「えっと、林檎を五つと牛乳と蜂蜜を一瓶ずつと……」
秋晴れの青空の下、アップルパイの材料である買い物のメモに目を通しつつ、広場の裏通りへと行くと、松葉色のローブをまとい、フードを目深に被った謎の占い師とばったり出会った。
「もし、お嬢さん」
声をかけてきた占い師の正体は老婆かと思いきや、意外にも若い男の声だった。
「ごめんなさい。占いだったら結構よ。私、あんまりそういうのを信じていないの」
レイラ・メイスンは顔も見ずに断りを入れて立ち去ろうとしたのだが、なぜかいきなり足が根っこのように張って動けなくなった。ため息をついて振り返ると、占い師はわざとらしく声を上げた。
「お代は不要ですから、どうか聞いてください。視えてしまったからにはお伝えしなければなりません」
「はぁ。これから何か悪いことが起こるとか?」
それで高い壷でも買わせる作戦ではないのだろうか。
ローブの中にちらりと見えた蛇のようにうねった金色の髪と、ギラついた彼の琥珀色の瞳を疑う。
(あれ? この人……誰かに似ているような?)
ふと、既視感を抱いたような錯覚を覚えたものの、とにかく今は占い師に構っている場合ではない。
「ごめんなさい、先を急ぐわ。占いでどうにかできる程、人生甘くないことなんてもうとっくに知ってるの。それじゃあさよなら」
素気無く踵を返そうとしたとき、彼はすれ違いざまに耳の側で囁いた。
「確かに、あなたにはきっと苦難が待ち受けていましょう。ですが、同時に心強い幸運を味方にすることができるでしょう」
「幸運ならよかった。お気遣いありがとう」
占い師と目を合わせることなく、レイラはにこりと笑顔だけを向けた。
「…………」
占い師が何も言わないのが少しだけ不気味に思って振り返ると、占い師の姿は忽然といなくなっていた。
「消えた……」
レイラは思わずまわりを見渡した。どこにももう彼の姿はなかった。
王都の比較的中心地に近いこの街にはたくさんの人が溢れている。それも昼時だ。家族や恋人たちが連れ添って歩く姿、子どもたちがはしゃいでいる姿、行商人たちが練り歩く様子。兵士たちが休憩で訪れた店に出入りして談笑している姿なども見られる。
だが、今の今、すぐに紛れられるほどの人の多さではなかったはずだ。
なんだかすっきりしないような、狐につままれたような気分だったが、しかたなしにレイラは前を向く。
(不思議なことが多くある、異世界……だものね)
ここは、魔法と剣が力を持つ世界だ。魔力や魔法や魔術といったものが存在している。実際に、医療には医療魔法や医療魔術といったものも取り入れられているし、簡単な治癒魔法を使える人間も街の中には存在している。だから、ちょっと不思議なことくらいなら何も驚くことはなかった。
(私だって最初は信じられなかったけど)
かくいうメイスン伯爵の一人娘レイラ・メイスンが、この不思議な世界が、自分の前世でプレイしたことのある乙女ゲーム『ローズリングの誓約と騎士姫』とまるっきり同じであることに気付いたのは、今からちょうど一年ほど前――。
国王ヴィンセント・ノワール・ラピスが治めるラピス王国が秋の豊穣祭の時期、そしてレイラが十八歳の誕生日を迎えたある日のことだった。
レイラがひとり屋根裏部屋で大好きな読書をしている最中に街の郊外にある森に落雷があった。そのとき、なぜかレイラの脳内に不思議な閃きが走った。
『この先の展開は乙女ゲームだったらこうなるはず……』などと思い至ったのだ。どうしてそんなふうに考えたのか混乱した末に、レイラはそれこそ雷に打たれたかのように、乙女ゲームを楽しんでいた前世の記憶を取り戻したのだった。
直後は、まるで霧が晴れたような気分だったが、その代わり、喪失した記憶が怒涛の勢いで流れ込んできて、しばらく情報を整理するのに四苦八苦したものだ。そうこうしているうちに一年の月日が経過し、ようやく前世と今世の自分を客観視することができた。
前世の名前は、長月未久。趣味は休日に乙女ゲームをプレイすること。享年二十三歳。死因はその乙女ゲーム絡み。楽しみにしていた『ローズリングの誓約と騎士姫』のファンディスク通称FD『ローズリングの誓約と騎士姫~トワイライト~』のソフトを、予約していたホビーショップで受取った帰りに事故に遭って死んだ。
そして何の因果か、目覚めたら大好きだった乙女ゲームの世界にいた。夢とは違うのは色々と体験して証明済みだ。確実に乙女ゲームの世界に今は生きている……らしい。つまり、未久はレイラとして異世界に転生していたということ。
前世の記憶を取り戻したときは、途端にそれまで普通に馴染んでいた異世界が急に遠ざかったような気がした。それもそのはず。本来なら前世の記憶がないのが普通だ。諸説あるが、この世に産声を上げたときに、前世の記憶は失われるのだということを聞いたことがある。そうして酸いも甘いも経験した人の記憶はリセットされ、新しい人間として一から生きていくのが自然の摂理というもの。
その理を捻じ曲げた反動からか、前世の記憶を持っていることに気付いた途端、前世と今世の自分に分離されるような怖さを感じたものだ。しかしそれは杞憂だった。自分の中に蓄積された記憶というデータに何か不具合が発生するわけでもなく、例えるならまるでソフトウエアが自動でアップロードされるみたいに前世と今世の自我が齟齬なくリンクされた感覚があった。
そうして、前世で知っていた王都や王宮や街の名前、変わった食べ物の名前、魔法や剣を持つ騎士がこの異世界に存在することなど、すべてが前世でプレイした乙女ゲームの世界のものと一致していたことを改めて受け入れていたのだった。
(死んだあと、乙女ゲームの世界に転生していた。だなんて、前世の私が事前に知ることができていたら絶対に喜ぶわよね。前世の私というか今だって【私】は【私】だ。別の人格や別人というわけではなく、容姿以外は、まるっきり同一人物だけれど……)
と、たまにバグのような思考に陥ることはある。前世の言葉遣いが急に出てきたり、今世で馴染んでいた習慣に急に違和感を覚えたりといったところだが、それも微々たる部分なので不都合はない。
それよりも重要なことといえば、ヒロインと攻略対象のことだった。