初陣の話は、これ以上は混乱しかねないので、また追って別の日に説明をするとノーマンに告げられ、ひとまず初めての絆を結ぶツガイの儀式は無事に終了した。
それから、円卓の騎士たちに別れを告げ、儀式の間から解放されたあと、レイラは迎えにきた侍女アビーに案内されて部屋に戻り、食堂の間で空腹を満たした。
空腹というよりも、まるで献血したあとみたいにくったりしていて喉の渇きの方が強かったかもしれない。今も尚、全身に倦怠感が残っている。
その後、就寝前の習慣通りに湯あみをしてもらい、今度は薄手のナイトドレスに着替えた。ナイトドレスは品のよいネグリジェのような作りで、上に羽織るものがあれば、部屋の外へも行き来できるかもしれない。けれど、好奇心の塊だったはずのレイラもさすがにどこかへ行く気力はわかなかった。
(ここは現実……まぎれもなく、自分が存在し、経験している、生きた世界なのよね)
目まぐるしく変わってしまった自分の環境をレイラは振り返る。
王族や貴族はただ煌びやかな世界に身を置いているわけではない。騎士たちは命を賭して戦場を駆けていく。ただ見目麗しいだけの存在ではなかった。乙女ゲームのプレイヤーとして自己投影するにしても傍観者として眺めるにしても、非現実だからこそ楽しめたものだったのだ。どこか他人事で客観視して乙女ゲームの世界が傍にあることを感じられる喜びを得ていた自分。だけど今は――。
(お役目を……私は、受け入れてしまった)
拒むこともできたはずなのに、拒めなかった。これは【運命】だと思うしかないのだろうか。
鬱屈した気分を払いたくて、少し外の空気を感じたくなったレイラは、窓をそっと開いた。乾いた秋の空気が肌を刺すようにぴりっとした。前世の故郷でも嗅いだことのある金木犀の香りがどこからか漂ってきて、郷愁の想いに駆られる。
ずっと遠くに王都が見えた。レイラが転生してからずっと暮らしていたメイスン伯爵の邸はさらにその奥。星砂のような小さな光の中のどこかに存在している。
レイラはしばし街の光をぼんやりと眺めた。
時々、そよ風がレイラの髪をすくうようにさらっていく。
(……綺麗。けれど、屋根裏部屋から見える景色とはまた全然違うわ)
ふと、夜空を見上げてみる。王宮と王都の光が明るすぎるせいか、星々の姿はあまり見えない。秋の澄んだ空気に冴えた色を放つ月だけが、ひっそりと姿を見せている。
満ちた月が藍色の空を照らしているのを眺めながら、頭の中に思い浮かぶのは、アシュリーの笑顔だった。彼はこれからずっとレイラの側についてくれ、騎士として守ってくれる、そんなふうに誓ってくれた。
アシュリーを想うと、心強さを感じると共に、むしょうに彼を恋しいと感じてしまう。
(アシュリー、あなたの顔が見たい。会いたい……)
さっきまで一緒にいたのに。
これも絆が結ばれたツガイの儀式の副反応あるいは副作用的なものなのだろうか。
喉の渇きは癒えたが、昂った感情は尚も渦巻いて、やがて大きな波のようにうねり、漣のように幾度となく押し寄せてくるのを感じる。その場にいるのが落ち着かなくなってきてしまった。
レイラは窓を閉め、部屋に戻ったあと、ベッドを一瞥する。すっかり目が覚めてしまって眠れる気がしない。
それなら……。
(少しくらいいいわよね? きっと部屋に出たら……理由を聞かれるだろうし)
右往左往し、どうしていいかわからなくなったレイラは部屋をこっそりと抜け出た。
すると、うとうととしかけていた衛兵がしゃきっと背を伸ばした。
「こ、これは聖女様、失礼しました。いかがなさいましたか? 侍女を呼びましょうか」
レイラはひとまず首を横に振った。
「いえ。アビーも寝る時間でしょう。起こしたら悪いもの。実は、ちょっと……行きたいところがあるの」
「では、私がお連れいたしますよ。どちらへ?」
「私の騎士……アシュリーに会ったらダメかしら? 話がしたいの。この時間、図書館にいるんじゃないかしらと思って」
きっとこういえばダメとは言われないだろうと、レイラは確信を持っていた。思ったとおりに近衛兵は頷いた。
「なるほど。アシュリー様ならばこの時間たしかにいらっしゃるはずですね。では、さっそく図書館の方へご案内いたしましょう」
「ありがとう」
それから近衛兵についていき、図書館へとたどりつくと、館内からは光が零れていた。
館内のドアを開いてひょっこり顔を出してみれば、思っていたとおり、アシュリーが隅の方の席で読書をしていた。その姿を見たら、ようやくホッとできた気がした。
レイラの存在に気付いたアシュリーが顔を上げて驚いた表情をする。不意にレイラは彼の手を見たが、あの刻印は見当たらない、それはレイラも同じだ。だが、絆はしっかりと結ばれているような感覚が、きちんと伝わってくる。
しかしその絆はあの儀式を済ませたとしてもまだ脆いような気配があった。魔法使いではないレイラにはうまく説明はできないのだけれど。これが聖女としての力の目覚めでもあるのかもしれない、と無意識に感じとっていた。
近衛兵はアシュリーに任せるつもりで空気を読んだらしく、すぐにその場を辞した。
「聖女様、どうなさいましたか?」
聖女様、とアシュリーに呼ばれるのはやはり寂しく感じた。
レイラは思わず拗ねた顔をしてしまう。
「アシュリー、あなたにだけは、二人きりのときにはレイラって名前を呼んでほしいわ」
面食らったような顔をしたアシュリーだが、すぐにその表情を和らげた。
「……承知いたしました。では、レイラ様、よろしければ隣にどうぞ」
アシュリーはレイラのいうことを拒まない。それもそれでまた寂しい。彼を言いなりにしたいわけではなくて、親しみを抱いてほしいだけだった。けれど、子どものような我儘で彼を困らせるのは本意ではない。
ちょこんとアシュリーの隣に腰掛けると、彼は思案するような表情を浮かべた。
「もしや、眠れなかったのでしょうか?」