勉強会には、橘幸助と秋月菜穂、大竹希美を誘った。
実は橘と久しぶりに話すことには躊躇いを覚えていた。喧嘩のあとだしなあ、と。それでも、連絡を掛けてみると案外、あっさりと承諾を受けた。正直に言えば拍子抜けした。
俺の家で勉強会をやることに、母親は喜んでくれて、「昼食を用意しているからね」と言った。
「こう解けばいいんだよな。なんか難しそうな問題に見えたけど、公式の応用を用いれば簡単に解ける」
「だろ。ってか、お前は数学は得意なんだからこれぐらいそもそも簡単だろ」
俺はシャーペンを回しながら、「そりゃあそうだけど……」と橘の言葉に応じた。
「すごいね。ふたりとも、高校レベルの数学の問題を数分で十問も解くだなんて。天才だよ」
秋月はそう感心したように述べた。そう褒められて、俺は鼻が高くなる思いだった。
だが、橘は辛辣に「これぐらいこいつは理系のプログラミング専攻なので出来て当たり前ですって。逆に出来ないと恥ずかしいよな」
そう、意地悪な笑みをさせながら橘が言った。こいつ、すごい腹が立つ。
「ああ、そうかよ。くそ、次の問題だあ!」
「みんな~お母さんがおかし作ってくれたって。ふわふわパンケーキ」
そう言ってパンケーキの乗ったトレイを持って部屋に入ってくる大竹。彼女の表情は緩んでいて、とても上機嫌だ。そして当然のように俺の隣に座り、パンケーキをテーブルに並べながら、「あとで一緒に親御さんに挨拶に行こうね」ととんでもない発言をした。俺はそれに驚かされた。
「まじで……母さんに?」
「うん。だって婚約したじゃない」
沈黙が場を過ぎる。ギチギチと表情を固まらせながら橘が、「それ、本当か?」と訊ねてくる。
俺は頬をぽりぽりと掻きながら、
「まあ、そんなようなもんだよ」
と言った。すると彼は思いっきり溜め息をつく。
「受験に、ゲーム制作や恋人に可愛い妹とかお前はラノベの主人公か! このバカ野郎」
「おいおい、ひどい言い草だな。でも人生満喫しているぞ」
俺は立ちあがって橘を見下した。けらけらと豪快に笑ってやる。怒りを逆なでさせる行為だ。
そしたらコンコン、と扉がノックされた。俺は橘と目を合わせた。きっと、妹の眞衣だ。うるさかったのだろうか。
「どうしたんだ? いったい?」
「えっと、なんか……お兄ちゃんが婚約するって壁から聞こえて」
ものすごく嫌悪感を覚えているような声で、眞衣は言った。俺は目をぱちくりとさせる。どうしてそんな感情を妹は抱いているのか。
「部屋に入ってもいいぞ。ちょうどパンケーキもあるんだ」
「おいおい、俺、緊張してきたぞ」
そんな度胸なしな橘の発言は普通に無視する。
「分かった……」
キィと扉が開かれる。今日は牛のパジャマの装いである眞衣。それを見た橘は鼻の下を伸ばした。「可愛い……」
俺は無言で橘の顔面を殴った。涙目で彼は痛いじゃないか、と叫ぶ。
するとくすす、と笑う眞衣。まるで天使の笑みだ。(おい、シスコンとか言うなよ)
「お兄ちゃんも、幸助くんも変わってないね」
それから、大竹が眞衣の真正面に立った。
「どうも初めまして。イラストレーター志望兼竹達俊くんの恋人の、大竹希美です」
するとむむっ、と眞衣が不機嫌になった。「私は認めませんから」
「それはどうして?」
「お兄ちゃんは私と結婚するからです」
俺はコーヒーを飲んでいたのだが、勢いよく吹いてしまった。こいつ、なに馬鹿なこと言いだすんだ。
「残念でしたあ。兄妹は結婚できません!」
「絶対にします。だって私、お兄ちゃんと血、繋がってないもん」
「は……?」
空気が凍り付き、周囲の視線が俺に突き刺さる。
「ああ、言ってなかったよな。眞衣は父親の隠し子なんだよ」
「なにその、馬鹿みたいなラノベ設定みたいな事実。隠し子って、まさか浮気?」
俺は、「あまり褒められるものじゃないけど、その通りだよ」と告白した。
◇
「雅子、俊、話があるんだ」
それは俺が五歳のときだった。平日にマクドナルドに呼び出され、雅子——母親は気難しい顔をしていたが、俺は呑気にハッピーセットを食べていた。
三歳ぐらいの小さな女の子が、父親のズボンの後ろに隠れて、こちらの様子を窺っている。
「その子はいったい?」
母親が尖った声で追及した。それに弁明するように、父親は言った。
「会社の後輩との子供だ。その子が別れたいと言ってきてな、だから俊と一緒に育てることにした」
母親の表情が一気に冷めていく。そしてコップの中の水を父親にぶっかけた。
「なにを考えているんですか‼ そんなの絶対に許しませんよ」
父親は顔をぬぐうことすらせず、床に膝をつき母親に土下座した。
「頼む。俊と“この子が”成人してから離婚でもなんでもしてもいいから、頼むから育てさせてくれ」
「話になりませんね」
「おかあさん……あの子のなまえなに?」
「えっ?」
俺の言葉に、母親は動揺したようだった。俺からすれば単純な興味だったのだが。
父親は笑って、「眞衣だよ」と言った。
俺は椅子から降りて、ハッピーセットのおもちゃをその眞衣という女の子にあげた。
「これ、俺いらないから」
それが俺と眞衣の出会い。浮気なんて不純なことなど知らず、不思議な少女との出会いに歓喜した思い出。
◇
「というわけで、お父さんとお母さんが離婚したら、私とお兄ちゃんは他人同士。結婚できるのです」
そうしたら大竹が俺の肩に手をのせてくる。
「俊くんもいろいろあったんだね」
「おっ、同情してくれるか。ありがとよ」
「何なんですか。その言い方、まるで私がおかしいみたいじゃないですか」
ぐすっ。ぐすっ、と泣き声が聞こえる。そのほうを見ると、橘が泣きじゃくっていた。
「俺は、眞衣ちゃんのことが好きだったのに!」
「えっ、ええっ!」
眞衣がのけぞるほど驚きを見せる。
「幸助くん、私のことが好きって……でもごめんなさい。今はお兄ちゃんのことしか考えられない」
「もう俺は死ぬわ」
橘がペンケースの中からカッターナイフを取りだしてそれで手首を切ろうとする。それを全力で止める俺。
「バカ野郎。恋煩いで死ぬとか駄目だぞ」
目を涙で真っ赤に腫らしながら、「いいよなあ、お前はモテて」と僻み出した。
俺は髪をなびかせて、
「まあね。全く、モテる男は辛いよ」
「なにその構文。寅さんみたいな。まじでキモイんだけど」
「『男は辛いよ』じゃねえよ。ただのギャグだろうが」
秋月の容赦のないツッコミに反論する俺。
そしてこんなある意味楽しい勉強会は、幕を閉じた。