「や、山の神!?」
一生と高星が素っ頓狂な声を上げた。
「ははは。桜琴の行動は何も知らない人が見たら、不審者にしか見えないだろうからね。でもあれでも、れっきとした神様なんだよ」
そう言って桜琴の父親は屈託なく笑う。
「そ、そんな、神様が人間と普通に暮らしてるなんて、信じられないです」
高星が桜琴の方に視線を向ける。彼女は手袋をして白兎の治療にあたっている。
白兎は遠足に使うような、派手な柄のシートの上に寝かせられていた。
桜琴がポケットから、透明なプラスチックケースに入った緑色の塗り薬と思われるものを取り出した。
それをこれでもかと言わんばかりに、大量に白兎の患部に塗っている。
白兎は布を噛んで、必死に痛みに耐えているようだった。目には涙がうっすらと浮かんでいる。
「今でも普通に神様はそこらじゅうにいるよ。元々、人間は神として誕生した。それが悪行をしたり、物怪に取り憑かれたりすると神ではなくなる。例えば、すごい物が作れる人も神様だ。とても上手い絵が描ける人もそう。感動するような美味しい料理が作れる人もそう。素晴らしい本が書ける人も、心地良い音楽も、奇麗な歌声の持ち主もみんな神だ。数えきれないぐらい神々はこの世界に溢れている。本人がそれに気づいていないか、転生を繰り返すうちにいつしか、その記憶を、力を失ってしまった。ただそれだけのことだよ」
桜琴の父親はなんでもないことのように、淡々と話をする。
「にわかには信じがたいですが、桜琴さんの力を見る限りは人間業ではありませんね……」
一生が桜琴をじっと見つめた。その横顔は凛としていて美しかった。彼女は汚れるのもお構いなしに膝をつき、懸命に白兎の治療をしている。自分を狙った鬼に向ける優しい眼差し。彼女を見ていると心が温かくなる気がした。
(これが山の神の力……。山に行くと妙に落ち着くのはそのためか?)
一生の視線に気づき、桜琴は『もう大丈夫ですよ』と優しく微笑みかけてきた。薄く塗られた桃色の口紅がとても似合っていた。
彼は胸が高鳴った。とても苦しい。だがなぜか不快ではない、上手く説明できない気持ちが今、生まれた気がした。
「人間が神に戻ることはあるんですか?」
高星が桜琴の父親に尋ねる。この父親はとぼけているが只者ではないと高星は感じている。どこかしら高貴な感じがするのだ。
「まぁ、なきにしもあらずだね」
相変わらず、その声はのんびりとしていて、店が後ろでミシミシと嫌な音を立てているのを忘れているかのような、そんな口調ですらあった。
氏の泥手は店を半分背負ったまんま、その場に立ち尽くしている。
源次の張った結界のおかげで、ここは人の目には見えなくなっている。見えないということは入れないということだ。
きっと外からはいつも通り店があるが、扉は閉まっていて中には入れない。
結界のおかげで磁場が歪み、『なんだ店休日か』と、そんな幻術を外の人間は見ているはずだ。
その時、白兎の焦りのこもった声が聞こえた。
「おい、姉ちゃん! な、何を貼り付ける気や?」
「何って?
桜琴が白兎に丁寧に説明をしている。
「いや、おかしいやろ。ガーゼとかないんか?」
「いいえ、それよりこちらの方が確実に効きます。何枚か腹部と背中に貼りますね」
店の女性従業員が隣にいて、桜琴の治療を手伝っていた。従業員が黙々と桜琴に大葉を渡していく。
「いやや~! こんな原始的な治療~! なんでわし、こんな目に遭わんといかんの~」
白兎が涙目になって叫んでいる。緑色の塗り薬の上から、ペタペタと大葉を桜琴が貼り付けていく。
「まぁまぁ。白兎さん、全ての生物は自然とともに生きるのが、本来の姿なのですよ」
桜琴が悟りを開いたような言葉を口にする。
「あれが山の神の治療法……」
山名が呆然とつぶやいた。
「なぁ、あれって本当に効くのか?」
源次が
「……」
一生は白兎が少し可哀想に思えてきた。現代の医療からは考えられない。はっきり言って無茶苦茶で手荒な治療だ。
いや、そもそもあれを治療と呼ぶのか?
しかし鬼を病院には連れてはいけない。ここは桜琴を信じるしかなかった。
「神谷田さんが悪いわけじゃないですから。あれ、どう見ても鬼でしたから。やらなきゃ僕らがやられてました」
一生の気持ちを悟ったように、高星が言葉を発した。
「鬼か……」
一生が独り言のようにつぶやいた。
(桜琴さんは白兎のことを神だった、と言った。あれはどういう意味だ?)
何事もなかったかのように、澄んだ空には燦々と太陽が輝いていた。
この青い空とお天道様を見ていると、世の中には汚いものや悪意などは決して存在しない、そう思えてくるから自然とは不思議だ。
人間が一番好きなのは太陽かもしれない。それはいつだって暗闇を照らし、人々に希望を与える存在だ。
「人間は神が実は身近にいることを薄々感じながら、暮らしている。君たちもそうじゃないか?」
突然、桜琴の母親が話かけてきた。先ほどの揺れで頭を怪我したらしく、ハンカチで側頭部を押さえていた。血が滲み出ていた。
「え?」
さっきとは違う距離感で話しかけられ、高星は少し戸惑った。
「この世界に身近に神がいない、と思うほうがよっぽど暮らしにくい。苦境に陥った時、絶望しかないじゃないか? 困った時に人間はすぐに『助けて神様』とお願いするぐらい、本当はみんな神が近くにいることを知っているんだ。自分も神だったことを忘れてしまっただけでね」
桜琴の母親はどこか遠い目になっている。長い
「神が人間になり、人間が増えていき、人間と暮らしていくうちに神であることを忘れてしまう。筋力と同じでね、神の力も使わないと衰えてしまうのさ」
桜琴の母親は高星の顔を覗き込んだ。
高星は桜琴の母親の目に見つめられ、その眼力の強さに『この人もきっと人間ではない』と悟った。その圧から目が離せない。逸せない。
神々しくて怖い、けど、その澄んだ黒い瞳には人を惹きつけて止まない、何かがあった。
「ここ日本は特にそうだね。昔っからそうだ。人と同じでないといけない、枠からはみ出した生き方をしたものは異物として見られる。だから人間が増えすぎた今の世の中では、神は神の力を隠すしかないんだ」
「は、はぁ……」
高星はそういった間抜けな返事しかできなかった。いきなりそんな話を信じろっていう方が無理だ。
すぐ隣で話を聞いている一生は腕を組み、真剣に話を聞いているようだった。
「地上が嫌になっても
桜琴の母親が桜琴のところに向かって歩き出した。
「久しぶりだな、白兎。また邇邇義様に言われて、美桜を説得、いや奪いにきたんだろ?」
「……なんや。しばらく見らんうちにまた一層、化粧が濃くなったなぁ、吟子おばちゃん」
白兎が桜琴の母親を見て、ニヤリとイタズラな笑みを浮かべた。
「質問に答えろ!」
桜琴の母親が白兎の足に軽く蹴りを入れた。
「やめてよ、お母さん。
桜琴が眉を寄せた。
「ふんっ! これだけ口がきけりゃあ元気だよ! 殺したって死なないよ、コイツは」
吟子と呼ばれた桜琴の母親が、白兎に鋭い視線を投げつけた。
大葉を貼り付けられた白兎の患部には包帯が丁寧に巻かれていく。
「白斗さん? え? 皆さんはこの鬼と知り合いなんですか?」
一生が目を丸くして訊ねた。
「白兎、いや白斗はもともとはこの町を守る警察官だったんだよ」
穏やかな声が聞こえた。桜琴の父親だった。
「はぁ~?」
「は!? この鬼がですか?」
皆が弾かれたように、桜琴の父親の方を一斉に見た。
「そうだよ。彼はね、とても爽やかな好青年だったんだよ。立派な警察官で、この町の人気者だった……」