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善か悪か(一)

§§§



 ある晴れた朝。聖堂の玄関に一輪の花が添えられていた。白くて可憐な小さい花だ。それを拾い上げる金糸のような髪をした青年が一人。


「やぁ、今日もよく来てくれたね」


「……んっす」


 エーデルは柱の陰に隠れる自分を見つけると、にこりと微笑んだ。


「君が毎朝くれる花の便りを、学生たちは喜んでいるよ」


「……エーデルさんは?」


「もちろん、僕も」


「……そっか」


 ちらりと、上目遣いをしながら唇をすぼめる。やわらかな朝の陽射しが眩しい。エーデルさんは顔にきれいな弧を描いて、絹のような肌を光に透かしている。スラムの人と全然違う、じっと見つめていたくなる優しい匂い。ハッとして、彼の言葉を聞く。


「さあ、今日も始めるよ。中へおいでなさい」


「うん」


 デポンズ聖堂では、エーデルさんが中心となる学問会をしばしば催していた。中央からの積極的な支援が途絶え、知識階級の人々が離れてしまったキルナ=サイトで、若者達へ教育を施している機関はエーデルさんが主宰する〈デポンズ・サークル〉だけだった。


 ここでは路上生活者の子どもが多く、年齢はバラバラだけどみすぼらしい格好をしているのは自分だけじゃない。習うのは文字の読み書き、勘定法、地図の読み方や食べ物の作り方、ス・ウィン教に基づく哲学や道徳など生きていく上で必要とされていること。教壇に立つエーデルさんは広い世界の話を沢山教えてくれた。


 人間らしく生きなさい。エーデルさんはよく口にした。


「人間らしくってどういうこと」


 聖堂の奥間に設えたよく陽の当たる教室で、一度尋ねた事がある。エーデルさんは教壇から降りてきて自分と同じ高さに視線をそろえながら、おだやかに口にする。


「いつも誰かを想って生きる事」


「わからない」


 そう首を振る自分にエーデルさんはゆっくり頷く。


「誰かのために頑張れる人、誰かを助けられる人。僕たちはいつも見えない所で頑張っている人に助けられて生きている。その人たちの存在を知り、他者を支えていく生き方を僕たちは目指していたいんだ」


 見えない所で、誰かのために頑張る。それは何のためにやるのだろう。誰だって腹が空いてるときに食べ物を出せばかっぱらって行くだろう。目の前で起こることが全てなのだ。それなのにわざわざ見えない人の事を考えるなんて、どういう意味があるのかさっぱり分からない。


 そんな生き方をエーデルさんは理想としているのか?


「私も?」


 尋ねた声音には、自分がそのような考え方を持てるのかという自身に対する不信感、そしてエーデルさんが提示する人間像へ対する好奇心である。仮にエーデルさんがその理想を持っているとして、自分は彼の掲げる人間らしさによって今こうして役に立つかも分からない知識を得る機会を与えられている。


 そして……言葉を、取り戻した。


 エーデルさんが向けてくれる木漏れ日のような笑顔と柔らかな声。それに初めて触れた日から自問を続けている。それは不思議な感情だった。正体の分からない胸の高鳴り。この奇妙な昂ぶりの理由を知るために聖堂をたびたび訪れ、ある時から路辺の花を供えるようになった。エーデルさんが笑ってくれる。彼が嬉しそうな顔を見せてくれるから、いつしか喉元を塞いでいた栓は溶けてなくなっていった。


 エーデルさんの考える人間らしさ。それはきっと悪いものではないのだと思う。


「君にはきっと誰かを救う力がある。だから自分を大事にするんだよ。君は誰よりも生きる力を持った子なんだから」


 エーデルさんの話は難しかった。だけど疑おうとする気にもならなかった。彼が教えてくれているのは、きっと自分のために必要な何かなんだと、なんとなく分かっていたから。


 聖堂での学問会で配られた小さな焼き菓子を齧りながら、帰路に就く。甘味も入っていない軍からの払い下げで仕入れたであろう、食用栄養粉を練り固めた物だ。粉っぽいだけのはずなのに、エーデルさんがくれた物だからとても美味しく感じる。


 エーデルさんから習った言葉を一つずつ思い出していくうち、段々と心臓のある位置が温まっていく感覚になる。どういう訳か分からない。足下がそわそわとして落ち着かなかったり、頬のあたりがむず痒くなったりする。


 へんなの。だけど嫌な感じではない。エーデルさんの事を考えるのが、楽しいのだ。




 あれから月日が経った。今では使える言葉、知ってる名前が沢山ある。辛い事があっても楽しい時間があるから大丈夫って時が増えた。


 街角の窓ガラスに映る自分を見て驚いたことがある。まるで別人だった。落ちくぼんでいた両眼には光が差し、痩せこけていた頬は赤みがかってすこしだけ丸みが出ていた。泉で顔をすすぐと土気色だった肌は、なめらかな手ざわりをしているではないか。


 歩く速さも変わっていた。石畳を跨ぐには四歩かかっていた。なのに今は三歩である。いろいろな変化が自分の中で起こっているようだった。どうしてだろう。答えはすぐに出てきた。エーデルさんがくれる焼き菓子だ。あれのおかげで身も心も軽やかになっているのだ。


 やっぱり、エーデルさんはすごい人だ……。


 エーデルさんは時折、彼自身の未来についても話してくれた。デポンズ聖堂の後継ぎとして、誰からでも認められる司教になるために努力している。いつかは王都の中央教会へ修行に出るとも言っていた。エーデルさんは二十二歳。決められた人生だと言う声もあるけど、それを受け容れて自分の生き方として全うしようとするエーデルさんを尊敬している。


 ただ自分はどうしたいかと訊かれたら「自由になりたい」としか言えなかった。

家から。街から。機械兵アトルギアから。誰にも縛られる事のない生き方への憧れを強めている。


「だったら自由と解放の戦士、正規軍に入るかい?」


「嫌だね。王都の人達なんて大嫌いだ」


 安全な場所で暮らしている人々なんか、スラム街で生まれ育った人間など目にも入っていないだろう。エーデルさんからは敬うべき土地だと教わっていたが、どうしても好きになれない自分がいた。


「だから、盗賊か王様にでもなろうかな」


「なんてことを!」


 不意に出た冗談に驚いたのか、エーデルさんは慌てて諌めてきた。それでも本当に自由に生きたいと願う気持ちは、学びを深めるうちに大きくなるばかり。だから彼の狼狽えぶりを可笑しく思いながら、こんな言葉を続けて言った。


「私は自分の軍を持つんだ。自分で自分を守れるくらい強い仲間を作ってね」


 はずみで出た発言だ。けれども胸の内に秘めていた未来図でもあった。


 この時、自分は初めて世界に対する希望を口にした。そして感じたのは、未来を語るとはこんなに解放的で心地よいものなのかと。たとえこの夢物語だとしても己の望みを口にすると過酷な現実を忘れられそうだ。うん、そうだ。自分は夢を持てるんだ。そう思うと街中の錆びついた建物なんか消え去って、目の前には無限の景色が広がっていくような気がした。


 その景色は、若草が一面に広がる草原という場所だったり、山という高い樹木が密集している地形だったり、海と呼ばれる塩水の塊だったり……そこに高々と突き立てるんだ、自分だけの大きな軍旗を。


 ──世界最強の私の軍隊。


「誰も縛る事ができない世界の王に、私はなるんだ」


 エーデルさんは呆気に取られたように口を開けていたが、やがて何度もゆっくり頷くと莞爾と笑んだ。エーデルさんが笑うと、自分も口元がふわりと緩む。


「旅から戻った時には聞かせておくれよ。王様の土産話を」


 今度は自分が驚いた。エーデルさんは王都の体制にならう中央教会の派閥のはずだ。ややもすれば反乱因子とも言える自分の夢を、まるで支持するかのように笑って認めてくれたのだ。


「怒らないの?」


「まさか。君は本気なんだろう。いつかきっと、どこまでも遠くへ行ってしまいそうな気がするよ。僕の手も届かないほど、大きくて広い空の向こうへ飛んで行ってしまいそうだ」


「鳥みたいにね」


 おどけて両手を伸ばして見せると、エーデルさんは手を打って笑顔になった。


「うん。風の向くまま気の向くまま、自由に生きる風来嬢だね」


「フーライジョー?」


「そう、風来坊の女の子版さ」


「エーデルさん、なんだか古~い!」


「こら、僕は由緒正しい家の者だぞ。それは僕にとって褒め言葉だ」


「褒めてな~い!」


 二人で笑い合う時間。こんなにも楽しくて豊かなひと時が今までの人生であっただろうか。エーデルさんのように優しくて頭が良くてかっこいい大人がもっとたくさん増えたらいいのに。みんなエーデルさんみたいだったら良いのに。


 だけどデポンズ聖堂の一人息子は、エーデルさんただ一人。将来この街のトップになれるのはエーデルさんしかいないのだ。


 もしかすると彼は、自分に何かを見ているのかもしれない。エーデルさんの立場を思う。トップになる未来を約束されているからこそ、誰かを救い続けねばならない。王都の顔色を窺って与えられる庇護でしか、民を救う力を得られない。まるで操り人形みたいな人生じゃないか。


 想像だが、エーデルさんもきっと自由に生きてみたいのではないか。自分の力で未来を拓いてみたいと思っているのではないか。あの陽光のような笑みの下には、どんな想いがあるのだろうか。けれど本人が語らないなら、問う訳にもいかない。


 ただ、自分の存在が彼にとってポジティブなものであってほしいと願うだけだ。


 エーデルさんにはずっと笑っていて欲しいから。

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