「旅行? こんなときに?」
橘幸助は、教室の窓側にもたれかかってコーヒー牛乳を飲みながら目を剝いていた。それを俺は見ながら、そんなオーバーリアクション、取らなくても、と思っていた。
今日は夏休みの補習だ。本当は俺は休みたかったのだが、父親の目も光っているので、参加せざるを得なかった。
「いいか、俺たちは受験生だ。何度も言ってるようにお前には将来があるし、ゲームだけがすべてじゃない。それに、秋月さんも受験がある。少しは遠慮というものをだな——」
「はいはい。分かってるって。飼い主のことは飼い犬が一番分かってるから」
そしたら橘が俺の胸ぐらを掴んでくる。
「……悪い……」
「もういいよ」
橘はそう言い残して教室の前方へと向かっていった。
「くそっ、何なんだよ。受験生だとか……将来だとか」
妹の眞衣は、そんなもの全部諦めてしまっているんだよ。なのに、俺だけ大学や専門学校に入校して、安全圏でゲームを制作したものを眞衣にやらせて、なんのメッセージが伝えられるんだよ。
気分を変えるために窓を開けた。じりじりと蝉の鳴く声が聞こえる。熱波が顔を撫でる。もう夏だ。
「ねえ、ワンコ君——」
「えっ」
俺は、唐突に声を掛けられて(もう自分のことを犬だと認知しているのは、残念なことだが)振り向いた。
「明日、一緒に海水浴に行かない?」
「あっ、だったら和歌山県にロケハンに行かないか? 大竹や水穂さんを誘って」
俺がそう言うと、海水浴に行かない? と言ってきた秋月が唇を尖らせて拗ねるアピールをした。それがどこか可愛らしかった。
すると、彼女は人差し指で俺の胸にハートを描いた。「本当は、二人きりでデートのつもりだったんだけどな」
「そう、そんな……マジっすか」
そしたら卑屈な笑みを浮かべて、「バーカ、ワンコの散歩のつもりだっただけよ」なんて言ってくる。
「俺は、いったいいつになったら人間になれるんだ?」
「そうねえ……」
そして、彼女は満面の笑みを見せた。
「妹さんをゲームで泣かせたら、じゃない?」
俺はその言葉を聞いて、心から安堵した。まだ俺の生き方に賛同してくれる人がいるんんだ。
たとえ、その選択が間違っていたとしても。
妹のためだったら、人生なんて詰んでもいいから、妹をただただ救いたいんだ。
その覚悟を認めてくれる人がいてくれることが、今の俺にはとても嬉しかった。