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第十話

 点滴スタンドと一緒に病室を出た時には午後十時を過ぎていた。

「……」

 救急搬送されて検査を受けた後、喉の軽い火傷と栄養失調という診断を受けた。個室に案内され、点滴が始まったのが約一時間前だ。

「暇……」

 一人になって大して時間が経っていないのに、困惑するほど退屈していた。

 あらゆることから解放され、何の心配もせずに療養すればいいという今は、いわゆる最高のオフ時間だ。しかし、自分でも信じられないくらいテンションが低かった。

 病院で借りたパジャマ姿で誰も居ない廊下をゆっくりと進む。

 入院患者用のデイルームで足を止めた。誰も居ないのにTVが付いていた。先に見ていた誰かが付けっぱなしにしていたようだ。

 ワイドショーのような番組だった。興味は無かったが、なにもすることがないのでソファに座ってぼんやりと画面を見た。

 それにしても、栄養失調とは情けない。食事くらいまともに摂らないと――。

 少しだけ反省していると突然、TV画面が上下左右に揺れた。そして「神統商事CEO、緊急搬送」という大きな文字が出た。メガネのない光葉でさえ読めるほど大きな文字だった。

「えぇぇ!」

 思わず身を乗り出した。

 画面に映し出された病院を指差しながら女性レポーターが喋り始める。

「神統商事CEOって、あの……入社式で喋ってた?」

 CEOが搬送されたのは午前七時過ぎ。日課のジョギングをしている最中に公園で倒れ、都内の病院に運び込まれたという。すぐに緊急手術が行われ、午後四時から緊急記者会見が開かれる、とレポーターが話している。もう夜十時を過ぎているから、この番組は今日一日の内容をまとめた物ということだろう。

「はぁぁぁ?」

 切り替わった画面を見た瞬間、素っ頓狂な声が出た。

 多くのマイクとボイスレコーダーが置かれたテーブルを前に立つ男性に目が釘付けになる。画面には「長男・神統隆司氏」とテロップが出ていた。

「りゅ……!」

 慌ててTVに詰め寄った。その拍子、点滴スタンドにつまずいて転びそうになった。

「あ!」

「おっと!」

 気が付いた時には黒いスーツに包まれた腕に抱き留められていた。

「大丈夫か?」

 ひょい、と抱き上げられ、ソファに座らされた。続けてメガネを付けられる。ぼやけていた視界が鮮明になり、拓野の顔が見えた。

「え! あ! え! ……えぇぇぇぇ!」

 目の前の顔とTVを何度も見比べ、指差しながらアタフタした光葉は、おもむろに立ち上がると拓野の頬をギュッとつねった。

「痛ぇ!」

「ゆ、夢……」

「夢じゃ無い。あれは録画。囲まれたのは夕方だ」

「……」

 光葉は理解した。

「ほんと、に……しゃちょ……の……」

「……ホントだよ。言ったじゃないか」

「……」

 本当に社長の息子だった。

 だから、あの十階の豪華な部屋が用意されたし、火事の時も防災グッズや施設設備を熟知していた上、リーダーシップを発揮して混乱する火災現場を治められた。

 拓野(TAKUNO)と、神統(KANTOU)は、いわゆるアナグラム。少し考えればもっと早く気付けただろう。

 光葉は色々と納得しながら「次期社長」の顔を見詰めた。

「遅くなって悪かった。ほら、スマホと財布、あと、一応、タブレットも持って来た」

「あ、あり……が……」

 上手く言葉が出て来なかった。喉の火傷のせいもあるが、色々な想いが胸の中で混乱していて、涙という形で溢れ出た。自分が安堵しているのか、文句を言いたいのか、嬉しいのか……。感情が入り交じっていて言葉が出て来ない。

 両手にタブレットとスマホ、そして財布を持ちながら、ただただ涙を零し続けた。

「光葉……ごめん」

 ギュッと抱き締められた。点滴スタンドが揺れ、カランと音が鳴る。

「ほんと、ごめん」

 繰り返された謝罪の言葉を否定するように首を左右に振った。

 彼は悪く無い。なにも謝る必要はないのだ。

「俺がもっと早く着いていれば……」

 自責の念に満ちた言葉に対し、必死になって首を左右に振り続けた。

 助けてもらわなければ今頃、霊安室に居ただろう。「ありがとう」と伝えたくて、必死に口を動かしたが、声は掠れ、空気が漏れるばかりで思うような言葉が全く出て来ない。

 言葉の代わりとでもいうように隆司の腕の力が強くなった。心地良い締め付けに目を閉じた。

 ずっとこうしていたい――。

 そう思った時、拘束が解けた。

「光葉に出会えて良かった」

 どこか寂しそうな顔で言う隆司が見えた。

「楽しかった」

 噛み締めるような言い方に、怪訝そうに首を傾げてみせる。

「ありがとう、光葉」

 続いた言葉に目を見開いた。

「さよなら」

 思わず隆司の腕を掴んだ。しかし、状況は変わらなかった。そっと反対の手を重ねて来た隆司が、ゆっくりと首を左右に振った。

「研修には戻れない」

「!」

 どうして! と唇を動かしたところへ、別の声が割って入った。

「お時間です、隆司様。お急ぎください」

 弾かれたように視線を向けると隆司が答えた。

「父の秘書だ。社長代行の俺をサポートしてくれる」

 代行? と目で尋ねたが、すぐに理解できた。社長が倒れた今、次期社長である息子が臨時代表として立つのは自然なことだ。

「研修受けて、現場を見て、何年間か役員秘書で経験を積んでから副社長、という予定だったんだが、そうも言ってられなくなった」

 光葉はゆっくりと指を解いた。

 今の告白で理解した。目の前に居るのは、たやすく近付いて良い相手ではない。

 そして、これからは、簡単には会えないということも――。

「……」

 キュッと唇を噛んだ。柳眉が下がる。胸に広がった喪失感と孤独感のせいで顔がクシャッと崩れた。

「そんな顔をするなよ。キスしたくなるだろ」

 絞り出すような声を聞いて、迷った挙げ句、半歩だけ前に出た。そして、ツイ、と上を向く。

 スゥッと瞼を閉じた。長い睫毛が震えていた。

「――」

 メガネをそっと外された。柔らかく繊細な感触が二人を繋ぐ。

「……」

 重なっていたのは刹那だった。儚すぎる繋がりに胸を激しく掻き乱された時、力強い声を聞いた。

「好きだ、光葉」

 光葉は深く頷いた。出せない声の代わりに、何度も頷いて同意の意を伝える。

「俺の都合を押し付けてすまない。でも、今は一緒に居られないんだ。落ち着いたら連絡する。オフの時に、会ってくれるか?」

 答えは決まっていた。

 安堵の表情を浮かべた隆司は、光葉の目元にそっと唇を当ててからメガネを返してくれた。

「……」

 大きな背中があっという間に消えて行く。

 光葉の目に残った残像は、一緒にポップコーンを食べながら映画を見たり、ソファで転げながら対戦ゲームをしたりした隆司ではなかった。

 何千という者の人生を両肩に負った組織のトップ――神統商事 代表代行・神統隆司、その人であった。

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