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第2話

 *


 小さな爪が弦を弾いて、箱の中で和音を鳴らす。流れに乗り遅れないように、素早く息を吸って、声を合わせる。雑然とした部室の中で、小さな波紋が生まれた。


 身長に似合わぬ長さの、白い指先が奏でるのは、静かな悲しみを感じさせる和声進行で、ただただ美しい。揺れる長い髪に目を奪われて、思わず腹の筋肉が緩んでしまう。いけない、と雑念を振り払う。なんとか、軌道修正できたかな。


 彼女と音を合わせる至福の時間を、こんな思いに邪魔されるわけにはいかない。



 美優と私は、同じ大学の同期だった。クラシック音楽のアンサンブルをするサークルに入っていて、一年のときに出会った。


 美優は中学生のときから声楽のレッスンを受けていて、音楽大学を受験することも考えていたほどだったそうだが、どういうわけか、一般の大学に進学して、そこで私と知り合ったのだ。


「ねえ、君、一緒に歌わない?」


 大学一年の五月。アンサンブルサークルで、自己紹介も兼ねた最初のミーティングのあと、彼女が私に向けた第一声がそれだった。


「え、でも私、歌、未経験なんだけど」


 私は確かに歌うのは好きだけど、このサークルでは、子供の頃から続けている管楽器を吹こうと思って入部したつもりだった。


「いいじゃん、そんなの。菜月、しゃべる声がきれいだから、きっと良い歌い手になるよ」


 早い話が、口説かれたのだ。声楽経験者の美優に声をほめられたのは、実際悪い気はしなかったし、私は簡単に陥落した。


 そうして私達は、いつのまにか、一緒にアンサンブルを組むようになっていた。


 サークルでは、それぞれが好きにメンバーを決めてから選曲を行ったり、あるいは、先に曲を決めてからメンバーを募ったりもする。


 演奏するのはクラシック音楽だけど、少人数編成だから、オーケストラよりもむしろ、軽音楽部とか、バンドサークルのようなものに近いかもしれない。その時々のステージに合わせて、気の合うメンバーと気ままに演奏活動を行う。そんなゆるい雰囲気のサークルだった。


「菜月。十四小節目、音がぶらさがってる」

「あ、はい」


 サークルとしての雰囲気はゆるくても、曲の練習そのものはちっともゆるくない。むしろ、ソリストとしてある程度腕に覚えのあるメンバーが集まっているぶん、求められるレベルは高くなった。


「美優、あとでちょっと時間もらえる? Bからのとこ、個人的にちょっと合わせたい」

「いいよ。でも、疲れたからあとでアイスおごって」

「はいはい」


 美優は歌の他に鍵盤楽器も得意で、子供の頃からピアノを弾いている。それに加えて、大学所有のチェンバロやパイプオルガンなんかも、大学側の許可を得て時折弾いたりしていた。


 十月の今、練習している曲は、ヘンデルの歌劇「リナルド」より「私を泣かせてください」。弦楽器やチェンバロと共に、ソプラノソロが歌う。美優がチェンバロで、私がソプラノ。十一月の学祭での演奏に向けて練習をしている。


 一応私のほうも、美優の紹介で、春から声楽のレッスンに通っているけれど、皆と合わせるときには、美優からの指摘も入る。


 美優は耳がすごく良いから、弦楽器とのバランスとか、音程とか、普段、先生にはあまり言われないところまで、はっきりズバズバ言ってくる。それにその都度応えていくのは、とてもハードだったけど、そのはっきりした物言いが、私には心地よかった。


 皆との練習が終わったあと、約束どおり美優と個人的に少し練習をしてから帰る。ついでに、他のもう一曲のほうも練習する。これまたヘンデルの、ソプラノ二重奏曲で、こちらの方は美優と私のデュエットだ。ソプラノ同士のデュエット曲というのはとても少ないのだけど、どうしても私と歌いたいらしい美優が見つけてきた。


 曲はソプラノ二声の掛け合いがとても美しく、後半に行くに従って、ふつう初心者にはとても歌えないような、技巧的なものになっていく。最後のカデンツァなどは、まるで恋人のように絡み合う。別にはっきりとそういう曲というわけではないけれど、私は勝手にそんな印象を受けた。


「はい、今日はこの辺でおわりー。アイス食べよ、アイス」


 練習が終わるなり、美優はいつものテンションに切り替わる。音楽活動のときと、そうでないときとでは、全く違ったキャラクターなのだ。




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