「じ、浄化? それはわかりました。で、私は何をすればいいのですか?」
桜琴に真剣に見つめられ、一生は一瞬頭が働かなくなる。
「神谷田さんは氷の術が使えますよね? 先ほどあなたの中に二つの異なる神気を感じたのです。ズバリ神谷田さんは水の術も使えますよね?」
桜琴の目には期待の色が見える。
「え? ああ、はい。いつもはだいたい氷術ですけど、水術もたまに使いますね。で、それをどうしろと?」
一生は氷龍と水龍が使える。これは神谷田家が代々、培ってきた力であり、一生の神気が並外れて高いため、同時に二匹の龍と契約している。
過去の結界師はだいたいが氷龍か、水龍のどちらかとだけ契約してきた。
神である龍は弱いものにはその力を与えない。到底使いこなせないからだ。一生のように二頭の龍と契約しているなんて前代未聞であった。
「あなたの水龍様で氏神様の泥を流して欲しいのです。お願いします」
桜琴が懇願してくる。
一生は困惑顔になる。攻撃をする時にしか水龍は使ったことがない、力加減をうまくしなければ氏神ごと消し去りそうだった。
「ど、泥を流す? やったことはないですが、やってみます……」
「お願いします!」
桜琴は一生の手を両手でギュッと握りしめてきた。真っ白で小さな手だった。
「頑張ります」
一生は桜琴の手を握り返した。一生の背景に白い百合の花が咲き乱れる。桜琴は口角をあげ、唇に奇麗な曲線を描き、微笑んだ。
源次は一生の惚け具合に思わずジト目になる。一生を尊敬していた高星ですら口が歪む。
秘書の山名だけが微笑ましい顔で二人を見ていた。こんな一生を見るのは初めてだった。
一生は息を大きく吸い込んで、息を吐き出すを二度繰り返し、両手を開いて手のひらを氏の泥手に向ける。
(集中して、いつもとは違った氣を作る……。清流をイメージして水龍を呼び出す……)
一生の身体が
「はっ!」
と彼が声を出すと、清々しい透明な水が手から出た。……が、チョロチョロと子供用ジョウロのような水圧で、氏の泥手にはまったく届かない。
「ぶっ! ワハハハ!」
源次が豪快に笑っている声が後方から聞こえた。一生は後ろを振り返り、唇を噛んで彼をキッと鬼のような形相で
「神谷田さん、お上手です。あと少し威力を出してみましょうか?」
桜琴がにっこり微笑む。『はい』と笑顔の一生が気持ちの良い返事をし、また呼吸を整える。
また湧き水のような美しい水が出てきて、今度は氏の泥手に少し当たった。氏の泥手の泥が少し流れた。
「や、やった!」
一生が瞳を輝かせ、子供のような無邪気な顔で喜ぶ。そしてまた氣を練る。練習なしで新しい術や、まったく異なる用途で力を使ったことがない。
「その調子です!」
桜琴が軽く手を叩いて喜ぶ。その表情を見て一生も喜ぶ。
一生が気合いを入れて一度、拳を握った後に氣を放つと、今度はなんと小雨が氏の泥手を濡らしていく。
その小雨は太陽の光を浴びて小さな虹を作っている。それもひとつではなく、幾重にも重なった虹だった。
「おお! なんと美しい!」
先ほどまで笑っていた源次が感嘆の声をあげた。山名も目を見開いている。
そのキラキラした小雨は、氏の泥手のヘドロを見事奇麗に洗い流していく。
その様子を吟子と桜琴の父親も『おお』と感心してみている。
高星は瞠目していた。自分の気持ちが高ぶっているのがわかる。
(す、すごい……。よくわからないけど、妖怪を洗い流すなんて初めてみた)
やがて雨が止み、氏の泥手が姿を現した。その姿はなんと小さな老人の姿だった。
烏帽子を被り、直衣と袴を着た上に袈裟を見につけていた。派手な色合いではなく、緑を基調とした優しい色合いだった。
ニコニコと微笑んではいるが、神独特の神々しさを身に
『……ありがとう』
氏神はそれだけ言うと、まばゆい光とともに天に昇っていく。
「す、すごい。龍って攻撃しかできないって思ってたんですが、こういう力の使い方もあるんですね」
高星の目にはうっすら涙が浮かんでいた。
「やりましたね。神谷田さん!」
桜琴が満面の笑みで一生を見た。
「あ、あの桜琴さん、いや甘山さん、デートはしなくていいですよ」
一生は急に自分が恥ずかしくなった。桜琴は神を救うのに一生懸命で、そんなまっすぐな桜琴に自分は正攻法ではない気がした。
「え?」
桜琴が急に話題を変えられて、戸惑っているようだった。
「こんな力が自分の中にあったなんて、驚きしかありません……」
一生は自分の手を見つめた。桜琴に出会わなければ気づかなかった。攻撃だけではなく、こういう使い方もあるのだと。
「若様、お疲れ様でした。感動しましたよ」
山名だった。にこやかに微笑んでいて、少し声が湿っていた。
「一生、お前やればできるじゃないか。なぁんてな、お前はやればなんでもできるヤツだよ」
源次だった。少し照れくさそうに、自分の頭を掻きながら一生を褒めた。
その時、天から降ってくる、一つの小さな光に桜琴は気づいた。
桜琴が両手を広げると、それはゆっくりと桜琴の手の中に降りてきた。
その手の中で光がすぅっと消える。それは植物の種らしかった。
皆が桜琴の手の中にある、三センチぐらいの大きさの種を見つめた。白くてまんまるで、ひまわりの種のような模様が入っていた。
「可愛い……! こ、これは氏神様からのおくりもの?」
桜琴が目をらんらんと輝かせて、触ったりじっくり見たりしている。挙句には匂いまで嗅いでいる。
「桜琴、それを氏神様がいらした神社に植えてごらん」
桜琴の父が優しい声で桜琴に話かけた。
「間違いなく、またこの町を守ってくれるさ。氏神様は」
吟子がそう言葉にすると、全員が雲ひとつない空を見上げて微笑んだ。
高星はこんな清々しい気分は初めてだった。結界師の仕事なんて物怪を退治して終わり、それが延々と続くのだと思っていた。
氏の泥手が抱えていた桜琴たちの店は粉々に潰れた。吟子と桜琴の父がまた楽天的な会話を始めた。
「……しばらく高天原に帰るかね。これじゃ商売はできないしねぇ……」
「そうだね。新しい店ができるまでは高天原に帰るか。あ、それまでは高天原で商売しない、吟ちゃん?」
「お! それいいね。幸ちゃん。どこか安くていい物件探すか!」
吟子が楽しそうに微笑む。幸ちゃんと呼ばれた人物が一生らの方に身体を向けた。
「あ、自己紹介かなり遅れました。僕は桜琴の父の
幸三は屈託のない笑みを浮かべた。
その光景を見たら、高星は表情が和らいで晴れやかな笑顔になった。どうやら幸三の笑顔がうつったらしい。
(高天原って、神様の住む世界だよな……。結局、美桜さんには会えずじまいだったけど、なんだかんだで、少しだけ、幸せな気分かも……)
先ほどの種を大事に小さな袋に包んでいる桜琴の隣に立って、一生は彼女に声をかけた。
「無理にデートに誘ってしまい、すいません。お店もこんな状態だし、あなたも、そ、その高天原って場所に帰るんですよね?」
「……そうですね。お店もこんな状態ですし、あたしも高天原に帰ることになると思います。と言っても、高天原は旅行で行くような感じで、何回か行ったぐらいで、実は人間界での生活の方が、ずっと長いんですけどね」
桜琴は手を頬に添え、空を見ながら話している。そこに高天原があるのだろう。デートのことには先ほどから、ひと言も触れない。
「あの甘山さん」
「桜琴でいいですよ、どうしたんですか? 先ほどまでそう呼んでたじゃないですか。急に距離を置かれるのもなんだか嫌です」
桜琴がただ一生を見つめる。彼女が何を考えているのかはわからない。一生から視線を逸らした。
「あ、あのじゃあ桜琴さん、お母様をきちんと病院に連れて行ってあげてくださいね。怪我してるのを忘れているようなんで……」
桜琴が弾かれたように吟子を見た。吟子は出血は止まったものの、まだ頭をハンカチで抑えていた。
「そうでした! 忙しくて忘れてました。母もけろりとしてたので、すっかり……。神谷田さん、母の心配までしてくださりありがとうございます」
「……いえ、元気なうちに、お母様を大事にされてください。人生何があるかわかりませんから……」
少し弱々しく聞こえた一生のその声を聞いて、桜琴は気づいた。
「神谷田さん、もしかして……。お母様を?」
「……はい、私が十七の時に病気で。いつも母は元気だって思い込んでいる自分がいて、母が寝込んだと聞いても、どうせ風邪だろうとか、そんな簡単に考えていました。実際、入院した時には母の余命はわずか二ヶ月でした。結局、言いたいことも感謝の言葉もうまく伝えられずに、母とは別れの時がきました。桜琴さんには後悔してほしくないなぁなんて、私の独善的な気持ちですよ」
一生の瞳は遠くを見ていて、寂しげだった。桜琴はなんとも言えない気持ちが湧くのを感じた。
「独善的ではないと思いますよ。少なくともあたしは嬉しかったです」
桜琴の言葉に一生は彼女の顔を見た。少し微笑んでいて、桜琴も一生を見つめていた。
「日曜日、植物園に行きませんか?」
桜琴が言葉を風に乗せた。それは心地よく一生の耳に届いた。
「おいおい、わしを忘れてんとちゃうか~! 二人でええ雰囲気になって、みんなおるんやで?」
白兎の呆れ声がした。
「忘れてなんかいませんよ、白兎さん」
昔からの知り合いだからか、桜琴の白兎を見つめる瞳はどこまでも優しかった。
「……あっ! うっ!」
突然、白兎の顔色が悪くなった。
「どうしました、白兎さん?」
桜琴の声を聞いて、白兎にみんなの視線が集中する。
「く、来るんや……。鈴の音が聞こえる。来る来る。来てまう!」
白兎が唾を飲み込む。目を大きく開いて怯えているようにも見えた。桜琴が眉を寄せて訊ねる。
「何が来るんですか? 体が冷えて幻覚でも見てるのかしら……?」
「落ち着いてください。白兎さん、きちんと話をしてください」
高星が問いかける。白兎の怯え方が尋常ではなかった。ガタガタと震え出し、顔は元々青いのにさらに青くなった気がした。
上空に強い風が吹いた。皆が空を見上げると、店があった真上に突然、大きな両開きの鉄扉が出現していた。
その扉は赤銅色で、持ち手が金でできた見るからに立派なものだった。
一同は何事かと目を見張った。空中にいきなりそんなものが出てきたのだ。
ギィィィ……。
しばらくして重い鉄扉が開き、中からゆっくりと黒馬に乗った大柄な男が現れた。
優雅な足取りで進む黒馬は白い羽が生えていて、
全身が黒く、その黒馬のたてがみの美しさはこの世のものではなかった。まさに神馬だった。
大きな鈴を手綱につけていて、神馬が歩を進める度に、鈴が軽やかに鳴り響いた。
神馬に乗ってやってきた男は、艶のある長い髪を下ろし、紺に金の孔雀の刺繍が入った着物によく似合う、藤色の帯をしていた。
その顔たるや、
その男は空を歩き、やがて地上にゆっくりと降りてきて、皆の目の前に立った。神馬が鼻を鳴らす。
男が神馬から降り、腰につけていた袋から人参を取り出し、神馬に与えた。
神馬はむしゃくしゃとそれを頬張った。
男は背丈が六尺を余裕で超えていた。肩幅も大きい、偉丈夫だ。その男の絹のような黒髪が大きく風になびいた。金色の瞳が食い入るようにこちらを見てくる。
「に、邇邇義様……」
白兎の消え入りそうな声だけが空間に漂った。