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昔は口がきけない子どもだった。喋れば両親に叩かれるから。
余計な主張をしてはいけない。言われた事だけしていれば良い。手を出されても、為されるままにさせてやる。苦しくたって、そのうち終わりはやって来るから。
家の中にいてはいけない。バラック小屋の狭い部屋は父親の城。あの男の言う事がこの城における法律なのだ。
疑問を持ってはいけない。何も与えられず、何処へも捨てられず。
いつも冷たい路地の軒下でうずくまり、
日陰で冷えたアスファルトは体力を奪う。足元に敷いた腐れたベニヤの黒い板が自分にとって唯一の領地だ。
「…………?」
鶏ガラのような膝を抱えて視線を虚空に傾ける。何かをまっすぐ見た事のない上目がちな三白眼は、動くものを敏感に捉える癖が癖がついていた。
(鳥か…………)
軒下の細い空から、渡り鳥の一群が風に乗って飛んでいくのが見えた。白い翼を大きく広げ、先頭に多くの仲間が続いていく。
彼らの姿にふと思う。あの鳥達はいったいどこへ行くのだろう。
これまで願った事はある。どこか遠くへ……街を囲む壁の向こうへ飛んでいけたら。知らない土地のどっか遠くで自分をやり直せる日が来れば。
鉄人形なんて怖くない、この家よりもずっと自由な――――
『起きろ×××、このグズが』
頬をぶたれて目が覚めた。振り抜かれたのは
父親がまた女を
(今日も違う女か……)
母親は近ごろ帰ってこない。夜の通りで若い男と歩いていたのを見たのが最後だ。まあ家に居たところで、店で溜めた不満の捌け口に使われるだけだし、どうでも良い。
父が砂をかけてくるので体を起こす。
『酒取ってこい。どの家からでも構わねえ』
おつかいの指示が出た。黙って膝を立てつつ父の顔を見上げてみた。表情を覆うように黒い
『睨みやがってクソガキが』
腹のあたりを蹴られたので急いでその場を駆け出した。
十歳にしては身体能力に恵まれていたと思う。腰が細いから人混みの中を縫って行けるし、屋根の上にも難なく上がれる。逃げる野良猫を先回りして獲物を奪った事だってある。
街中が縄張りだ。だから今回もいつも通りにすれば良いはずだった。
街の目抜き通りを少し潜った五十五番区の一角に、立派な館が建っていた。労働者が営むグレーな景観には、白い木造の二階建ては浮かんで見える。
今日はここにしよう。雨樋に足をかけてよじ登り、二階の窓を慣れた手つきで解錠すると音もたてずに忍び込む。
侵入したのはダイニングだった。戸棚を物色すると、上等そうな酒瓶を見つけた。
だがこれだけ持ち帰っても父親は「気が利かない」と自分を叩くだろう。銭になるもの。それが一番必要だった。
(お……)
知っている。この金属は
しばし食器の美しさに見惚れていると、奇妙な事に自身の行いに不安が兆した。工芸品とも呼べる細工の秀麗な姿。これを持ち出そうとする自分の薄汚れた指先。
まるで神聖なものを汚すような背徳感が急に降って湧いたのだ。
(ありえない。自分が、迷うなんて)
酒瓶と食器を袋につっこんで館を抜け出そうとした瞬間、外から喚き声がした。
『いたぞ×××だ! また盗みに入ってやがる!』
しまった。時間を食いすぎた。
たちまち群がってくる人々を背に、石畳へ裸足で飛び出す。食器が重い。全速力で走っても背後から追う怒号は増していくばかり。袋の中で食器同士のふれあう音が大きいせいで隠れる場所も探せない。まるで食器が自分の行いを悔い改めさせようとでもしているかのように。
『奴を捕まえろ!』
『絶対許すな!』
『ぶっ殺せ!』
子どもに言っているとは思えない罵倒が後ろに迫ってくる。
それもそうだ。この街で自分を知らない人はいない。これまでどれだけ街の人々から盗んできたか。街一番の盗人、それが自分だった。
世界のすべてが、自分の敵だ。
やがて袋小路に追い込まれた。抵抗する術もなく、無数の大人に棒で殴られ、視界は闇に包まれた。
……どれくらい経っただろうか。手足の痛みで目が覚めた。
しかし自由はない。縄で縛られている。ここはどこだ。ぼやける頭を巡らせる。足下は円盤状に敷かれた煉瓦……そうか、どうやら鐘楼前の広場に連れて来られたらしい。
衆人環視に晒すには、うってつけの場所である。自分が縛られている木柱を大勢が囲んでいた。意識を取り戻したのに気づいたのか、彼らは一斉に喚きだした。
どれも、怒りや侮蔑の滲んだ表情で何事かを吐きつける。
『この街の恥さらしが。さっさと死ね』
『お前が店の配管を壊して売ったな』
『ペットを肉屋に持ってくなんて』
『どれだけ罪を重ねたと思ってる』
言われた相手の顔を見れば、どれも自分が獲物にしてきた家屋の主たちである。
あぁそうさ。全部自分がやったんだ。さもないと、自分が親にやられるからね。
食うか、食われるか。それが世界の理だ。だから食われたお前たちが悪い。
物事に順番があるように、誰もがいつかは指を差される役になる。
そして今日は自分が食われる側に回った。それだけの事。
自分を怨む人々が居並ぶ様子を、呆然と眺める。
…………どいつもこいつも、感情をむき出しにして一生懸命に怒ってるね。
自分にそんな気力など、もうない。
『報いを受けろ、嫌われ者の×××め!』
ある者が石を放った。避けられずに額に当たる。生温かい感触が額に垂れた。
すると人々は次々に石やゴミ、砂なんかを投げつけてきた。
縛られた自分に逃げる場所などない。顔に、胸に、腹に、脚に痛みが襲う。
だけど、決して声は上げない。
何も考えないで、意識を遠くにやっておけば、いつか終わるんだ。
傷つくなんて、今さらなんだと言うんだ。
自分なんて存在しない。
そんな風に思ってしまえば、苦しくならずに済むんだから。
『聖堂から食器を盗むとは。くたばれ、
ある者が煉瓦を握りしめた時だった。
『――――その子は、私の友人です』
若い男の声がした。
その声に誰もが反応するとざわめきが一層大きくなる。人々の投石は止み、つつかれた蟻の群れみたいに道が開いた。霞んだ目で見やった先には、美しい青年が立っていた。
風に揺れる金糸の頭髪。長い睫毛が影を落とす涼やかな目元。黒い衣裳とストラを纏い、胸元で
『エーデル司祭様』
そう呼ばれた青年は返事の代わりに右手を差し出し、木柱に括りつけられた罪人の血のりにまみれた目元を拭った。
『ようやく会えた』
透きとおる碧眼の奥には水面のような静けさがある。
『急いで帰るものだから忘れ物をしていたよ。錫の食器よりも大事な贈り物なのに』
エーデル司祭はやわらかな言葉遣いで話し始めた。