”
大理石の床に、ヘルバンデスを脳天から串刺した。真っ赤なソースが飛び散って緋色の花が一輪咲く。F.G.O──グレイスが扱う格闘術の奥の手の一つ。全体重を受け手の頭部に叩き付ける、生半可な敵には出せない殺人技である。
一撃で仕留めねばならない強敵にだけ使う、奇襲のありきの技であるがこれを喰らって立ち上がった者はいない。辛味ソースを常備している事さえ、この技を出すための布石でありグレイスの武器だった。
戦闘とは勝つために行うものだ。生き残るための
常人は食えた物ではないと発狂する辛さらしいが、グレイスにとってこんなに生きてる実感を得られる刺激物など甘露の何より他ならない。不意打ちだろうがなんだろうが、関係ない。勝てばいいのだ。
グレイスは嘆息をつく……強敵だった。劇薬を塗られ、股間を潰され、大理石に頭蓋を突き刺されたと言うのに、
「許さん、許さんぞ……」
この男、受け身を取りやがった。ヘルバンデスは額から噴き出る血潮で顔面を赫に染め、あろう事か再び立ち上がってきた。黒眼鏡を投げ捨て、殺気で黒々とした双眸でこちらを睨む。
「よもや主の恵みを冠する乙女が悪鬼羅刹がごとき卑劣な方策を用いるとはこれは解し難き事実なれど真実にあらず我らが主の給うは希求すべき円環の輪廻の末にありし恒久なる栄光であり此はまさに悪魔の権化にほかならず……」
「嘘でしょ」
一歩ずつのそりのそりと歩み寄るヘルバンデスの邪悪で虚ろな眼光に、グレイスは後ずさりせざるを得ない。ヘルバンデスは何かの
「かくなる上は十六世界の地獄において極楽の主に告げし名を
言葉は途中で切れた。糸を絶たれた人形のようにヘルバンデスはその場に倒れた。傍らに転がっているのは手頃な石ころ。……何があったかなど今さら思考を巡らすまでもない。
「援護が遅え」
「ごめんごめん、サンチョの奴らと追いかけっこ始まっちゃってさ」
割れた窓から茶色の頭。マルトは砂埃をかぶった顔でにひひ、とスリングショットの弦に指を引っ掛けてくるくる回しながら窓枠を跳び越えた。
マルトの攪乱と狙撃がなければ聖堂の潜入もできなかっただろう。年少ながらやはり戦場での生存戦略は馬鹿にできない。 早速ぶっ倒れたヘルバンデスの懐に手を突っ込んで
「お詫びと言っちゃあ何だけど情報を仕入れてきたよ。エーデル司教の行方は北区の
キルナ=サイトの心臓だ。地下資源の採掘場と併設され、守備隊の駐屯地も隣接する広大なエリアであり、それだけに一個の戦力が拠点を構えるにはこの上ない格好の場。
「ちっ、いかにもな場所に巣食いやがって」
エーデル司教をわざわざ運び入れるとは、頭目アロンソはそこにいると見て間違いないだろう。そして同時に意味するのは、これまでの比にならぬ兵力でサンチョの本隊が陣取っている事。
(……エーデルさん)
今度こそ、必ず助ける。唇を強く噛みしめて聖堂奥のステンドグラスに目を向けた。草も生えない荒野の中央に、かつて栄えた小さな都がここにはあった。廃れた世界で人々の心に燦然と輝く唯一の希望、それがこの聖堂だった。主を信じ、豊かな愛の精神を持つ事こそが安らぎを与えてくれる。
この信条が間違っているとは思わない。だが信念を貫くためには、力が要るのだ。
マルトがヘルバンデスの懐から引っ張り出した教典を開きながら言う。
「ヘルバンデスって司祭、この人なりにス・ウィン教を導こうとしてたんだ」
小ぶりな割に表紙には豪華な装飾がなされているが、ところどころ焼けた痕跡がある。古ぼけているし闇市で売るには金品的価値などつけられない。スマートな装いのヘルバンデスが携えるには不釣り合いだ。しかし、たった今倒した男にとって、この教典が如何ほどの価値を持っていたのかはなんとなく推し量れよう。奴には奴なりの
「でも我が儘を押し通せたのは、私の方だった」
グレイスは言い切る。
「自己満足の正義ほどタチの悪い物はない。大事なのは偏りのない道義だよ」
「ふぅん」
「王都に恨みを持っているのは私も一緒さ。強者は弱者のすべてを救わない……私も、救われなかった側の人間だからさ」
「だから救う側に回っているの?」
「そんな虫のいい事はしないさ。私は弱者でいるのが嫌いなだけ。強くなりたきゃ勝手になれって思っているよ。それでも、救いの手を差し伸べようとしてる奴に敬意は払うぜ」
マルトに顎で示し、聖堂の扉にそっと教典を立てかけさせる。ステンドグラスの花明かりが憂き世に眠る男の体を、表象世界の幻想的な景色の中に閉じ込めていた。
「私は、気に入らねえ奴らを屈服させるのが大好きな悪人だからさ」
外に出ると篝火のほとんどは倒されていた。地面でくすぶる残り火がほのかに明るい。煤の匂いが涼しい夜風にさらわれている。先ほどまでの喧騒などなかったようだ。この静けさにグレイスは一種の無常を覚える。争いの後にあるのは無音なのだ。何も動かず何も喋らず何も鼓動せず何も生まない。それが争いだ。
「……で、大工場を攻めるのはどうするの?」
ふむ、と顎に指を添えて考える素振り。
「私に策が……」
「結局、力押しだよね?」
ガキンチョがぬかしやがった。
「時には強さそのものが策の名前になるものさ」
「助かったのはオイラのおかげだろうに」
ぶつぶつ言う少年の頬に唇を押し当てる。すぐに黙った。
「とにかく、聖堂の五〇人と幹部は倒した。この調子で本隊も潰す」
「……二百人だよ」
「何がだよ?」
「大工場を根城にする悪党共の数、二百人」
「二百人」
「うん、二百人」
「…………ぶっ潰す!」
「この人やっぱり無策でやる気だ⁉」
マルトと雑な談話を交わしながらバリケードの外郭に出ると、人だかりが待ち構えていた。聖堂内にいた民間人である。彼らは無事に解放されたことに安堵したのか、疲労を隠せない様子でグレイスの前に来ると、深々と礼を告げた。
「どこの誰だか存じませんが、助けてくださり本当にありがとうございました」
「あ、うん……」
たった一人で、武装した賊共を制圧した。そしてエーデル司教を助けに来た。民間人にとってグレイスとは絶望の中に現れた英雄として視られているらしい。とは言えグレイスは真顔で聞かなきゃならない話が苦手である。加えて綺麗な目を向けられるのも柄じゃないので好きではない。
だから、エーデル司教を助け出す。その一言だけを明確に答えた。倒した雑兵共は民間人達で拘束済みとの事。しばらくは鹵獲した武器を使って自警に専念すると言うので、グレイスは「よし」と言って励ました。マルト少年も自分の手柄を必死で主張していたが、不憫なあしらわれ方で終始した。
ちょうど良い所にサンチョの奴らが乗りつけてきた二輪車を見つけた。燃費が悪くて馬力が強い
出発しようとした時、人々の中から年嵩の男がグレイスの背中に呼び止めた。
「……姉ちゃん、どこかで会ったか? どうか名前を聞かせてくれ」
暗視
「さあ知らないね。こんな街にも、自分の名前にも興味ない。けれど昔、こう呼ばれたね」
砂塵の混じった風を肩で切り、グレイスはアクセルを目一杯吹かした。
「悪魔の子とさ」
そして二輪車は走り出す。