魔王城の王の間から怒鳴り声が聞こえてくるのは、珍しいことではない。
「息子よ、お前の強大な魔力で、今日こそ地上から人間どもを滅ぼしてくるのだ」
ひときわ高くなった壇上の王座から、しわがれた大声を放ったのは魔王である。年齢は300歳以上。魔界で絶対的な権力を持ち続ける老王だ。
逆に、遥かな高みから見下ろされ、命令を受けたのは、魔王の息子だ。見た目は人間で言えば30歳ほどで、大人の落ち着きと青年のような若々しさを備えている。だが、人間と違って肌は青白く、シルバーブロンドの髪からは左右一対のツノが突き出している。
魔王の息子は次のように答えた。
「お断りです。そんな無駄なこと」
絶対的権力者の魔王の命令を断れる者なんて、魔界広しと言えど、彼くらいだ。魔王からすれば、生意気な息子を城から追放したいところだが、それはできなかった。なぜなら、彼が特別な才能を持っていたからである。
魔王はシワだらけの顔を真っ赤にして、血走った目玉が飛び出すほど両目を見開き、玉座のひじ置きにこぶしを振り下ろした。
「なぜだ!? なぜお前は人間どもを滅ぼす必要性を理解できんのだ! お前ほどの力があれば、人間を地上から跡形もなく抹消できるであろうに!」
「なんとバカバカしい」魔王の息子はうんざりした様子で長いため息をついた。「父上こそ、いつになったらそれが時代遅れの妄言であると理解できるのです?」
「ワ、ワシの命令が時代遅れの妄言だと!? 何も分かっていないくせに、生意気なことを言うな! ……うっ、ゲホッ、ゲホッ……ウググ……」
激昂した魔王は苦しそうに咳き込み、腕で口を覆った。咳はすぐに止まったが、さっきまでの勢いが弱まり、迫力がなくなっていた。
「息子よ……、一日も早く地上へ降り、魔族がこの世界で最も優れた種族であると示してこい。ワシが生きているうちに……」
王子はそんな魔王の少々哀れな姿を見ても、冷静そのものだ。
「いいですか? この際、父上が生きているうちにはっきりと言いますが、この魔王城で人間を滅ぼすべきだと考えているのは、父上ただ一人ですよ。100年以上前は、確かに他の種族を滅ぼすことで、自分たちの優位性を示そうとしていた種族は、魔族だけではなかった。しかし現代では、種が繁栄することイコール優れた種族だとは言えないのですよ。種族に優劣なんてものはないのです。魔族も、人間族も、エルフ族も、獣人族も、みな等しい」
「寝ぼけたことを言うなバカ者がッ!!」
魔王は再び声を荒げた。
「常識的に考えて、他の種族を滅ぼして最も繁栄した種族が、最も優れた種族に決まっているだろうが! そんな簡単な論理も理解せず、いったいお前は今まで何を学んできたのだ! ……うっゲホッゲホッ……!」
王子はあきれたように再びため息を漏らし、
「俺が学んだのは、父上の信じる魔族至上主義が、くだらない幼稚な思想だということですよ」
「お前のような青二才にワシの崇高な思想の何が分かるというのだ! いいか? お前は経験が足りない! 常識も知識も判断力も何もかも足りていない! だからワシの言うことがッゲホッゲホッウググ……理解できッゲホッ、ウッ……ググ……」
興奮しすぎて咳き込む魔王を見て、王子はさっきよりも深いため息を吐く。いつもこうやって堂々巡りなのだ。王子が何を言っても無駄であり、魔王は自分が正しいと信じ切っている。周囲の誰がなんと言おうと、それは変わらなかった。もう20年もそんな調子だ。しかも病にかかり余命宣告されてからは、魔族至上主義的な思想がいっそう強くなってしまった。
「とにかく人間を滅ぼせ。お前にはその力……才能があるはずだ。お前は我が一族で最強の魔力を持って生まれた傑作なのだぞ。その意味を……考えろ」
もうこの老王と何度口喧嘩をしただろう……?
王子は虚しさと疲労を抱えて王の間を出た。
扉の前でもう一度、何度目か分からぬ深いため息がこぼれた。もう父は変わらないだろう。誰がなんと言っても……。
「ポスカ様、どうかなさいましたか」
魔界の王子――ポスカに声をかけてきたのは、侍女のエステルだった。
クールビューティーという言葉の似合う女性だ。スーツにメガネという格好は魔族の中ではかなり奇抜なのだが、本人は気に入っているらしく、「仕事を頑張ろうという気持ちが湧いてくる」のだそうだ。ちょっと太めの眉の下、メガネの向こうからのぞいてくる瞳は、いかにも真面目そうな印象である。
「いや、気にしないでくれ。いつものことだ」
ポスカは肩をすくめてみせた。
「また魔王様とお戯(たわむ)れを?」
エステルはニヤリと口端を1センチだけあげて、真面目な顔を崩した。現魔王と次期魔王たる息子の親子喧嘩と言えば、近年、魔王城でのちょっとした風物詩となっている。
「俺が始めたわけじゃないぞ。俺は平和主義者だ、知っているだろう? オヤジのやつ、俺の顔を見れば一にも二にも『人間を滅ぼせ』『人間を抹殺しろ』だ。いい加減、うんざりする」
「魔王様は、ほんの少々頭がお堅いですからねぇ」
エステルは「ほんの少々」のところを強調して言った。
「まったくだ。以前のような聡明さは欠片も残っていない。まるで別人だ」
「何者も年齢には勝てないということでしょう」
「まあ、医者の見立てでは、あと五年も生きないらしいから、もう少しの辛抱なんだがな」
「魔族史上最強と名高いポスカ様が魔族の王位をお継ぎになった暁には、哀れなのでわたくしのお給料も少々あげていただけますと幸いでございます」
「やめてくれ、そのしゃべり方。まるで侍女みたいだ」
「侍女で申し訳ございませんねぇ」
二人は軽口をたたき合って笑った。
エステルはポスカと同じ生まれ年で、侍女と王子という立場ではあるが、兄妹のように育った。だから気心が知れている。
「父には本当にうんざりしている。人間を滅ぼしたところで魔族になんのメリットもない。むしろ逆だ。人間や他の種族と共生してこそ、魔族の繫栄がある」
「多くの魔族もそう思っていることでしょう」
「どうしてあの老いぼれ石頭はそれが分からないんだ。考えただけでイライラする。なんとかならないものか……」
「顔を合わせなければいいのでは?」
「そうは言っても……いや待てよ? そうだ、それだ!」ポスカの顔にパッと光が差した。「父から離れていればいいのだ。俺は『地上に降りて人間を滅ぼせ』と命令されている。だったらその通りに地上へ降りればいいんだ」
「で、人間と一戦交えるのですか?」
「そんなわけなかろう。人間と戦っているが手こずっていることにして、実際は地上の片隅で目立たないように暮らす」
「魔界には嘘の報告をする、と」
「どうせあの老いぼれは5年以内にいなくなるんだ。それまでの間、誤魔化せればいい」
「腐敗してますねぇ」
エステルは他人事のように感想を述べた。
「とはいえ、ただ辺境でじっとしているわけではなく……そうだな……王位を継いだあとのために、地上に足がかりを作っておく。そうだ、それがいい。完璧な計画だ」
「完璧な計画に物申してすみませんが、地上では何が起こるか分かりません。ポスカ様にその気がなくても、勇者のほうから襲ってこないとも限らない。危険です」
「勇者くらいどうってことない」
「いいえ、ポスカ様。人間をあなどってはいけないと思います。お一人で地上で暮らすなど――」
「心配なら、エステルも護衛として一緒に来ればいい。そうだ、いい案だな!」
「は?」エステルの額にしわが寄った。「聞き間違いでしょうかね? 王子がトチ狂ったことを抜かしていたような気がするのですが」
「聞き違いじゃないぞ。エステルほど腕の立つ者がいれば安全だ。それに嘘の報告書を作るぐらい、簡単だろ? 今こそ俺には優秀な侍女が必要なんだ」
ポスカはエステルの肩にぽんと手を置いた。エステルはその手を汚いものを見るような目でにらんだ。
「わたくしは護衛も事務もこなせる優劣な侍女ですからその程度のこと朝飯前ですけど、こういうときだけ侍女扱いするのズルくないですか?」
「よし決まりだ! ポンコツ魔王が死ぬまで一緒に地上に住むぞ」
「まだ協力するなんてひと言も言ってないのですが……」
「そうなのか? エステルはいつだって俺の期待に応えてくれただろう? いや、常に期待以上の働きをしてくれた」
「優秀ですからね」
「エステルが来ないなら俺は一人で行くぞ。寂しい旅になるだろうな」
「でしょうね。お可哀そうに。骨は気が向いたら拾っておきますね」
「勝手に主人を殺さないでもらえるか? だが、あまりの寂しさで精神を病んでしまうかもしれないな」
「では向精神薬を5年分手配しておきます」
「いらん。なぜなら君こそが俺の向精神薬だ」
「誉め言葉として受け取っておきますが、これっぽっちも嬉しくはないですね」
「くっ……そんな気はしていたぞ。ならば最終手段だ!」
王子はいきなり飛び跳ねたかと思うと、エステルのほうを向いて大理石の床に四つん這いに着地し、頭を下げた。
「頼む! エステルがいてくれたら何かと楽ができるような気がするんだ!」
「実に惜しいですね。行動にはグッと来たのですが、セリフがカス野郎でした」
冷たい床に額を付けたままの王子。
それを冷たい視線で見下ろしている侍女。
時間だけが静かに流れる――。
そして、どちらからともなく、くつくつと小さな笑いがこぼれ始めた。
おもむろに立ち上がったポスカの額には、岩の模様の跡がついている。
エステルはそれを見てやれやれという様子で、
「分かりましたよ。不正だろうが護衛だろうが、何だろうがやりますよ。ポスカ様が責任取ってくれるなら」
「もちろん、すべての責任は俺が取る」
「バレたら私、ポスカ様に脅迫されて無理やりやらされたって言いますから」
「ああ、それでいい」
「それにしても今のシーン、やりすぎでは? 誰かに見られたらどうするおつもりで?」
「これといって考えはないが、例えば俺とエステルの人格が入れ替わっていたことにしておけばいいんじゃないか?」
「それはまた別の問題が生じるような気がしますが……あえてこれ以上考えるのはやめておきます」
「そうか。じゃあ、もう魔界に未練はないな?」
「なぜそうなるのです?」
ポスカは答えず、代わりに不敵な笑みを浮かべ、宣言する。
「さっそくともに地上に降りるとしようか、我が侍女エステルよ」