方針は決まった。
サーチスの提案に乗ってはみたものの、この世界で生きるには幾つもの壁が立ちはだかっている気がしてならない。
その中で最も優先すべき壁はやはり。
「言葉ね」
サーチスがいてくれなければ、いつまでもあの板を用いて意思疎通をしなければならないところだった、アレは便利ではあるのだろうが、時間の喪失と心身の負担が大きい。それに必要な会話だけを厳選するのでは面白みに欠ける。
今サーチスと己の口で話してみて、その不便さが少しずつ身に沁みたところだ。やはり故郷の言葉はありがたい、というのを実感した。
「それならばご安心を。この世界の者達と作り出した翻訳機がございます。何点か用意いたしましたのでご確認ください」
机に大きな鞄が置かれる。その中にはサーチスの言う翻訳機らしきものが整理して入れられていた。
片耳に当てるもの、両耳を塞ぐようなもの。首に下げるもの。いずれも色や形が様々だが手に持つといずれも軽い。日常的に身に着けてもそれほど問題は無いだろう。
「こちらからの発語は相手にどう聞こえるの」
使い方を確認しつつ、選ぶ。
父の形見となったペンダントは身に着けておきたいので、首に着けるものよりは耳に当てる方が見た目が良いと思う。
「翻訳機を通じてこの世界の言語に変わりますのでご安心を、ただ声の調子等は機械を通すため少々雰囲気が変わるかもしれませんが」
教えてくれながらサーチスが選んでくれたのは、小さな耳飾りの形をしたものだ。手に取ってみると程々に軽く、見た目も華美では無いが最低限の可愛らしさを備えているところは私の好むところでもある。
「これは魔法の技術も一部に用いたものですので、機械だけのものより軽量かつ性能も良いものです。姫様の魔法の才ならば、魔法による負担も問題にはならないでしょう」
「悪くないわね、これにする」
耳につける。この世界の人間とこれで会話ができるはずだ。と、安心してから不意に思う。
「そういえば、この世界の人達が私達の言葉を訳すことができるのは、あなたの仕事なの?」
文字にしろ、この翻訳機にしろ、私の世界の言葉を知らなければできないことだ。それを確認すると、サーチスは控えめに頷いた。異世界との言語による交流を成し遂げたならばそれは大きな手柄だと思うが、その頷き方は誇らしげには見えなかった。
「確かに私の知識が翻訳の基礎となっておりますが、この技術自体は以前からあったようでして。私自身は翻訳技術を借り受けただけにすぎません」
知らぬ土地で言葉を交わせるようになるだけでじゅうぶん凄いと思うが、どうやら彼自身はそうとは思っていないらしい。謙虚なのだなと思うが、確かにそれ以前に気になるところもあった。
「この世界は、どういうところなの」
口に出した疑問は我ながら具体性に欠けると思う。けれど広い意味で私はこの世界の有り様を捉えられないでいる。
異世界との関わりに対する組織があって、異世界の言語を訳する技術が確立している。もしかして私は危うい世界に来てしまったのか。
「それは、この世界の者から話してもらいましょう。姫様の生活についてもその時に」
確かに性急か。
一度に聞くには私も準備不足だろう。
「段取りを整えてまいりますが、姫様、それ以前に不躾なお願いがあるのです」
「急にどうしたの」
お願い、と言われると身構えてしまう。
真剣に見る私に対してサーチスは気まずそうだ。
「姫様の名に関する事でごさいます」
とても言いにくそうに口を開く姿を見ていると、どうにも居心地が悪い。しかし名前の事とはどういう意味なのかと首を傾ける。
「誠に申し上げ難いのですが、姫様の名はこの世界の言語で非常に品のない意味を持つ単語と同じ発音なのでごさいます。どうぞこの世界で生きるに当たって新たな名をお使いください」
とても体を小さくし、一息で素早くサーチスは言い切った。よほど言いにくかったのだろう、言い終えた後になっても緊張故か肩が小刻みに震えている。
「それはどういう意味なの」
しかし彼の発言の意味が良く分からない。偽名を使えと言いたいのだろうが、この世界で人名に相応しくない単語などという理由を出されると少々気になってしまう。
「深くは申し上げられません、ですが翻訳機が動作せず、そのままの名を伝えてしまうと、姫様に不名誉な事態となってしまいます。どうぞここは何も聞かずに新たな名を使っていただきたい」
更に問うと顔色を悪くするサーチスの姿を見れば、少々申し訳ない気持ちになってくる。遺憾ながら私の名はこの世界においては口に出すことが憚られるような音であるという事を認めなければならないようだ。
深いため息をつく。
「そこまで言うなら、わかったわ。この世界で住むのに不便のない名というのはどういうものなの」
せっかく両親が名付け、今日まで兄達や多くの人が親しんで呼んでくれた名を捨てるのは忍びないが、新たな生き方をするためだと自分に言い聞かせる。そういう私の葛藤を知ってか知らずか、サーチスは安堵したように胸を撫で下ろしている。
「では姫様の名本来の意味と同じ物を持つ名として雪姫というのはいかがでしょうか」
少しの相談を経て、サーチスが提案してくれた名の響きは悪い物ではなかった。元の名と意味が大きく違わないのであれば、心の中に溜まっていた緊張も多少は和らいでくれた気がする。
「それにしましょう。私の名は今日から雪姫」
自分で口にしてみても馴染む。この世界で生きる第一歩としては悪くないだろう。
「ええ、ではこの組織の人間に姫様の事を伝えてまいります。恐らく組織の者と面談の後、幾つかの手続きを行っていただくこととなります」
忙しくなりそうな事を言い残し、サーチスは部屋を出た。その背中を見送るにあたり、様々思うところはあるが、今は仕方ない。少しずつこの世界の事を理解していこう。