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惨めな子(二)

 人々はどよめく。彼は慈善家として慕われるデポンズ聖堂の跡取りだ。この街の経済は聖堂と中央王都の蜜月によって命脈を繋いでいる。いわば最高権力者の家系にある。そんなエーデル司祭が、薄汚い盗人を友と呼び、あまつさえ贈り物までしたと言うのか。


 これはどういう状況だ。この場にいた誰もがそう思ったに違いない。それなのに、だ。誰も疑念を発せなかった。


 エーデル司祭はためらいもなく、三叉架のロザリオを盗人の首にかけたのだから。それは王都恩賜の宝飾。三叉の要に黄金の珠があしらわれている事から〈黄玉のロザリオ〉と呼ばれている。


『これで疑いは晴れましたね』


 きたならしい盗人が身につけて良い代物ではない。


『この子は聖堂から何も盗んでいません。私とこの子の友情に誓い、彼女の無実を証言します』


 思わず気が遠くなる──――こいつは、何を言っているんだ?


『しかし司祭様、そいつは他の家でいくつも盗みを働いている。どうして許してやれるものか』


『あなた方は、その手の石ですでに彼女を懲らしめた。衆人環視の中心で抵抗もせず自由に打たせ、罪を声高に読み上げられた彼女の報いは、流れる血潮であがなえませんか』


 木柱の根元にできた赤い水溜まりをエーデル司祭は示した。思ったより酷い怪我をしていたらしい。確かに、このまま打たれ続けていれば、間違いなく自分は死ぬ。


『この子に石を投げたい人は、私にそれを当てなさい。私はあなた方を許します』


『まさか。司祭様が受けるべき罰ではない、あなたは罪を犯してないじゃないか!』


『友人の犯した罪は、私の罪です。彼女に罰を受ける力が残されていないなら、私が続きを受けるべきです。私の血潮で彼女の罪を償えるなら、私は進んで打たれましょう』


 理解ができない。自分の身代わりになろうとしている。


 なぜ。 


 なぜ?


『失った物は戻りません。しかし悲しみを和らげる事はできます。あなた方の失くした物を、私まで届けてください。我々デポンズ聖堂ができうる限りの手当てを補償します』


 その発言に人々は跳び上がった。街が財政破綻して以来、中央教会を通じて王都の経済支援を引き出していたのがエーデル親子が教理を導く、ス・ウィン教デポンズ聖堂だった。宗教が街の盟主たりえる由縁はここにある。


 ――どうして助けた。


 人払いを終えた広場は暮れ色に染められていた。差し出された練餅レーションに、顔を背ける。縄を解かれた両手はまだ力が入らない。


 口がきけない恨めしさを眉間に込めて、エーデル司祭をめつける。これまで幾人もの蔑みを映した、険しい眼差し。どうせ自分の野蛮な形の眼を見れば、彼も嫌な顔をするだろう。そう思っていた。


 ところが彼が返してきたのは、微笑みだった。


『会うのは今日が初めてだね……僕はエーデル。君に会えて嬉しいよ』


 ふわりと、花のような香りがした。


 なんて綺麗に笑うのだろう。血糊がはりついて覚束おぼつかない瞬きをした。彼は続ける。


『安心して、僕は君の味方だ。怖がらなくてもいい』


 安心などできるものか、助けた代わりに何かを求められるかもしれない。


 これまでだって周りの大人は自分をそんな風に扱ってきた。ただ助けてくれただけの筈がない。奥歯に力を込めて視線で彼に抵抗する。


 ――私に味方がいる訳がない。痛む手足で、必死に威嚇する。


『……君の事はよく知っている。南東区に暮らす父親、歓楽地で働く母親。君がどんな境遇で育ち、今日までどうやって生きてきたのか』


 エーデル司祭は落ち着いた声で言葉を紡ぐと、腰をかがめて碧色の瞳に自分の姿を映した。塵を被ったぼさぼさの髪、絶望に落ち窪んだ険しい両眼、虱だらけの汚いシャツで飾られた貧相な首筋。


 まるで対照的だ。花のようにきれいな彼の前にいる事が一層自分を惨めにする。


 逃げ出したい。これ以上、自分を辱めないでくれ。


 ……それなのに。それなのに、だ。


 エーデル司祭のまっすぐに見つめる瞳とやさしい風のような声に包まれて――その言葉が、たとえ嘘なのだとしても――心が、温かくてたまらない。


『君を救いたい』


 初めて、こんな気持ちになった。エーデル司祭は続けて、自分の名前を、口にした。それは自分の名前と思えぬくらい、優しい響きを持っていた。こんなにも想いのこもった呼び方があるなんて。


 感じた事のない耳の震えに、頭の中でなにかが混ざり出す。乾ききった絵具に一滴の水が注がれたように自分の感情を染め上げていた色彩がまた新たな別の色と混ざり合ってゆく。


 名前を呼ばれただけなのに。そう……ただ、自分の名前を。


 ――あ、う……。


 口が、動きそうになる。喉の奥から熱が湧き出て、気づく。


 自分は、何かを発したいのだ。


 それは一体何なのか……すでに自分で理解していた。


 彼の名前。エーデル司祭の名前を呼びたい。彼がくれたのは、温かな名前、そして自分という存在の輪郭なのだ。こんな気持ちにさせた人の名前を、自分の声で、言葉で、呼んでみたい。


 喋りたいなんて思ったのは、いつぶりだろうか。感情がうまく言葉にならない。かすれた喉から出るのは、赤子の声よりつたない呻き。


 その歯痒さに涙が零れそうになる。この形容しがたい感情を知ってか知らずか、エーデル司祭は微笑を浮かべて頷くと、手で虚空に三叉架をきった。


『ここに悪魔はもういない。君の魂は、そのロザリオで神の御許みもとへ買い戻しました。黄玉のロザリオが、君の生きるこれからを導いてくれるでしょう』


 エーデル司祭のくれる微笑みは、ほかの何とも違う。


 これが、愛、というものなのだろうか……?


 そんなの、あるのか?


 …………わからない。


 差し伸べられた手を振り払い、夕暮れの街へ駆け出した。


 他人の物を盗んだ。本来なら血の滲むまで殴られ、罵倒されてしかるべきこと。同じ事をして捕まった人がどんな目に合ったのか知っている。なのに彼は代償を請うこともなく、自分を許し、群衆の前で友人と呼んだ。それで彼が得るものは何だ?


 嫌われ者の盗人が友人という、汚辱にまみれた名誉だけ。


 ゆえに信じることが怖かった。誰にも向けられなかった表情を、誰にももらえなかった言葉を手渡してくれた人。その衝撃が自分の意志を追い越した。


 割れた舗道を裸足で走る。立ち止まって振り向くと、エーデル司祭は木漏れ日の中でこちらを見ていた。


 認めて良いのか、彼の事を。石のように世界を閉ざして生きてきた自分を救ってくれた。体中が痛むのは怪我のせいか?


 信じて良いのか、胸に兆した温もりの理由わけを?


 影の中へ逃げるように路地裏を目指して走った、走った。呼吸が乱れる。この気持ちはいったい何なのだ。許していいのか、自分に触れようとした彼の白い指先を。分からない。分からない。


 憎しみには憎しみで返した。それを否定する、新しい在り方があるのか。経験のない痛みが胸の奥で苛んでいる。この痛さを自分は知らない。答えは、この痛みの中に果たしてあるのか。


 彼のような光が地獄のような世界に存在しているとして、それを求める権利が自分にあるのか。


 未知なる感情の赴くままにさまよい歩き、はたと建物の谷間の夕空を見た。


 ……それでも、だ。乱れた心に分かる事が一つだけある。


『君は自由だ』


 あの人は、優しい人だ。



§§§


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