四畳半ほどの狭いスペースの中で、聴き慣れた歌声が響く。
「次、
そんなことを言いながら、彼女は私にマイクを手渡す。二人きりでカラオケに来るのはもう、慣れたもので。学生時代からの、一種の定例行事のようなものになっていた。
ほどなくして、私が先ほど入れた、流行りの曲が流れ始める。アップテンポな明るい曲調でありながら、実は歌詞は失恋のことを歌っているという、少し変わった曲だった。
「それだけ歌えば、そりゃ疲れるだろうね」
「ほんとだよ。なのに見た? 今の。六キロカロリーとか、絶対おかしいでしょ!」
「意外と少ないもんだよね。そりゃ、歌っても歌っても痩せないわけだ」
前奏の間にそんな会話をする。それから、今のうちに飲んでおこうと、目の前にあるグラスの烏龍茶に手を伸ばす。と、その瞬間に、白くてふわふわした手が、すーっとそれをさらっていく。
「なんか、喉乾いちゃった」
美優はなんのためらいもなく、ひとの烏龍茶をストローからひと口吸う。暗くてよく見えないけど、私のストローは今、美優の口紅のせいでほんのり赤くなっているだろう。だけど彼女はそんなことを気にする様子はみじんもなく、ただ満足したというように、にっこりと私に微笑みかけた。
その表情のせいで、うっかり烏龍茶を飲みそびれた私は、ちょっぴり渇いた喉で、流行りの歌を歌い出す。
別れた恋人に会いた過ぎて震えてしまう、というような、有名な失恋ソングだ。ありきたりと言ってはなんだけど、会いたいとか大好きだとか、君じゃなきゃ駄目だとか、最近の歌はどれも似たり寄ったりだ。
いや、べつに今に始まったことでもない。大学時代に歌ったクラシックのオペラの曲だってそうだった。結局、色恋を歌った詞である以上、どれも大差はないのだ。
そんなことを思いながら、一曲を歌い終わって、私はひと息ついた。
「菜月の歌って、やっぱいいよね。なんかぜんぶ自分の持ち歌にしちゃう感じ」
美優はさらっとそんなことを言う。
「いやいや、そんなこと言って。美優には敵わないよ」
「そうかなぁ」
実際、美優は子供の頃から声楽を習っていたから、発声の美しさでは、そこらの素人が太刀打ちできるレベルではなかった。だからそんな美優に、こんな風に褒められるというのは、実のところ、けっこう嬉しかったりする。
だけど、素直じゃない私は、ついつい話をそらしてしまう。
「今回の記録は五ヶ月か。まあ、美優にしては、長続きしたほうなんじゃないの」
「なにそれひどいー。気にしてるのに」
言葉とは裏腹に、美優は元気そうに笑った。恋人に振られたのは、たったの二時間前だというのに、びっくりするほどあっけらかんとしている。
「でもさ。ほんと、別れて良かったんだ、あんな男。よく考えたら顔も好みじゃないし、タバコ臭かったし」
「それで、なんで付き合ったんだか」
「ほんと、わかんない」
そう言って、楽しそうに笑う。まるで、その人のことなんか、初めから好きじゃなかったみたいに。
だけど、次の瞬間、表情が一転して曇り、美優は深く長いため息をついた。それが何を物語っているのかくらい、聞かなくてもわかっている。
「菜月……。ねぇ、泣いても、いい……?」
許可なんか出す前に、美優の目は既に真っ赤になっていた。私は黙ってうなずく。次の瞬間、目の前が薔薇の香りに包まれた。長い髪が私の肌に張り付く。
夏のわりに少しひんやりとした手が、私の首のうしろにまわされる。上半身の重みが、私の肩にのしかかってきた。
美優の肩は、可哀想なくらい、小刻みに震えていた。
「君を振るなんて、ろくな男じゃなかったってことさ。……次行こ、次」
ぎゅっと抱きしめて、髪を撫でる。さらさらのストレート。薔薇の香りのフレグランスは、デートのためにわざわざつけ直したのか、一日の終わりにしては新鮮な香りだ。
「うぅ……」
言葉にならない声をあげて、美優は泣き続ける。いつもの光景だ。こうして、ふられるたびにカラオケに来るのも。そしてそのたびに、傷ついた彼女を抱きしめるのも、私の役割であり、特権であり、使命だった。
しばらく、私達はそのまま、そうしていた。歌のない音楽が終わって、ディスプレイにはCDやゲームなどの広告映像が流れ出す。
「なんか……眠くなっちゃった」
鼻声の美優が、そう言い出すものだから。そろそろカラオケは終わりにして、それぞれの自宅へ帰ることにする。
私が声をかけると、美優は、寄りかかっていた身体を起こした。肩に乗っていた重みがなくなって、少しだけほっとしたのも束の間、美優は聞き捨てならない言葉を発した。
「菜月が、私の彼氏だったら、よかったのに」
「馬鹿、何言ってんの」
動揺を悟られないように、言葉を返す。
「うそうそ。菜月は友達だからいいんだよー。ずっと友達でいてね」
元の姿勢に戻った美優の顔を見てみれば、いつもの笑顔を浮かべていた。
「はいはい」
美優に聞こえない程度に小さく、私はため息をついた。
ふらふらの後ろ姿を心配しながら見送って、家路につく。やっぱり、知らず知らずのうちに出てくるのは、ため息だった。
私は幸せなはずだった。いつまでもここで、美優の隣で。
美優が誰かとうまくいって、幸せになれる日までずっと、隣で歌をうたっていようと、あの時、そう決めたのに。そのはずだったのに。
更けていく夜を見送りながら、いつまでも眠らないリビングで目を閉じる。私を包んでいるのは、彼女の柔らかい肌ではなくて、言いようのない孤独感だった。
ぬるい涙が、ほおを伝った。