美優は自信ありげに笑う。かくして私と美優の、二人きりのユニットがここに誕生してしまったのだった。


「しかし、美優が作曲してたなんて、知らなかったよ」

「でしょー? 実は、昨日作り始めたんだよね!」


 美優は満面の笑みを浮かべて得意げに言う。


「なにそれ、大丈夫なの?」

「いいの。趣味なんだからさ! 楽しくやろうよ!」


 思い切り心配なはじまりだけど、それでも楽しそうなのは間違いなかった。何より、美優とまた音楽をやれるのは、素直に嬉しい。ジャンルの違いなんて、それほど問題じゃないと思った。


「とりあえず、先に菜月に詞を考えてほしいな。私はそれに合わせて曲をつくるから」

「え、作詞って……」


 それこそ、歌以上に、全く経験がない。


「大丈夫、菜月ならできるよ! それに、やっぱり詞は、歌う人が考えたほうがいいと思うし」

「まあ、確かに。とりあえず、なんとかやってみるか……」

「わあい、ありがとう! 最初はできたら恋愛ソングでお願いしたいな。菜月の作る恋の詞、聞いてみたいんだ!」


 それは、今までの美優のお願いの中でも最大級に難しいものだった。


「とりあえず、次会う時までの、宿題ね! 一週間後にまた会おう?」


 美優は勝手にそんなことを言い出す。まるで学生のときのノリだった。


 自宅に帰って、とりあえずコーヒーを淹れる。インスタントコーヒーも常備しているけれど、今日は豆をゴロゴリ手挽きしたい気分だった。


 考え事をするときには、こういう単調な作業を行いながらのほうが、なんだか捗る気がするのだ。


 お湯をやかんで沸かしながら、美優のリクエストを思い返して、ため息をついた。

作詞をして、なんて言われても、そう簡単に思い浮かぶものでもない。しかも、美優がご所望なのは、恋愛ソングなのだ。


 この十年、私はろくに恋愛をしていない。美優への片想いをこじらせるだけこじらせて、おかげさまで十年どころか、生まれてこの方、誰とも付き合ったことすらない。恋人に困らない美優とは違うのに。


片想いでも素直に気持ちを書けばいい、と言う人もいるかもしれないが、その片想いの相手はよりによって美優なのだから。やけくそにでもならない限り、その気持ちを詞に書くだなんてできるはずがなかった。


「恋愛、ねぇ……」


 テレビをつけると、ちょうどポップスのアーティストが、歌っていた。今日は歌番組の日だったか。最近はそんなに見ていなかったから、流行りの曲がどんなものかも、あまりわかっていなかった。


 作詞を頼まれていたこともあって、つい夢中になって見てしまう。音楽そのものももちろんだけど、やはり詞に注目して聴く。すると、今までありきたりだと思っていた曲の歌詞が、浮き上がってきて、やがてひとつの世界を構成しはじめる。


 あまり詳しくはないけれど、注意して聴いてみれば、J-POPもクラシック音楽と同じくらい、面白いかもしれない。このとき初めてそう思った。


 そのとき、携帯の着信音が鳴り出した。なんだよいいところなのに、なんて思いながら画面を見ると、美優からだった。急いで通話ボタンを押す。


「菜月ー! 今、家? テレビつけてー!!」


 興奮した調子で話し出す美優。何ごとかと思ったら、今つけている歌番組のことだった。次の出番のアーティストが、美優の好きな曲をうたうというので、ぜひ聴いて欲しいとのことだった。


「あのね、歌詞がね、もうね、最高なの! 歌詞っていうか、なに? 世界観? あと和声進行がもう……」

「はいはい、今から聴くから、じゃあね」


 長くなりそうだったので、さっさと切っておいた。美優の言っていた、次のアーティストの音楽に集中することにした。


 そのアーティストの音楽は確かに素晴らしくて、美優が触発されて作曲したくなる気持ちもわからないでもない気がした。もちろん、実際に実行しちゃうところは、私には真似のできないところだけど。


 とはいいつつも、私もなんだかなんだ、美優と同類かもしれない。さっきまで乗り気じゃなかった作詞だけど、なんだかやる気がわいてきてしまって。


 とりあえずキーワードだけでもと、そのへんにあったメモ用紙に書き出し始めた。美優との音楽活動は、思っていたよりも楽しくなりそうだった。

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