翌日。
Nextの社内は、まるでオタクの巣窟のようで、俺は少なからず興奮を覚えていた。
だがそこに一見すると場違いな女子が二人いた。
ひとりは、天真爛漫な様子でパソコンをじろじろと見て、「ふむふむ、これは最新のウィンドウズ。ぜひとも欲しい。ねえワンコ君」と大声で叫び、社内の人の業務を妨害している。
もうひとりは絵師の人に質問攻めにしている。「これってコピックの何色を使っているんですか」
ひとりは秋月菜穂。もうひとりは大竹希美だ。
メールでSPinsに招待されたことを伝えると、二人は「行ってみたい」と言ったのだ。いやいやいやと一度は断ろうとしたのだが、ゲーム作りは私たち初心者だし、あなたの助けになりたいのお♡なんて構文が送られてきたから、致し方なく。
「なあ、ふたりとも。お前らは仕事で来たりしないのかよ」
「ないわね。私は主にアニメとかの脚本とか、小説が主戦場だし、この子はアマチュアだから専門外」
やっぱり人気商売でも専門外はあるもんなんだな。
「あの……大田准さんは?」
部長と書かれたネームプレートが置かれた、そこに座っている五十代の初老に訊いてみた。
「ああ、光ちゃんね。おーい」
「おいおい、部長。ペンネームで呼んであげて」
誰かが笑いながらそう言った。俺はさあぁあと鳥肌が立つのが感じた。
まさか、嫌な予感がする。
「初めまして——」
目線を上げると、立っていたのは絶世の可愛い子ちゃん、なんて言葉が似合うくらいの女性だった。手にはコンポタを持っていた。
ああ、『スイートシナリオライター』って、このことか。
軽く、大田に対して憐憫の感情を抱いた。
◇
Nextの掲示板には、まことしやかな噂が流れていた。
それは大田准の女性説だ。
なぜなら彼が描くシナリオが、『スイートシナリオ』と呼ばれるほど甘ったるいのだ。糖分を脳に直接注射されていると錯覚してしまうほど、ヒロインと主人公の関係性や、サブキャラとの会話だったり、それらがTSコミック(女性向け漫画)のように展開されているのだ。だからか、彼の信者には女性ファンが多い一因になっている。
まさか、本当に女性だったなんて。
社内の喫茶店で、僕らは彼女——大田光にパンケーキをご馳走になっていた。
「どう、幻滅した?」
「いや、期待外れだっただけです」
彼女はそんな反応をされるのが初めてではないのだろう。けらけらと笑い、そりゃあ正直でよろしい、と俺を諫めた。
「どうして公表しないんですか? ファンを裏切っている気持ちにはならないんですか?」
「……」
「公式プロフィール欄にも男性と明記されているし、大田“准“なんて、男の名前」
「それはね……ギャルゲー界にはまだ男性社会の名残が残っていてね。女性が働くには難しい世界なのよ」
「だからって……だからって……ッ」
「ファンをだましていることに、時々胸が痛くなることもある。それでもね、私は決めたの。自分の作品を世に送り出すためだったら、鬼にとって代わろうじゃないかってね」
俺は言葉を失った。目の前の女性の覚悟に。
すると、それまで黙っていた秋月が口を開いた。
「明治頃の文壇も、そういう風潮が顕著にありました。女が文豪だと、笑わせるなみたいな。今では女性の小説家も活躍していますけどね」
俺は、謝った。心の中ではまだくすぶっている思いがある。でも、それを一度忘れてこの女性と向き合ってみようと思ったのだ。
「俺は、いま、ファンとしての心理と、大人として、光さんと向き合うべきか葛藤していますが、そんな中途半端な状況でもよければ、質問に答えていただきたいです。お願いします」
光は目をそらしてパンケーキを食べる。「別にいいけど」
「俺の好きな作品に、your.norsというのがあります。あの物語は、主人公の少年とヒロインが家族になり、その後を描いた作品でもありますよね。その発案から原作まで大田さんが携われたと窺っております。エロゲーとしては、稀有な作品だと思います。どうしてそのような作品を作られたのか?」
「単純な泣きゲーを作りたくなかったから、かな、Nextは様々な挑戦的なゲームを作ってきたけど、誰かの人生に寄り添うものの境地まで作りこまれたゲームは、作られてこなかった。だったら作ってやろうってね。当時はファンタジーのエロゲーが台頭していたから、脚本会議でも物議をかもしたけど、そのときに社員全員に問うたのよ。ファンタジーをただ遊ぶだけだったら三時間ほどプレイして、エッチして終わりだけど、私たちが作ろうとしているゲームは、人生でしょ。そりゃあ、人生の中には三大欲求は入る。でも、それ以外はヒロインとイチャイチャラブコメしたり、仕事をしたり、いろいろあるでしょ。その色々を作りこみたいのよ、ってね。幹部からは勝手にやってろって叱咤されたけど、何度も頭を下げてようやく予算が下りたのよお」
長々と当時のことを語る大田は、まさしく大田准そのものだった。ギャルゲーというものに従順に好きで、どっぷりその世界にはまった人だった。
「すごいですね。その情熱」
大竹がそう言った。すると涼やかな目で彼女は問うた。「あなた、イラストレーター志望よね。あなたは違うの?」
大竹は息を詰まらせながら、「私の世界は、人材なんて業界数多で、自分の武器がないと仕事なんてもらえなくて。絵が上手いだけの奴なんてごろごろいるんですよ。そのなかで切った切られたの競争をしなくちゃいけない。そのためには、コミュ力も必要だし、自分で自分の絵を売らないといけない。厳しい世界に打ちのめされそうになった経験は数知れません」と言ってそっと袖を隠した。
「それでも、プロになりたいと思っているのね。すごいわ」
光は唐突に大竹の頭を触った。よしよしと髪に触れる。
二人はまるで姉妹のようだった。虚勢を張る妹に、年上の姉が優しく抱擁する。その構図自体がどこかのエロ漫画みたいで。俺は苦笑いしてしまう。
「泣いてもいいですか」
「ダメ。我慢しなさい。プロが涙を見せていいのは、トイレの中か、パパの胸の中だけよ」
「早苗さん……」
俺は苦笑いから笑みに変わった。この人、やっぱり大田准だ。というか、もう女性とかスイートシナリオレーターとかどうでもいい。既成概念なんかぶっ壊れろ。
「光さん。お願いがあります」
「なに?」
「俺に、ゲーム制作教えてください。お願いします」
「あなたがゲームを作りたい動機を教えてくれない?」
「妹が、引きこもりなんです。クラスの中でその、『空気』とか『謙遜』というものに、負けてしまったんです。でも、妹はNextの、大田准さんが作るゲームが大好きなんです。また妹に元気になってほしい。そういう動機です」
「格好いいお兄ちゃんなのね。でもね、私が手伝ったりするのは違うかな」
「どうして、ですか」
光は、頬杖をついて紅茶を飲んだ。そして長く息を吐いた。
「答えは自分で見つけなさい。それがクリエイターでしょ」
少し冷徹のようだったが、俺は分かっている。クリエイターになるには、時には自分で答えを見つけ出さないといけない、ということを。
俺の癖は他力本願なんだ。秋月にシナリオを依頼したり、大竹にイラストをお願いしたりする、そんな奴なんだ。
そんな奴に、ゲームなんて作れるのだろうか。