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第2話 こんな危険な森の中に人間の少女がいるはずがないのだが

 昼間でも薄暗い森の中。

 何もなかったはずの虚空に、二つの影が突然現れた。

 一つは青白い肌とシルバーブロンドの髪を有した、長身の男。名前はポスカ。魔王の息子、つまり魔族の王子である。頭の左右一対の角は、高貴な魔族の証だ。

 もう一つは、亜麻色の髪の美女。ポスカ王子の侍女のエステルだ。やはり二本の角を頭に生やしているが、スーツにメガネという格好である。

「じめっとしたところですねぇ。目立たないように暮らしていくには良さそうですが、ここはどこなのですか」

 エステルは辺りを見回しながら尋ねた。

「辺境も辺境。地上の大陸の東の果てにある、名もない森の中だ。近くにはちっぽけな村が一つあるだけの、人間が放棄した土地だな。魔獣が住んでいるから、この森には決して誰も近づかない」

 ポスカはすらすらと答えた。

「ポスカ様がこんな場所をご存知だったとは意外です」

「まあ、こんなときのために、地上の調査には何度か来ているからな。さて、まずは住むところを確保する必要があるな。この森の中に家を作ろう」

「もう少し快適そうなところを選んでもいいと思うのですが」

「いや、人間が決して近づいてこない場所がいいんだ」

 と、どこからか、女性の悲鳴のような声が聞こえた。そう遠くなさそうだ。

「誰か近づいているようですよ」

「そんなはずはない。この森は魔獣の巣窟だぞ。村の人間は誰もここには入らない」

 もう一度、同じ女性の声が森に響いた。さっきより、はっきりと。

「聞こえましたよね?」

「今日は鳥がやかましいな」

「いや人間でしょ! 苦しいですよ」

「……そんなはずはない。この森は魔物の巣窟だぞ。村の人間は誰もここには入らない

「そのセリフさっき聞きました! ポスカ様、現実を受け止めてください!」

 怯えながら走る人間の女性の姿が、木立の向こうを横切っていった。

「誰か! 助けてっ!」

 ひどく取り乱し、慌てている様子だ。

 だがポスカとエステルは助けるでもなく、世間話のような調子で会話を続ける。

「残念ながらあれは人間ですねえ。見たところ、何かから逃げているようですが」

「当然、魔獣からだろう。だがあの人間、どうして森に入った? 理解できん」

「本人に聞いたらいかがでしょうか。もう行ってしまいましたが」

 遅れて狼のような生き物が四、五匹続けて視線の先を横切る。毛羽だった黒い体毛と、赤く輝く禍々しい目。魔獣だ。

 魔獣とは魔力によって凶暴化・強化された獣のことである。魔法使いや熟練の兵士でなければ対処することは難しい。

「ポスカ様、とりあえず優雅に紅茶を飲める場所を確保しましょう」

「そのつもりだったが、彼女を放っておくわけにもいかないだろう」

「いいえ、放っておきましょう。人間のオンナが一匹、イヌに食われたところで世界は何も変わりません」

 エステルはポスカに穏やかな微笑みを向けている。

 多くの魔族は人間が好きではないし、同じぐらい多くの人間も魔族が好きではないのだ。

「まあまあ、そんなこと言わずにだな……」

 ポスカは人間の女性と魔獣が消えていったほうへ右手を差し出し、手のひらを向けた。その手に魔力をほんの少しだけ込めながら、開いた手のひらを閉じる。すると、茂みの向こうから鈍い音がズドドドドッと響いた。

「よし、行くぞ」

「はい。ご命令なら」

 ポスカは手を下ろし歩き出す。その半歩後ろをエステルも続いた。

 木々の間を少し進んでいくと、先ほどの狼の魔獣たちが無惨な姿で死んでいた。槍のように細長く鋭い氷が、あらゆる方向から魔獣たちの身体を串刺しにしている。

 その向こうには、太い木の幹に寄りかかるような格好で、あの女性が立っていた。疲労や驚きや恐怖など、さまざまな感情が混ざり、痛ましい表情だった。

「今度は何……っ!?」

 人間の女性はひどく取り乱す。髪はボサボサで、靴も履いていない。

「安心してくれ、俺たちは敵じゃない。……大丈夫か?」

 ポスカは距離を取ったまま、慎重な声で尋ねた。

「もうイヤ……助けて……」

 女性は怯えている。目を閉じ、両手で耳を塞ぐように頭を抱え、震えている。

 ポスカは女性を刺激しないように、ゆっくりと近づいていく。

「ポスカ様、それ以上は」

 エステルが小声で指摘した。

「大丈夫だ。この人間は危険じゃない」

 エステルは若干不満そうに目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。

「ま、魔族……!?」

 女性はこれまで以上に恐怖で顔を引きつらせた。目尻から涙があふれ出す。

 ポスカは女性の視線が一瞬、自分の頭の角に注がれたことに気づいた。魔族と人間は歴史上、長く対立している。上位魔族の証である角は、人間に恐怖や嫌悪感を引き起こすのだ。次から人間に姿を見せるときは、せめて角を隠したほうが良さそうだと思った。

「ああ、魔族だ。だがそんな顔をしないでほしい。俺は古い価値観の魔族とは違って、人間に危害を加えるつもりはない」

「やめてっ! 来ないでっ!」

 女性は泣きながら叫んだ。

「危害を加えるつもりなら、ポスカ様はお前を助けたりしない」

 エステルが女性に向かって言った。

「さらに言えば、助けた後でイヤらしい行為や特殊な変態プレイをさせられるかも、キャー! ……なんていう考えも不毛です。このお方は魔界の王子。やろうと思えば毎日とっかえひっかえ美女を抱くことも可能なお立場。力づくで好みの人間の女を拉致・監禁・調教することだって可能な、強大なお力の持ち主。そんなポスカ様が、たまたま見かけただけのお前を慰みものにしたいと思う可能性など、限りなくゼロ、いいえ、天地がひっくり返ってもゼロだと、わたくし侍女のエステルが断言します」

 人間の女性は突然何を言われたのか理解が追いつかないらしく、しばし固まっていた。

 妙な空気をリセットするように、ポスカは女性に手を差し出す。

「まあ、そういうわけだから、そんなに怯えなくていい。ちなみに、毎日女を抱いてなどいないし、人間の女を調教したいとも思っていない」

 女性はまだ恐怖で震えていたが、少し理性を取り戻した様子だ。差し出されたポスカの――魔族の手をつかむかどうか、迷っている。

「あたしを、魔獣から助けてくれたんですか」

 女性が恐る恐る尋ねた。

「目障りな犬がいたから、駆除しただけだ」

 ポスカは女性が警戒心を解いてくれるよう祈りながら、苦笑した。

「そうだ、と安直に肯定しないところが、ポスカ様の慈悲深さと謙虚さを表わしているのです」

 エステルが言い添えた。

「エステルよ。俺のセリフに補足説明みたいなのを付けるの、やめてくれないか? 恥ずかしい」

「承知しました。以後、慎みます」

 エステルは一歩後ろに下がった。

 女性はやっとポスカの手をつかんだ。ポスカは手に力をこめ、女性を立ち上がらせた。

「……っ!」

 女性は痛みに顔をしかめ、バランスを崩す。ポスカはすかさず女性の肩に手を回し、抱きとめた。

「すっ、すみません!」

 女性は頬を赤らめた。

「かまわん。ケガをしているな?」

「ポスカ様に密着したくて演技をしたのでは? なんせ魔界の王子ですから、玉の輿(こし)を狙うビッチも多いかと」

「いや、確かに足にケガをしているようだ」

 見ると、足がボロボロで、爪が剥がれて血がにじんでいた。生きるために必死で森の中を走ってきたのだろう。

 ポスカは手のひらを女性の足に向けた。

 ケガをした箇所が、かすかな青い光に包まれたかと思うと、剥がれた爪が綺麗に元通りになり、傷も消えていた。さらにその不思議な光は女性の全身を包み込む。するとボサボサだった髪がクシを通したように真っ直ぐになり、身体についていた泥もきれいになくなった。色褪せてやぶれた服まで新品のようになった。

 ボロ雑巾のようだった女性は、あっという間に身綺麗な村娘の姿を取り戻した。淡い金色の髪と、ぱっちりとした釣り目。人懐っこい猫のような印象の少女だ。

「なにこれすごい……!」

「大したことじゃない」

「大したことじゃないですよ」

「なぜエステルが言う……?」

「ポスカ様の本当の力は、こんなものじゃないんだからね! という主張を込めました」

「そうか、じゃあ、ありがとうと言えばいいのだな」

「礼には及びません。侍女として当然のことをしたまでです」

「あの……」

 ポスカとエステルの会話に置いていかれ気味の少女が、勇気を出して呼びかけた。

「あたし、サラって言います。ありがとうございました。助けてくれた上に治療まで。それに髪も肌もすっごい調子がいい……! あたし、生まれ変わったみたい!」

「本当に大したことじゃないんだが、喜んでくれたようで何よりだ。ところで、君は近くの村の人間か? この森が危険だと知っていながら、どうして入ったんだ?」

 見た目からして冒険者ではない。とすれば十中八九、村の住民に決まっている。

「それは……」

 サラは口淀んだ。何かわけがあるようだ。

 ポスカは無理に聞き出そうとは思わなかった。

「森の入り口まで連れていく。村へは自分で戻れるな?」

 サラは何も答えない。その代わり、ややあって、重い口を開けた。

「あたし、村へはもう戻れません」

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