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第6話

 翌朝には、美優はいつも通りの彼女に戻っていた。美優が何をしたかったのかはわからなかった。私たちは何事もなかったことにして、ただの友達に戻っていった。


 だけど、美優の艶やかな声を聞くたびに、私は胸の奥が、ぎゅっと何かに掴まれたように苦しくなった。あんなことがあっても、美優が好きなのは、工藤先輩のほうなのだ。


 それに美優が私を好きになることは、きっと永遠にないと思う。だって彼女は、多分ヘテロだから。


 私とは違う。一時の気の迷いで、あんなことをしただけだ。そんなことはわかりきったことなのに、私の心はどんどん美優にとらわれていった。


 学祭本番まで、あとわずかだった。相変わらず美優は、工藤先輩にぞっこんで。彼を見つめる美優の目は、いつだって、とろんとしていた。


 今日も本番前の通し練習で、工藤先輩と顔を合わせた。あんなことがあったから、やはり先輩に対しては後ろめたい気持ちがある。だけど先輩はそんな私の頭の中になど気づくわけもなく、いつものように美しいヴァイオリンの音をホールに響かせていた。


 彼が弾くのはヴィヴァルディの四季だ。艶々したその音色は、腰に響く、などと美優が言っていたけど、たしかにその通りかもしれないとも思う。彼の後ろの位置で鍵盤を弾きながら、美優は満足そうな笑みを浮かべていた。


 私はその間、客席で録音機器の調整をする。二人の間の空気は、演奏を聞けば見なくてもよくわかった。


 恋人同士の二人の演奏は、高い熱量に加えて呼吸もぴったりだ。それは他の弦楽器のメンバーの演奏を置き去りにするような勢いで、むしろ気持ち悪いくらいだった。


「おつかれさま。相変わらず、熱いよね」

「ふふ、やっぱり?」


 練習後、思わず茶化したくなってしまった私に、美優は悪びれもせずに話す。


「今日もこのあとお泊まりなんだ」

「あ、そう。良かったね」


 それを聞いて私も、なんともないような態度をとるけれど、内心穏やかではなかった。もう、ずっとそうだった。美優が先輩を好きだと言った日から、美優にキスされた日から、私の身体の奥では、静かに熱い炎が燃えていた。


 だけど、美優がそれに気づくことはなかった。これからも、その先も、叶うことなんて永遠にないのに、こんな想いに支配されている自分はなんて愚かなんだろうと、そう思った。



 学祭当日がやってきた。サークルの演奏会の時間以外は、私たちは自由に学内をまわることができる。美優は当然のように、先輩と仲良く手をつないで、学内を歩き回っていた。


 その間、私は淡々と、部室で歌の個人練習をする。今日歌うヘンデルの『私を泣かせてください』。恋人と引き離されて捕らわれた女性が、自分の哀れな運命を嘆く。私と美優は恋人でもなんでもないけど、捕らわれの身となったその女性が、自分ではどうすることもできない運命をただ嘆く気持ちは、わからなくもなかった。


 だけどこの場合、捕らわれているのはむしろ、自分の心そのものに、なのだ。私が自分から彼女と距離をおけば、簡単に解決する問題なのだ。だけど私は、ずるずると美優のそばにいる。


 あの日のことを忘れようとすればするほど、むしろ前よりも深い沼にずぶずぶと沈んでいっている気がする。美優の奏でる楽器の音を聴くたびに、美優の艶のある歌声を聴くたびに、私の炎はより温度を上げた。


 彼女の音楽の才能は本物だった。だからなのか、それとも単に私が、彼女に熱を上げてしまっているせいなのか、わからなかった。わからないけれど、それでも、私はずっと、彼女の奏でる音楽をそばで聴いていたいと願ってしまうのだ。私の音では到底彼女には届かないと、わかっているというのに。


 演奏会の本番は淡々と進んだ。私のソロも、美優との二重唱も、練習どおりに、良い演奏ができた。美優と先輩たちのアンサンブルも、やっぱりいつもの熱っぽい演奏をして、舞台は閉幕した。


「菜月、ソロ、すごく良かったよ。惚れ惚れした」

「ありがと」


 美優は恥ずかしげもなくそんな言葉をいう。けれど、褒められたのに、どうせ先輩にはもっと甘い言葉をささやいているのだろう、なんて僻んでしまう自分がどこかにいて、情けなかった。


 楽器を片付け、舞台のセッティングを元に戻したら、あとは打上げまで、しばらく自由時間だった。美優と先輩はまた、学内をまわるらしい。


 再び手を取り合って、終わりかけの学祭をまわる二人を見送って、赤くなり始めた空を仰いだ。 


 喉が渇いた。タピオカドリンクでも買おうと思ったら、既に売り切れていた。

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