「この鬼が神?」
皆の視線が桜琴に集まった。
桜琴がゆっくりこちらに近づいてきた。氏の泥手は何もせずに、目の前を通った彼女をただ眺めていた。
「桜琴さん、こちらには来ないでください、危険です。あなたが狙われていたんですよ?」
一生が白兎の前に立って、鬼に近づけないように両手を広げた。
白兎の苦しそうな荒い息遣いが、一生のすぐ後ろから聞こえる。
「あたしが狙われていた……。まぁそういうことにはなりますが、ですが正しくは、狙われていたのはあたしではないですね」
桜琴が白兎の様子をちらりと見て、顔をしかめた。
白兎が呻きながら、傷口を抑えている。出血し続けている。このままではそう長くは持たないだろう。
「あなたじゃなきゃ、誰が狙われていたんですか? この鬼はさっき明らかに、あなたのことを言っていましたが?」
高星がもどかしそうに口を挟んだ。まどろっこしいのは好きじゃない。
桜琴は構わず白兎に近づこうと歩みを進める。
「ダメです、桜琴さん。下がってください」
一生が語気強く言葉にした。桜琴が眉間に皺を寄せる。
「大丈夫ですよ、神谷田さん。後できちんとお話ししますから。とりあえず、この鬼を治療しなければ死んでしまいます」
桜琴があたりをキョロキョロ見回しながら、「ええと~」と独り言を言いながら、店の軒先に吊るされていたポットに入ったアイビーを持ってきた。
「治療? それでその観葉植物をどうするんです? 行動が謎すぎます」
一生は桜琴に問いかけた後、白兎に近づけないように、桜琴の進行方向に動く。桜琴が右に行けば右に、左に行けば左に立ち塞がる。
通せんぼだ。一生は桜琴の霊力が強いことは十分わかった。だが治療の意味がわからない。
(まさか自分の霊力を分け与えるつもりか?)
一生は混乱する頭で考えた。
桜琴は右に左に動き、どうにかして白兎に近づこうとしている。なかなかにしつこい。
鬼など助けてなんになるのだろう、しかも自分たちを全滅させようとした鬼だ。
「何をしようとしてるのか、いまいちわからんが、俺も結界師として、人間として反対だ。甘山さん」
源次が硬い表情で言い放ち、桜琴が白兎に近づくことができないように一生の隣に並んで立った。一生に倣って両手を広げて通れないようにする。
「甘山さんは確かに我々のような強い霊力はありそうですが、鬼の怪我の手当てなんて、わたくしも断固反対です」
山名もそれに続き、並んで立ちはだかる。背丈のある三人が並び、完全に壁ができあがってしまった。
「皆さん、心配してくださるのはありがたいんですが、通してもらえませんか? どうかお願いします」
桜琴が一生の顔を潤んだ目で見つめる。二十センチ近い身長差でどうしても上目遣いのようになる。
一生が黙って、桜琴の白い顔を見つめ返す。
高星が桜琴に呆れ口調で、言葉を投げつける。
「あなたね、一体何がしたいんですか? そんな顔したってダメなもんはダメですからね! さっきのであなた死ぬとこだったんですよ!」
「ただ治療をするだけですから……。神谷田さん、これもあたしの仕事なんです。神谷田さんは結界師ですよね? ならわかってくださいますよね?」
桜琴が微笑しながら、さらに一生の瞳の奥を見つめた。一生の瞳の中の光が揺らめきだした。
「神谷田さん、絶対ダメですからね!」
高星の声がした。一生は桜琴のブラウンダイヤモンドの瞳に吸い込まれそうだった。
「……す、少しだけならいいか。……い、いや、やっぱりダメだ」
一生は押し切られてしまうと、彼女の視線から顔を逸らした。
その時、桜琴の背後から中年男性のものとおぼしき声がした。その声はどこか呑気で間が抜けている。
「あの~、すいませんが、娘の好きなようにさせてもらえませんか?」
この場に似合わない能天気な声の持ち主と、桜琴の母親と店の従業員の女性がこちらに歩いてきた。
その声の持ち主は背が高く、六尺はありそうな男性だった。年齢は五十歳前後と見受けられる。短く切りそろえた髪には少し白いものが混じっていて、服装も和菓子職人といった出立ちのものだった。若い頃はさぞモテたであろう、整った顔立ちをした男性だった。彼が桜琴の父親らしい。
「桜琴は頑固なところがありまして、言い出したら聞かないんです。あなたたちの言い分がもっともなんですが、好きにやらせてみてください。何かあったら私がなんとかしますから」
桜琴の父親が軽くため息をついた。
「しかし……」と一生が困惑顔になる。その時ふと何かが一生と源次の間を通り抜けた。
「あ、あれ? 桜琴さん?」
父親に気を取られているうちに、桜琴は一生と源次の間をすり抜けて白兎のすぐそばにきていた。
「さ、桜琴さん!」
「しー、神谷田さん、静かに。神だった鬼を殺してしまうと、神谷田さんも神殺しの罪で鬼になっちゃいますよ?」
一生が固まる。聞き間違いだろうか?
桜琴の口から今しがた恐ろしいワードが出た気がした。
「よし、まずは暴れないように固定と……」
桜琴が左手をかざすと、白くて柔らかい光が掌から溢れた。
その光に反応するように、桜琴の持っているアイビーの
「おお……」
皆が光輝く蔓を見て、感嘆の声を上げた。
「なんと! 蔓が伸びていく! これは一体……」
山名がせわしなく瞬きをした。
患部を除き、アイビーが白兎に巻きついて、緑の
「……なにすんじゃ、おい、姉ちゃん……。やめろや!」
白兎が赤い目で桜琴をカッと睨んだ。
その光景を皆、固唾を飲んで見守っている。
「……動けんやないか。このくそアマが!」
白兎が暴言を吐くとともに、彼の喉の奥から豪玉の小さくなったような青い炎が出てきた。白兎が顔を上げ、それを素早く桜琴の顔めがけて吐き出した。
「まだそんな力が残ってたのか!」
一生が叫ぶ。後悔の波が押し寄せてくる。
皆が息をするのも忘れて桜琴を守ろうと動いた。だが、どんなに急いでも、桜琴と白兎の距離が近すぎる!
桜琴のあの奇麗な顔に当たる! どう
だがドンという音とともに、軽く地面が揺れ、白兎と桜琴の間に土の壁ができた。一瞬の出来事だった。
地面から土が飛び出してきたのだ。
白兎が吐いた青い炎は音も立てずに、土に飲み込まれた。この光景を初めて見た結界師らは目を見張った。
霊力が強いとか、そういう次元ではなかった。
白兎は口をあんぐりと開けて、無言で桜琴をちらりと見た。
「もうっ! じっとしていてくれませんか? あなた死にたいの?」
桜琴がむくれた。
「……はい。すいませんでした」
白兎が蛇に睨まれた蛙のように大人しくなった。
「……」
高星は胸の中で自分を恥じた。穴があったら入りたい、そんな気分だ。
自分は彼女を足手まといだと思って、ぞんざいな態度をとってきた。
ところが彼女の力は高星など、比べものにならない、桁違いのものだった。
「……なんだ? 今のは。一瞬で壁を?」
一生は目を疑った。源次も、山名もあっけにとられている。
その時、彼らの背後で間の抜けた父親の声が響いた。
「ね? 心配無用だったでしょ? 桜琴は山の神だからね。まっ、土は友達みたいなもんだよ」
どこかとぼけている、だけどその声はなぜだかとても心落ち着くものだった。