「――本日の予定は以上です」
「ご苦労様」
代表代行・神統隆司のデスクは今日も書類が山積みだった。
まさに分刻みのスケジュールにうんざりしながら、隆司は窓の外に目を向けた。
眼下に広がるのは天下の首都高速だが、今朝もみごとな渋滞でほとんど動いていない。見える範囲のもの全てが行き詰まっているようで息苦しかった。
「……」
なんとかならないものだろうか。
もう、何度そう思っただろう。
上手く言えないが、様々なことを簡素化・合理化できれば余裕が生まれて効率が上がるような気がする。もっと違った角度から諸課題に取り組むことができ、業績アップに繋がっていくはずだ。
(あいつなら……光葉なら、どんなアプローチを……)
考えかけたところで思考を止めた。
違う。そうじゃないのだ。
フッと溜め息を吐き、時計を見た。今日、最初の会議まであと十五分と言ったところか。この時間に一枚でも多くの決裁文書に目を通さなければならなかった。
「……」
取った書類に総務部長の押印があった。
思えば、そろそろ新入社員の配属先が決まる頃だ。光葉はどこを希望しただろう。やはり、オフ時間を大切にできるところだろうか。
まぁ、どこを希望したところで社長や副社長と直接やりとりすることはない。そう、自分と接する機会はないのだ。
(もう、長く会ってない……)
落ち着いたら連絡する――。
自分から言った約束を忘れたわけではない。
無性に会いたくなる夜もあった。無理を言って秘書に調整させれば、少しくらい時間を作ることはできただろう。だが、オフを満喫しているであろう光葉を思うと、自制心が働いた。
一度、目を閉じてから意識を書類に向けた時だった。
「ところで隆司様。新入社員の配属先リストが上がってきております。人事に一任する、とのことでしたが、ご覧になりますか?」
秘書の言葉に「いい」と答えそうになった隆司だったが、思い直して手を伸ばした。やはり、この目で確かめておきたい、という気持ちが勝った。
「……」
差し出されたリストには、ズラリと名前が並んでいた。
「?」
最後まで目を通したが光葉の名前は無かった。
念のため、総務課や資料管理課など、業務量が把握し易くオフを取りやすい課を三回見直したが、やはり「須田光葉」の名前は無かった。
「……今年の新入社員だが、研修中に脱落した者は居たか?」
「いいえ、おりません」
「では、その後、退職した者は?」
「いえ、おりません」
では、どういうことだろう。
隆司が再び名前をひとつずつ見直していると、秘書がカサッと一枚の紙を差し出してきた。
「申し訳ございません。一名、提出期限の延長を願い出た者が居ました。ちょうど今、直接提出されてきました。大変期待の持てる新人とのことで、人事の一存で本日まで提出を延期したと聞いております」
「見せてくれ」
隆司が受け取った書類には須田光葉とあった。一気に心臓が高鳴る。視線を向けた希望配属先は……。
秘書課、神統隆司氏 専属希望。
さらに――。
「持っている資格や研修中の成績、いずれを見ても秘書になるべくして、と言いたいところですが『ラクガキ』をしたままの書類を提出するというのは少々考え物かと。彼の希望通りになさるのでしたら、今一度、身辺調査を……」
大真面目に言う秘書の前で、隆司はプッと吹き出した。
「必要無い。それに、これは『ラクガキ』じゃない」
希望調書の端に書かれていたのは、長短さまざまな線と点――。
隆司はそれを指でなぞった。
好きだよ
首を洗って、待っていろ
首を傾げる秘書の前で、隆司はハッと顔を上げた。
「今、何と言った!」
「はい? 今一度、身辺調査を……」
「そうじゃない! コレだ! コレを直接、提出してきた?」
「はい。つい、さきほど……」
隆司は身を跳ねさせた。部屋を飛び出し、廊下を全力で走った。
「光葉!」
居た!
エレベーターホールに飾られた大きな生け花の前で光葉が振り返った。
会いたくて堪らなかった者に向かって無意識に腕を伸ばしながら、今、まさに駆け寄ろうとした時だった。
「来ないで!」
「へ?」
隆司は反射的に足を止めた。驚きのあまり、情けない声を出してしまう。
「ど、どうして……」
困惑顔で尋ねると、光葉はフイッと顔を背けた。
「僕、怒ってるんで!」
「え?」
「……ずっと……、ずっと連絡待ってたのに!」
ぐうの音も出ないとはこのことか。
「ごめん。忙しくて……」
月並みな言い訳しかできなかった。これで許されるなら、世の中の問題、八割は解決するだろう。
目の前に居るのに手も足も、言葉さえも出せず、立ち尽くさざるを得ない。光葉の憮然とした表情をただただ見詰めることしかできなかった。
「分かってる」
光葉の語気が強くなった。
「分かってる。……分かってるよ。忙しいのは、分かってる」
まるで、自分の心を宥めるかのような言い方だった。そして続いた力強い言葉に隆司は息を飲んだ。
「忙しいって分かってるから、僕が隆司のところへ行くんだ。――まぁ、希望が通れば、だけど」
「は? そりゃ通るだろ! いや、俺が通すし!」
即答しながらも、隆司の表情は複雑だった。
光葉が秘書課に来るのは嬉しい。だが……。
「通すんだったら、なんでそんなに困った顔してるの?」
「いや、だって、お前……、秘書課に来たら、オフのぐうたら……いや、リフレッシュを思う存分なんて保証はできないぞ」
「あぁ、それ?」
光葉が口角をツイッと吊り上げた。
「僕、気付いたんだ」
「気付いた?」
「うん。オフの快感は、オンが充実してこそだって」
「それは――、まぁ、確かに」
光葉の言葉は正しいが秘書課の忙しさは「充実」などと生易しいものではない。
「それに、さ。僕を誰だと思ってる?」
「え?」
信じられないくらい自信たっぷりの言い方に、隆司は言葉を失った。
「僕は天下の神統商事の期待の新星! リフレッシュに足るオフがないなら、取れるようにするまで!」
凜と言い放った光葉は、咲き誇る花が放つ美しさと炎のような強さをまとっていた。
「……全く、光葉には驚かされるばかりだ」
「惚れ直した?」
冗談めかして言った後、自分で耐えられなくなって赤面する姿に、思わず隆司は間を詰めた。
「惚れ直すもなにも、ベタ惚れだよ!」
隆司は万感の思いを腕に込めた。そして、より確実に伝えるため唇を塞いだ。
最も繊細で敏感な唇は、触れ合うだけであらゆる想いを伝えられる。
ひとつに重なり合った影は長く離れることはなかった――。
この後、神統商事は業績を伸ばすだけでなく、トップダウンとボトムアップのハイブリッドとも言える合理的社内体系を構築。福利厚生面でも優良な企業として名実ともに日本のTOP企業の地位を確立する。
その大躍進の陰に辣腕を振るう若き副社長と、その公私を支えた秘書の存在があったのだが、それはまた、別のお話――。