じりじりと猛暑が背中に迫ってくるような体感だった。
ビルの反射熱が俺たちを苦しめる。その俺たちとは、秋月や大竹、そして俺の集団のことだ。
「暑いです」
「我慢しろ、秋月。あと少しで着くんだから」
「でもさあ、本当にコンサートなんか行ってその水穂さんを説得できるの?」
いま、俺たちが目指しているのは東京オペラシティコンサートホールだ。そこで今日、橘水穂がクラシックのコンサートをやるらしい、とのことを橘から聞き、チケットももらった。
目的は、まず彼女を褒めちぎる。「すごい演奏でしたねえ」なんて胡麻擦って、なんとかして話を聞いてもらう。
「やるしかないんだよ……もう後には退けない」
「もう、無理かも……」
大竹がしゃがみ込む。俺はそれを見かねて、彼女を背負った。その様子を冷ややかな目で見つめてくる秋月。
「どうしたんだよ」
「別にい」
ぷいっ、とそっぽを向いてまるで拗ねているみたいに歩き始めた。ぷりぷりと。
あいつ、まだ尾を引いてんのかな。
そんなことを考えていると、大竹が耳打ちしてきた。
「俊くんを占領できてうれしい」
「降ろすぞ」
「なんでえ⁉」
「そのまんまだろうが。そんな不埒な理由で歩けないアピールすんな。鬱陶しい」
「ひどいよう」
そしたら秋月が睨みつけてきた。「あんたら、さっきからイチャイチャしてないで。もうすぐコンサートホールに着くわよ」
「ああ……」
周りを見ると、貴婦人や紳士が現れ始めた。それだけ見ればわかるように、クラシックは品位が高い、というのが一目瞭然だ。
俺は大竹を降ろして、手を繋いだ。そうして歩いていたら、秋月の視線が痛かった。
「全く……、人を馬鹿にすんのも大概にしなさいよ」
「秋月ちゃんも、俊くんの左手、空いてるよ」
「あんたねえ……」
どうしてこんなにキャットファイトしているんだ。
「おいおい。もう少し仲良く出来ないのか」
「「誰のせいだと思っているのよ‼」」
俺はふたりから怒られて、肩を竦めるしかなかった。
それからホールに入って、チケットを受け付けの人に見せる。
俺を間に挟んで、右に秋月、左に大竹が座る。
「楽しみだねえ」
「うん。どんな演奏なんだろう。俺さあ、クラシックに疎くてさ」
「私も……」
大竹とは会話が弾むが、秋月とは沈黙だ。彼女のほうを見やると、静かな怒りをにじませていた。それが怖かった。
「どうしたんだ?」
「あんたってさ、モテるからさ。ほら、エロゲーの主人公みたいに。だからちょっと怒ってる」
「理不尽‼」
すると秋月が俺の瞳を覗き込んでくる。
「あんた、私のこと嫌い?」
「いや、嫌いじゃない。大好きさあ」とアメリカ男爵のように軽々しく言うと、足を踏んづけてくる。
「痛っ」
「バッカじゃないの」
「分かった。すまない。ふざけすぎた」
そしたら、ブー、という放送音がホールの中で響いた。
そろそろ開演の時間だ。
幕が上がると、ピアノの前にひとりの女性が座っていた。
優美、という表現が似合っている女性のようだった。
ポーン、と女性——水穂が鍵盤を叩いたあと、流れるように演奏が始まった。曲名は分からない。けれどどこか物悲しいように感じてしまうのはなぜだろうか。
休憩時間。俺は秋月たちとベンチで水分補給をしていると、受付のお姉さんがやって来た。
「橘水穂さんが楽屋へどうぞ、と申していたのでよかったらぜひ」
「えっ、はい」今日、水穂にはコンサートに来ることは言ってはいない。
ホールの奥の入り口に、俺たちは入って、で、ドレス姿の水穂を視界に収める。
「やっぱりあんただったのね」
「どうしてわかったんですか」
「舞台から客席ってよくわかるのよ。あんなアホ面はいっそうね」
「ははっ」
秋月は場違いな笑みを零した。それをすっと切り裂くように、「あんたもよ」と言う水穂。
「なによ、銀行みたいな名前のくせに」
秋月と水穂がいがみ合う。こいつら犬猿の仲すぎやしないか。たしかに、性格も似通っているから同属嫌悪みたいなものかもしれないよな。
「煙草いい?」そう問いながら答えを聞かずして煙草に火を付けた。
紫煙を吐き出しながら、「で、どうすんの? お金は用意できそうなの?」と訊ねてきた。
なにかを言いかけた秋月を、俺は手で制す。
「俺たちは同人でゲームを作っています。だから、今回のゲーム賞に受賞したらその賞金を四人分で分割するつもりですし、同人ゲームとしてコミケなどで売ることも考えています」
「ということは、言っちゃあ言えば出来高制、ということなのね。報酬金は」
俺は頷いた。「そういうことです」
すると突然にけらけらと笑い始めた水穂。「面白い。高尚なクラシック音楽家を捕まえて、出来高制で報酬は間に合わせます、だなんてどんだけ馬鹿にしてんのよ」
俺は俯いた。やっぱり駄目だったか。とんだ無理だったんだ。こんなプライドが高い女を誘おうなんてことが。
そしたら大竹が水穂の頬をはたいた。
え……。
「あんた、何様のつもり? 言わせてもらいますけどねえ、あんたみたいな音楽家、腐るほどいるのよ」
「なんですって‼」
丸椅子に座っていた水穂が立ち上がり、大竹の胸倉を掴む。
「あんたはプロなんだから分かるでしょ。自分よりも格上の人がいて、そして自分を追い越していく後輩たち。そんななかで、自分の立ち位置ってなんだろうって。そんな見栄を張っていても何もならないわよ」
「あんた、いったい何様?」
腰元に手をやって、自信に満ちた表情で啖呵を切る大竹。「私は、史上最高のアマチュア絵師よ」その言葉は先ほどの言葉とは矛盾しているが、それでも、彼女の狙いとしては水穂の音楽家としての姿勢を客観視させるために、あえてこうした啖呵を切ったのだろう。
だからか、彼女はなにも言い返せなかった。
「わかった……。協力してあげる。でも、最高のゲームを作りましょうね」
俺は手を差し伸べた。「ありがとう」
力強く握手を交わした。