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第九話

 月曜日の講堂は、憂鬱な雰囲気に包まれていた。

 あちらこちらの席から「最悪」とか「全然分からないんだけど」といった悲鳴に近い声が上がっている。しかし、そんなことはどうでもいい。もっと大きな問題が光葉を襲っていた。

「……」

 あと三十秒で八時半になるのに、隣が空席なのだ。講師は既に教壇に立っていて、試問の説明スライドを準備している。

「なんで来ないの? メッセージも既読にもならないし」

 手に持ったままのスマホをタンタンッと操作し、スタンプを送信した。これで五通目だ。だが、返信どころか、既読にもならない。変な汗が出て来た。手の平を何度も拭きながらスマホを握り直し、出入口を見詰める。

 ついに、始業の鐘が鳴った。

「では、タブレット以外の物を全て片付けてください。スマホはマナーモードにして鞄へ。これより九十分間の記述式試問を開始します」

 講師が試問の開始を宣言した。講堂の扉が閉められ、場が緊張に包まれる。

(来なかった……)

 試問自体は問題ではない。しかし、拓野が現れないせいで心中、穏やかでは居られなかった。

 難なく午前中の試問を終えてから、昼休みに拓野の部屋を訪ねてみた。

 部屋のインターフォンを何度鳴らしても返事はなく、スマホのメッセージも既読にならない。

「……どうして……?」

 言いようのない不安が込み上げてきて、どうしようもなく焦ってしまう。

 スマホを握り締めたまま、許される限りの時間を使って部屋の前で待っていたが、拓野は現れなかった。

 結局、独りで最前列に座り、午後の講義を受け終えてしまった。

 レポート課題に取り組むワークタイム中に、速記で午後の講義のまとめを作って写真に撮り、アプリで拓野に送ったが、反応はなかった。

「……どうしたんだよ」

 なにかあったのなら、ひと言くらいメッセージが欲しかった。そういう仲になれていなかったのか? と思うと、なんだか寂しくてやるせない気持ちになってしまう。

 いつもよりも遅い足取りで自室に戻り、投げやりにメガネを放った。体が酷く重かった。

「なにか反応して欲しいよ……」

 懇願するように呟いてからベッドに倒れ込む。次、目を開けた時に返事があれば……。そんなことを思いながら全裸で意識を手放した。

 どれくらい時間が経っただろう。妙な臭いで目が覚めた。

「?」

 部屋が真っ暗だ。おかしい。照明は部屋に入れば自動で点くし、消した覚えはない。それに、空気が変だ。

「なんか、熱い?」

 そう思った瞬間、ゲホゲホッと咳き込んだ。煙だ。部屋に煙が充満していた。

「え? なに? ケホッ! 火事?」

 外が騒がしかった。どこかで、火災報知器が鳴っている。

 全身の毛が逆立った。これは、本物の火事だ。

 まずい!

 起き上がろうとしたが、激しい目眩に襲われた。

「え……な、んで……」

 平衡感覚がおかしかった。真っ暗な中で世界がグルグルと回っているような錯覚に陥ってしまう。しかもキーンという耳鳴りがして、徐々に音が聞こえなくなっていくではないか。

「うそ……」

 気持ちが焦るのに体の自由が利かない。変な汗が流れるばかりだ。

 思えば、実家を出て以降、口にするのはゼリー飲料ばかりで、まともに食事を摂っていなかった。目眩や耳鳴りはそのせいだろう。

 煙がどんどん濃くなってくる。

 這ってでも逃げないと!

 そう思って両手足を動かそうとするが、体がいうことをきかず、ベッドから落ちてしまった。床が熱い。下の階が燃えているのだろうか。

「うそ……、このまま、僕、火に……」

 その先は想像したくもない。

 甲高い耳鳴りが大きくなっていくのに反比例して意識が遠退いていく。状況を正確に把握できないのに、気を失っていくことが鮮明に分かって怖かった。

(うそ! うそ! 誰か!)

 消えゆく意識の中で光葉の脳裏を過去の記憶が走り始めた。

(そんな! これ、走馬燈?)

 必死に勉強した記憶。

 高校で成績が落ちてしまった時に、波打ち際で長く立ち尽くした記憶。

 大学の志望校に合格した記憶。

 英語の論文を手に、サークル活動ではしゃぐ同級生を遠くから見詰めていた記憶。

 就活の記憶。

 一次合格、二次合格……と、結果のメールを待っていた時の記憶。

 そして、神統商事に入社し、彼と出会った記憶――。

「……じ。りゅう……じ……」

 記憶の中で、ニヤッと口角を歪める笑みが見えた。そちらへ手を伸ばそうとするのに体が動かず、暗闇が迫って来る。

「いや……だ。りゅう、じ……隆司……」

 幻想が煙に包まれた。

 空気が熱い。

 吸うのは煙ばかりで息ができない。

 その苦しさも曖昧なものに変わり始めた時だった。

「光葉!」

 薄れかけた意識が一気に覚醒するほどの大声が聞こえた。

 直後、ドンッとなにかにぶつかる衝撃を感じた。

「光葉! 光葉! しっかりしろ、光葉!」

 骨が折れそうなほど強く抱き締められた。同時に力強い声で何度も呼ばれる。

「目を開けろ! 俺だ、隆司だ!」

 ビリビリッと空気が震えるほどの声だった。

「りゅ……じ?」

 抱き締められた痛みで目を開き、掠れた喉でなんとか答えた。

「逃げるぞ!」

 体が揺れた。抱き上げられたが、あまりに煙が濃くて息ができない。

「ゲホッ! ゲホゲホッ!」

 思いっきり煙を吸ってしまって激しく咳き込んだ。

「これで口元を覆うんだ! 大丈夫だから!」

 ビリッと袋を破る音が聞こえた。冷たい濡れタオルを握らされる。拓野はどこからかレスキュータオルを取ってきていた。言われたとおりにしていると、毛布で全身をくるまれた。

「いくぞ!」

 抱き上げられ、あっという間に部屋を出た。

 廊下にも煙が充満していて何も見えないのに、拓野は迷わず走って行く。まるで全てが見えているかのようだ。光葉はただ、ギュッと拓野にしがみついていた。

「!」

 突然、拓野が立ち止まった。

「?」

「防火シャッターか」

「え……」

 拓野の呟きに息を飲んだ。

 目の前に重々しい防火シャッターが立ち塞がっていた。それは「閉じ込められた」ことを意味していた。

 煙は濃くなる一方だ。拓野も咳をし始めていた。

 前は防火シャッター、後ろは煙で、下の階は火の海――。

 しかも、ここは三階。飛び降りることなど不可能だ。

 絶体絶命――。

 光葉は拓野の首にしがみついた。

 その時だった。

「大丈夫だ。行こう」

「え?」

 フッと口元を緩めた拓野がクルリと向きを変えた。そして、再び猛然と走り出した。光葉を抱いているというのに物凄い速さだ。真っ暗な中をまるで目標物が見えているかのように駆けて行く。

「……九、十、十一、十二……」

 拓野は数を数えていた。歩数を数えているのだ。曲がっては一から数え直し、また曲がって数え直して……。それを繰り返し、やがて、あるドアをバンッと叩いた。

「よし!」

 辿り着いたのは物置部屋だった。火元から離れていて煙が少なく、楽に息ができた。

「ちょっと待っていてくれ」

 拓野の口調は優しかった。壁にもたれかかって座っていると、ガタガタと音がした。拓野が何かを探していた。少ししてパッと明かりが点いた。懐中電灯だ。

「ここは?」

 掠れた声で尋ねると、拓野がニッと笑った。

「別棟の西の端。脱出用シューターがあるんだ。準備するから懐中電灯を持っていてくれ」

 半信半疑で懐中電灯を持っていると、拓野が奥のドアを押し開けてベランダに出て行った。

「……」

 拓野の手によってベランダにあった大きな箱が開けられる。どうやら脱出用のシューターらしい。壁伝いにゆっくりと歩いて拓野に近付く。

「よし、いいぞ! 光葉、行け!」

「!」

 シューターの準備が整ったようだ。

 しかし、いきなり「行け」と言われて「はい、行きます」と言える者がどれくらい居るだろう。ここは三階。暗い外へ向かって垂直に落ちている白い布袋の中へ「入れ」と言われても恐怖心が先立ってしまう。

「俺を信じろ。大丈夫だ」

 拓野がもう一度「信じろ」と言って力強く頷いた。同時に、コツンと額を触れ合わせ両頬を優しく撫でてくれる。

「大丈夫だから。な?」

「……」

 何度も「大丈夫」と言われると、そうかな、と思えてくる。なにより拓野の言葉だ。信じたいと思った。

 怖い。でも、震えながらゆっくりと頷いた。

 このまま煙や火に巻かれるのはごめんだ。懐中電灯を拓野に渡し、ゆっくりと脱出用シューターに入った。

「絶対、大丈夫。ゆっくりでいい。足から入れ。ほら、中に紐があるだろう? そこを持って少し降りれば、あとはゆっくり回転して勝手に降りていくから。さぁ!」

 拓野の冷静で力強い声に従ってそっと前に出た。シューターの中で言われた通りに紐を握り、足を降ろす。

「!」

 ギュッと目を閉じていたが、拓野の言葉は本当だった。体はゆっくりと螺旋を描いて下がっていき、やがて冷たいコンクリートに足が着いた。

「大丈夫か、光葉!」

 上から声が聞こえた。拓野が懐中電灯で照らしてくる。大丈夫! と答えたかったが、声が出ない。一生懸命手を振って応えた。

 すぐに拓野が降りてきた。懐中電灯を口に咥えた彼は、地に足が着くとすぐに光葉を抱き上げて駆けだした。

「救急車を呼べ! 君! 怪我人を頼む!」

 煙が届かない所で足を止めた拓野は、すぐに声を張って女性スタッフを呼び止めた。ハッとした表情のスタッフが駆け寄ってくる。

「もう、大丈夫だ」

 拓野に「頑張ったな」と言われた途端、安堵で涙がパタパタと溢れ出た。

「びっくりしたよな。でも、もう大丈夫。心配ない」

 優しい声が胸に染み込んでくる。緊張の糸が一気に解けて、涙が止まらなかった。

 拓野は走ってきたスタッフに「入浴中だった」と告げてから走って行った。光葉はスタッフに連れられて批難することになった。

「あ……」

 拓野も一緒に、と言いたかったが、拓野はずっと向こうの方で声を張っていた。

「外へ出た者から部屋番号を聞き出せ! スマホの録音機能を使って記録するんだ! 全員の無事を確認するぞ!」

 どうやら、周囲の人々に指示を与えているようだ。

「火元は二階だ! 手伝え! そこにある消火栓を使うぞ!」

 なんと、拓野は逃げずに初期消火を試みるらしい。


 発信器を押せ!

 ポンプを起動だ!

 ホースを伸ばせ!

 よし! 放水始め!


 混乱した現場に、拓野の力強い指示が矢継ぎ早に飛ぶ。応答する声が次々と上がり、鎮火と救助という統制のとれた動きが生まれていくではないか。

「すご……、りゅうじ……」

 二人で見た映画が思い出された。窮地に陥るものの力強く立ち上がり、皆の力を結集して成功を掴む姿は、正にヒーローだ。

「かっこ……いい……」

 ずっと見ていたかった。いや、できれば一緒に鎮火を試みたかった。

 しかし、意識が遠退いて行く。

 強い安堵と熱い思いを胸に感じながら、光葉は救急搬送されていったのだった。

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