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第六話

 四日目の朝――。

 中身が残っていたゼリー飲料の容器を踏んでしまい、床に飛び散った中身の掃除に時間を取られたせいで、ギリギリに講堂へ駆け込むことになった。

 なんとか間に合って息を切らせながらいつもの席に座ろうと思ったが、グイッと腕を引かれた。突然のことで驚いて顔を上げた。

「こっちだ」

「え?」

 拓野だった。

 絶対に離さない、というほど強い力だった。抵抗する間も無い。目を白黒させていると、より講師に近い席に座らされた。当然のように隣に拓野が座る。一体、なにごとだろう。

「あの……、なにかあったんですか?」

 困惑顔のまま小声で尋ねると、拓野はコホンとわざとらしい咳払いをした。

「いや、ちょっと……」

「ちょっと?」

「お前の隣じゃないと講義に集中できなくて」

「?」

 キョトンとした顔になったものの、直ぐに理解できた。取り巻きの女性から逃げるために最前列を選び、隣を光葉で埋めたのだ。効果は覿面。女性達は刺さるような視線を向けてきているものの、近付いて来ない。

「迷惑か?」

「いえ、そんなことないです」

「よかった。今日はまともに講義が受けられる」

 昨日も一昨日も酷かった、と溜め息を吐く拓野の横顔は、どことなくやつれているように見えた。

(羨ましがられるような状況だったのに。僕の隣の方がいい?)

 普通はキラキラ女子の方がいいだろう、と心の中で突っ込みながらも、選ばれるのは悪い気はしない。本当に真面目なんだなぁ、なんて思いながら壇上の講師に目を向けた。

 四日目の研修は座学だった。タブレットに配信される資料を見ながら講師の説明を聞き、テーマ毎に設けられた小テストに回答した。最後にレポート課題が出されたが特に難しいものではなく、四十五分のワークタイムで済ませられそうだった。

「簡単に終わりそう」

 オフを充分楽しめそうで嬉しくなりながら課題にとりかかった。講師が不在で、皆が賑やかに話すのをよそに、講義内容をメモしたノートをパラパラとめくる。そうしながら新しいページにペンを走らせていると、近付いて来る気配に気付いた。

「あのぉ、須田さ~ん」

 甘えたような媚びる声が聞こえた。例の二人組だ。

(また来た!)

 一瞬、体が強ばった。今度は何の用だろう。もう、同じ轍は踏みたくない。心を強く持ちたくて女性の目を正面から見た。

「はい?」

「えっと、あの、この前のレポートなんだけどぉ」

 なんとも歯切れが悪い。言葉の続きを待ちながら首を傾げていると、痺れを切らした彼の方が割り込んで来た。

「なんだよ、お前のあのレポート! 酷い内容だったじゃないか」

 勝手にレポートを盗んでおいて何を言い出すのだろう。呆れながら彼を見上げ、再度首を傾げた。

「なにかありましたか?」

「実はぁ、私達のところにぃ、なんかぁ『もっと丁寧に書け』みたいな内容のメールがぁ講師からぁ」

「理論がどうとか意見や考えを書けってメールが来たんだよ!」

 どんな内容で出したのか分からないがレポートを突き返されたらしい。

(そりゃそうだよ)

 人のレポートを内容も理解せずに提出したのなら当然だろう。「ざまぁみろ!」と笑ってやりたいところだが、下手に揉めて貴重なオフ時間を失いたくない。柔らかい笑顔で「そうだったんですね」と答え、優しく言葉を続けた。

「あれは下書きでしたから内容が足りていなかったと思います。幾つか参考になるサイトを教えますね」

「良かったぁ!」

「助かった!」

 心底ホッとした、というような言葉を口にしながらも、二人の口元はニヤリと歪んでいた。良からぬことを企んでいるのが丸分かりだ。

「それでぇ~、実は今日のも、ちょっと見せてもらいたくてぇ」

 女性がまた、拝むような仕草を見せた。

(やっぱり!)

 一瞬、怒りに似た感情が腹から沸き立ったが、グッと我慢してやんわりと断りの台詞を口にした。

「すみません。今日は内容が全然まとまっていなくて書けていないんです」

「え?」

「今、要点をノートに整理しているところなんですよね」

 タブレットの方へ伸びていた男の腕が止まった。申し訳ない、と微笑んで見せると男の表情がだらしないものになった。そりゃそうだ。元モデルの母直伝の営業スマイルに秘書検定一級の威力を上乗せしたら、大抵の男は鼻の下が伸びるものだ。

 そんな男の顔に苛立ったらしい彼女の方が乱暴に手を伸ばしてきた。

「じゃぁ、ノート写させて!」

「え?」

「講義の内容がよく分かんなくて困ってたの!」

 本当に手が早い人達だ。今日は彼女の方が光葉のノートを取り上げ、バシャバシャと撮影し始めた。

 しかし――。

「え、やだ、ちょっと! なによ、これ!」

「はぁ? なんだ、これ」

 二人は揃って素っ頓狂な声を上げ、ノートを放り投げた。

「なにがまとめよ! 信じられない!」

 バサッと机に落ちたノートには、文字ではなくミミズが這ったような線がたくさん書かれていた。全てのページが、長短様々な線で埋め尽くされている。

「嫌がらせかよ!」

 軽蔑する、と厳しい視線を送ってくる二人に、どんな言葉を返そうか迷っていると別の腕が伸びてきた。拓野の腕だった。

「へぇ! 珍しいな」

 拓野は口角を吊り上げる笑みを浮かべていた。

 パラパラとめくりながら何度も頷いている拓野に向かって彼女が突然、甘ったるい声を出した。

「ねぇねぇ、拓野さ~ん。ひどい落書きだと思わない?」

「まとめてる、なんて嘘吐いて嫌がらせしてくるんだぞ、こいつ」

 男も便乗し、二人揃って拓野に擦り寄っていくではないか。なんとか拓野を味方に引き込み、光葉を責める作戦なのだろう。だが、拓野は二人を完璧に無視して万年筆を握った。

「あぁ、ココは多分、こうだ」

 シュッとペン先が踊った。滑らかに動いたペン先が線と点を描いていく。

「え?」

 予想外の出来事に驚いて身を乗り出してしまった。

「分かるの?」

「もちろん」

 自信たっぷりに頷く拓野が示した箇所に視線を落とす。

「本当だ。間違ってますね」

「あと、こっち、写させてもらえないか? 聞き逃したんだ」

「えぇ。どうぞ」

 光葉のノートを参考に、拓野のペンが紙の上を走る。ペン先から伸びた鮮やかな青いインクがスゥッと落ち着きのある黒に変わる様子が美しくて、思わず見とれてしまった。

「とてもきれいな線です」

「そうか?」

「それに字がとても読みやすい」

「誉められたのは初めてだな」

「僕も『速記』を誉めるのは初めてです。あぁ、万年筆っていいですね」

「だろう? 俺、この色、好きなんだ」

 拓野と笑い合っていると、取り残されていた二人が混乱した様子で声を上げた。

「なによ、なによ!」

「な、なんなんだ、これ?」

 どこからどう見ても、糸くずがたくさん散らばっているようにしか見えないノートなのに、会話が成り立っているのが理解できなかったのだろう。

「なにって『速記』だ。人が喋るスピードで文章を書ける文字。便利だぞ。知らないのか?」

 落書き、と嘲笑った二人に向かって拓野が淡々と返す。レポートもノートも手に入れられなかった二人は、ただ口をパクパクさせて立ち尽くす以外、なにもできなかった。

「そうだ! 参考になるサイトですよね」

 忘れていました! と謝りながら複数のサイトのURLをテキストファイルに記すと、近くの人達とファイルをシェアできるアプリを起動した。

「ボリュームがあるので時間があるときに読んでくださいね」

 母直伝営業スマイルを炸裂させると、二人はジリジリッと後退した。自分達のタブレットを確認しながら、なにか言いたそうな身振り手振りを見せた後、なにも言わずに講堂を出て行った。せめてもの抵抗というような鋭い視線が虚しかった。

 その約十秒後――。

「なによ! コレぇッ!」

 廊下の方から絶叫が聞こえた。思わず、ムフッ! と笑いが漏れてしまう。

「なにを教えたんだ?」

「昨日のレポートの参考にしたドイツ人経済学者のサイトをいくつか」

「それって、もしかして……」

「えぇ。ドイツ語です」

「ハハハハハッ!」

 拓野が清々しい笑い声を上げた。

「あの、ちょっと仕返ししたくて」

 成果物を盗む行為がどうしても許せず、ちょっとした意地悪をしたのだった。

「でも、参考になるサイトなんです! けど……、大人げなかったかな……」

 仕返ししたものの、なんとなく悪者になったような気分になってしまう。

「いや、いいと思うぞ。今は自動翻訳機能だってあるし、そもそも人の褌で相撲は取れん」

「褌って……、女性でしたけど?」

 クスッと笑いを漏らしながら拓野の目を見た。

「あぁ、そうだったな。それにしても、このノート、凄く分かりやすい。まとめるのが上手いな」

「誉めてもらえて嬉しいです。でも、読み書きできる人は初めてですよ」

「あぁ、伯祖父が速記で議事録作っていたからな」

「そうでしたか! 僕は祖父が仕事で使っていました。小学生の時に遊び半分で教えて貰ったんですよ」

「便利だよな。人に覗き見されても、内容ばれないし」

「確かに!」

 バレて困る内容って? と思ったが、突っ込むことはせずノートに目を戻した。

(拓野さんって、意外に良い人?)

 初日に突然、眉間を撫でられたり、今朝も強引に腕を引かれて座席を決められたりして、なんとなく距離の取り方が掴めない人だと思っていた。

(でも……、真面目で速記もできるなんて)

 嬉しくなりながら一緒に講義内容を振り返り、課題に取り組んだ。テーマについてお互いの意見を言い合い、キーワードを速記で記しながらレポートの内容を考えていく。手や頭が触れそうなくらい近い距離で話していると、ワークタイムはあっという間に過ぎた。

「勉強になった。また教えて欲しい」

「いえ、こちらこそ。理解が深まりました」

 充実した時間を過ごせて久し振りに知的な満足感が得られた。営業スマイルではなく、心からの笑顔を拓野に向けると、彼は照れたように視線を外した。少しの間、視線を泳がせたり頭の後ろを掻いたりした後、拓野が遠慮がちに言った。

「そうだ。しゅだ……」

「しゅだ?」

 聞き返したものの、拓野が噛んだのだと気付いた。思わずフフッと笑ってしまう。

「呼びづらいって時々言われます。光葉でいいですよ」

「ハハハ。俺も隆司でいい」

 恥ずかしそうに笑った隆司がスッと真面目な顔になった。あまりに真っ直ぐな視線に、思わず背筋を伸ばしてしまう。

「なぁ、一緒に秘書課を目指さないか?」

「え?」

「そのスキル、秘書課で活かせるだろ?」

「……」

 真剣な眼差しを受け止め切れなくて視線を外してしまった。無意識に唇が下向きの弧を描く。そんなことに構うことなく隆司が言葉を続ける。

「一緒に研修を受けて思ったんだ。光葉は正に秘書が適任だと思……」

「ごめん!」

 思わず隆司の言葉を遮ってしまった。

 ガタンと椅子を鳴らして立ち上がると、荷物を乱暴に掴んで講堂から走り出た。逃げ出したも同然だった。

(……無理!)

 強く唇を閉じたまま自室を目指す。部屋のドアが見えてカードキーを取り出そうとした時、抱くように持っていた荷物を床にばらまいてしまった。

「もう!」

 開けたドアの中に向かって散乱した荷物を無茶苦茶に放り込むと、両手でドアを勢い良く閉めた。俯いたままメガネを投げてスーツ脱ぎ捨てると、いつもより勢いを付けてベッドに倒れ込んだ。

 顔に当たる空のゼリー飲料の容器が鬱陶しい。それに、ベッドや部屋に溢れるゴミや洗っていない服の存在が頭の隅でちらついて、イライラしてしまう。

「秘書課なんて……」

 下向きの弧を描いた唇がさらに歪んでしまう。

 隆司は良友になれそうな人だ。秘書課を目指しているというだけあって、試問やレポートのスピードもいい。見た目もスタイルも申し分がなく、同性から見ても魅力を感じられる。

「でも……」

 思わず唇を噛んでしまった。チリッとした痛みが走る。


 僕は、彼が思うほどできた人間じゃない。


 隆司を始め、講師や同期の者達、誰一人として「今の光葉」を想像できないだろう。

 足の踏み場も無い汚部屋で一糸纏わぬ姿になり、ベッドに寝転がるだけでなにもしないオフの虜だなんて、軽蔑されるだけでは済まないだろう。

「あのカップルの方がまだ普通かも」

 ファッションセンスも良く、有益なモノに敏感で、堂々と甘えることができ、作為的とはいえ感情豊かに人の心を揺さぶるしたたかな人達――。彼等の方が社会に適応しているように思えた。

「こんな僕は……駄目だ……」

 ズキッと胸の奥が痛んだ。自分を否定する暗い感情が次々と湧いてきてしまう。

 せっかくのオフが台無しだ。

 全部、忘れろ!

 そう自分に言い聞かせながらギュッと強く目を閉じた。頑張って眠ろうとしたが、心の霧がどんどん濃くなっていってしまう。

 消えない不快感に苛立ってしまって、何度もバシバシと枕に八つ当たりするのだった。

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