結界の上で微笑んでいた美桜が、結界内にひらりと戻ってきた。
「飛行術が使えるって、あなたは一体……、何の神なのです?」
隣に降り立った美桜に高星は訊ねた。
「高天原の神はだいたいみんな飛べるよ」
なんでもないことのように美桜が高星の顔を見て、口角を上げた。
「わたしは
美桜はあくびを噛み殺し、手を口元に当てながら答えた。
「僕のことを信用してるんですね? そんなに自分のことをベラベラ話して大丈夫なんですか?」
高星は眠そうにしてる、美桜に警戒の声色を隠さずに問いかけた。
「えぇ? 高星くんはすごい疑り深いなぁ。君の
美桜は意味のわからないことを口にした。
目に見える神気が大きければ大きいほど、基礎の霊力の力が強いことを表す。
「僕が神? そんな話初耳です。第一、なんの力もないんですよ?」
高星は美桜に乾いた視線を送った。
「あはは。君、自覚がないんだね。そのネジくん、
美桜がネジの頭を撫でた。ネジが目を細めて嬉しそうに顔を上げた。
「あ、そうだ。これお礼の品。わたしが作ったわけじゃないけど。今の君たちには効果抜群だと思うよ? なんせ、そのお饅頭も神が作ったから」
美桜が胸のポケットから、ゴソゴソと饅頭を二つ取り出してきた。
「はい、どうぞ」
美桜に強引に渡され、高星はその饅頭を受け取った。美桜の温もりで饅頭が生温かくなっていた。
「これは
そういえば、もうそんな季節なのか、と高星はしみじみ思った。
姉の蝶子が行方不明になってから、ちょうど一年ということだ。
代わりに高星が結界師になって、修行に明け暮れた一年はあっという間だった。
「今、食べなよ」
美桜が高星を見つめた。大きな眼が圧をかけてきた。なんの圧の類かわからなかった。
「い、いや、今はお腹空いてないから。明日食べます」
高星は生温かい饅頭を食べるのに抵抗を感じた。
しかも美桜が作ったものじゃないらしい、誰が作ったものかわからないものは食べない。
これは結界師に限らず、今の世の中なら当たり前のことだった。
「お腹空いてなくても食べた方がいいよ。働きすぎだから」
美桜が高星に上目遣いで、強い口調で言った。
「初めてです。そんなこと言われたの。働きすぎなのに食べるんですか? 胃腸には働けと?」
高星は
(美桜はもしかして結界師の敵か? この姿は幻術か?)
「ふ~ん。食べないんだ。ま、別にいいけどね。でも今度会ったら無視するから」
美桜が口を尖らせた。話す内容も子供みたいだ。
「あなた、人間を脅すんですか」
高星は吐き出すように言葉にした。
飛行術を使える時点で霊力は向こうが遥かに上だ。
高星を殺すならとっくに殺してるはずだ。仕方なく高星は饅頭を食べることにした。
「一口だけですよ?」
高星はらんらんとした目で見てくる美桜から視線を逸らし、手に持っている蓬饅頭の梱包を開けた。
見たところ、本当に普通の饅頭だ。
高星は匂いを嗅いだ。蓬の香りがした。
美桜が隣で見守る中、高星は勇気を出して蓬饅頭を一口食べた。
「ふふ……」
美桜がニヤリといたずらな笑みを浮かべたのを、高星が視界の隅でとらえた。
(なんだ、今の笑みは。し、しまった。やはり毒が……)
高星はせめてネジだけでも逃がそうと、ネジに視線を移した。
しかし、時既に遅し、ネジは美桜から饅頭をもらって食べていた。
蓬饅頭を食べてから、高星の身体が熱い。
しかし不快な熱さではなく、熱いお風呂に入ったかのような、心地よさだった。
「……あれ、身体が軽い……?」
高星は疲労しか感じなかった肉体に異変を感じていた。
「ね? 疲れが取れたでしょ?」
美桜が高星に優しく微笑みかけた。
(これ、この蓬饅頭はすごく美味しい。甘すぎず、しっとりとしていて程よく柔らかい。それに何より身体が蓬の香りに包まれて精神が落ち着く。高ぶっていた気持ちが和らいでいく……)
高星は残りの蓬饅頭もペロリと平らげた。
全部食べ終えた高星の身体は、誰にも邪魔されることなく、身体が欲するだけ眠ったかのように疲れが取れていた。
「ね? 効果あったでしょ? わたしのこと神だって信じてくれた?」
美桜が高星の顔を覗き込んだ。
美しいアキシナイトの宝石のような飴色の瞳が、高星をまっすぐに見つめてくる。
「ねぇ高星君さ、結界師になって何年目なの?」
高星の顔の前に、美桜の顔がなぜかどんどん迫ってくる。
「う、生まれた時から姉をサポートするような修行はしてますが、きちんと独り立ちしたのは一年前ですよ」
高星はしどろもどろになった。美桜が高星の両肩に手を置いたのだ。
なぜだか二人は至近距離で向き合っている形になっていた。
(え? 近い。な、なんだ)
高星の心臓が早鐘を打ち始めた。
一年前に彼女と別れてから、女性とこんな至近距離で話をしたことがない。しかも相手は絶世の美女だ。
「あ、あの美桜さん、距離感がおかしいと思います……」
高星は美桜に自分でも情けないと思うぐらいの声量で話しかけた。
突然の出来事に身体が固まってしまっている。
美桜はにっこりと微笑むと、高星の背中に腕を回し、抱きついてきた。
美桜の身体の柔らかさがはっきりと高星に伝わった。
「あの美桜さん、俺たちさっき出会ったばっかなんですよ。お、おかしいで……」
高星は声にならない声で、そう話すのが精一杯だった。
その時、高星の耳元で美桜の寝息が聞こえ始めた。高星は身体の力が抜けた。
「……働きすぎは美桜さん、あなたの方じゃないですか……」
高星は疲れて眠った美桜の背中に手を回し、吐息を吐き、つぶやいた。
隣ではネジが自分の尻尾を追い回し、遊んでいた。あの饅頭は人間だけでなく、食べた生き物すべてに元気を与えるらしかった。