山田白斗は本当に運が悪かった。なんと谷は神だった。
彼は山海の恵みをもたらす『
そして谷の嫁も神だった。『
愛する夫が亡くなり、豊珠姫尊は絶望し、自ら命を絶ってしまった。
このことで悲しみ、血の涙を流し、誰よりも怒り狂ったのは『
白斗の行動で自分の娘が死んだと、悲しみに取り憑かれた大綿津美神は彼を恨んだ。
彦火火出実尊は人間たちのせいで心を病んでしまった。そんな腐った人間どものために、白斗は彦火火出実尊を撃ち殺した。
そう解釈していた。
もっと他にやり方があったはずだ、と大綿津美神は高天原の
白斗は
この世界はすべてが縁だ。人との関係も、仕事も、何もかもが縁がなければどうやったって、上手くはいかない。
縁があるものをうまく引き合わせる。それが白兎尊の神力だった。
『縁結びの神がうちの娘に惚れ込んで、うまく事件を利用して娘婿を殺したんです。自分と縁結びさせるために』
愛する娘を失い、大綿津美神はそんなことまで言い出し、明らかに正常な思考ではなくなっていた。
天照大神は神が人間のために、命を落としたことにひどく心を痛めていた。
どちらにしても白兎尊は神を殺した、天照大神も、白兎尊をこのまま神でいさせるわけにはいかなかった。
神は神の力を持って、全力で神を守るのも使命だ。優先順位は人間より神だ。
天照大神はすべての生命体の神だが、最近の人間の行動は目に余るものを感じていた。
皆が自分のことしか考えなくなって、最近は特に攻撃的な人間が増えたように感じる。
人間界に神々を住まわせ、平和と秩序を保たせてきていたが、文明の発達により人間はより傲慢になってきている。
天照大神はこれ以上、神の犠牲者が出ないように決断した。
「大綿津美神よ、わかった。白兎尊は神の記憶を奪い、鬼にして黄泉の国に落とす。黄泉送りだ。それでよいな?」
こうして白兎尊は神の力を失い、鬼にされた。
いよいよ白兎尊の黄泉送りが決行されるその夜。明瞭で意志の強い声が天照大神の屋敷内に響いた。
「お待ちください! 白兎尊は確かに神を殺しました。ですが、彦火火出実尊は『谷』という名で暮らすうちに神としての自覚を失い、人間社会で酒に溺れ、心をなくし殺人をしています。それに無差別殺人の中には神が二人もいました。白兎尊がすぐに彦火火出実尊を始末しなければ、どうなっていたか、考えるだけで恐ろしゅうございます!」
白兎尊の黄泉送りを阻止しにやってきたのは、天照大神の孫の
「人間も元は神だったものたちですよ! 我ら神が人間を見放してどうするのです!? しっかりしてくださいませ、お婆さま!」
邇邇義尊の言葉は、天照大神の心に潤いを与えるものだった。人間の愚行ばかり見ていたせいか、邇邇義尊が輝いて見えた。
「邇邇義よ、しかし
天照大神は深くため息をついた。鬼は神にも危害を加える。よって黄泉送りして二度と、この世界に来れないようにするのが決まりである。
黄泉の国は地底に存在する地獄の国。太陽の光が届かない。それは絶望を意味する。
「私が白兎尊、いや、鬼になった白兎を預かります。善行を重ねるうちに神に戻れるやもしれません」
邇邇義尊は天照大神の顔を見た。天照大神は眉を下げ、困り顔であった。大綿津美神にはなんと言えばいいのだ。
「邇邇義、お前の優しい気持ちは私もよくわかる、がそのようなことは前代未聞で、世間の神々がそれを許さぬであろうな」
その言葉を聞いて、邇邇義尊が口角を片方だけ上げた。
「お婆さまがしたことも前代未聞ではございませんか? 本来なら神々の会合で決めるべきであろう、このような深刻な案件をよく調べもせずに、白斗の話をまったく聞こうともせず、大綿津美神の話のみ聞き、独断で勝手に鬼にしてしまった。これは不平等でございます。白兎尊があまりにも不憫です」
邇邇義尊が眉間に
「寛容なお婆さまに再度お願い申し上げます。白兎はこちらで預からせてください。必ず神に戻します。それに大綿津美神にも、私からうまく話をしましょう」
天照大神が盛大なため息をついた。この孫には勝てないと。この孫の『うまく話す』は間違いなく正論で相手を叩き潰す、その意味だからだ。
邇邇義尊はまさに神の器であった。徳が高く、神々からの人気も高い。高天原で彼の支持をしない神は存在しないであろう。
どんな時も優しさと気配りを忘れない。貧しい神にも慈愛の心で接する。
そして天照大神の孫であるにも関わらず、偉ぶった態度は決してとらない。
「……よかろう。そなたの好きにせい」
天照大神は大きくため息をついた。この孫を敵に回すほど厄介なものはない。
こうして白兎は邇邇義尊の屋敷で暮らすことになった。
邇邇義尊、偉丈夫でキリリとした眉の男らしい端整な顔立ち。肩幅があり、紺色に金の刺繍がされた着物がとても似合っている。
艶があり、背中の真ん中あたりまである長い黒髪はそのまま下ろしている。
高天原きっての美男子。
美桜の婚約者である。美桜はなぜ、この美男子から逃げ出したのか、頑なに家族にも決して明かさない胸の内。
とある意外な人物が、閉ざされた美桜の心の扉を開けることになる。